デカルトの『省察』(2)第三省察

哲学/思想

(1)のつづき

 

第三省察、神の存在証明

こうして私は、私に考えうる限り確実なものへと、辿り着きました。
しかし、まだ気がかりなことがひとつ残っています。
私は今までの経験で、まったく確実で明白だと思っていたものが、後になって疑わしいものや誤りであることに気づくことがありました。
例えば、先ほどの感覚の欺きや、数学的真理における欺く神の想定です。
私は私の辿り着いた明証性や確実性を信じながら、ひょっとして全能の神がその気になれば、なお私を欺くことがありうるのではないかという懸念が残るのです。

そもそも欺く神という想定が形而上学的なこじつけの様で、疑いの理由として弱すぎます。
まだ神がいるかどうかすら、十分に分かってもいないのに。
しかし、いかなる疑いの理由であれそれを取り除く必要があります。
そうでなければ、どんな事柄であれ、十分な確信がもてないままになってしまうからです。
神はいるのかいないのか、もしいたとすれば神は欺く者であるかどうか、明確にしなければなりません。

まず、私の意識をいくつかのタイプ(類)に区分けし、その内のどこに真理あるいは虚偽が存するかを考察します。
私の意識のうちにあるものは、ものの像、「観念」です。
「人間」や「リンゴ」や「セイレーン」や「神」などを考える時のように。
それ(意識の対象)に加えて、私の意識はそれ以上の何か(意志や感情や判断)を含め、違った形でとらえることもあります。
例えば、ライオンの観念に恐怖の感情が加わる時、単純にライオンを見ること以上の、別のあり様です。

まず、観念について言えば、それを他の何かに関係付けない限りは、それ自体で偽であるということはありません。
馬の想像も、ペガサスの想像も、それ自体においてはともに真です。
問題が出てくるのは、関係付け(判断)においてです。
ペガサスが偽となるのは、現実や馬と関係付けられた時です。
意志や感情についても同様、いかに歪んだものや存在しないものを欲しようが恐れようが、その意志そのものや感情そのものは真であり、問題は判断の誤りです。

判断が誤る(偽なるものを生む)主な原因は、私の内にある観念が、私の外にある何ものか(事物)に似ている、あるいは合致していると、判断してしまうことです。
もし、私がもつ観念を、ある何ものかと関係付けなければ、そもそも誤りというものが存在しえません。

ところで、この観念というものには三つのものがあります。
1.私の本性に由来する生得的な観念(ものとは何か、思惟とは何か、真理とは何か、など)
2.感覚を介して外からくる外来の観念(工事の騒音や、太陽の円光や、炎の熱など、)
3.私自身によって作られる作為的な観念(セイレーンや、ペガサスや、ケンタウロスなど)

ここで、いま主題となっている、外に存在すると考えられる外来観念について、考察していきます。
ある観念を外にあるものに似ていると考える(判断する)のは、人間が自然に学んだものだと思われます。
それらの観念は、私の意志に依存せず、時に意志に反して現れます。
例えば、私が熱さを感じた時、この熱の観念は、目の前の炎から私の方へやってきた(炎がその似姿を私へ送り込む)と、無意識的に判断します。
自然に学んだといっても、これは私自身のおのずからなる傾向によってそう信じるようになったということであり、なにか自明な自然の光によって与えられたわけではありません。

しかし、私の意志に依存しないからといって、それらの観念が外にある事物から出てこなければならないという必然性はありません。
意志とは別の、私にはまだよく分かっていない、私の内の何らかの能力によって生じているかもしれないからです。
例えば、夢のように、外的事物なしに私の内に観念を作り出す能力のような。

また、たとえそれが私の外の事物から出たものであったとしても、その観念が当の事物に似ていなければならないという必然性もありません。
例えば、太陽は、感覚によってとらえられた観念(外来観念)としては地球よりはるかに小さく、天文学上の推論によってとらえられた観念(作為観念)としては地球よりはるかに大きく、どちらも太陽に似ていないどころか、むしろ太陽から直接的に受け取った観念(感覚によって受容された-外来観念-)の方が似ていません。

以上の考察で次のことが理解されます。
私とは違った何かが私の外に存在し、それが私の感覚器官などを通して、外的事物自らの観念あるいは像を、私の内に送り込む、ということを信じてきたのは、正確な判断ではなく、ただの盲目的な衝動でしかないということです。

しかし、それで外的な存在の可能性が断たれたわけではありません。
もし、私の持つ観念の内に、私自身によってでは形成不可能なものがあれば、必然的に私以外の存在にその観念の原因を求めなければならなくなり、それによって外的な存在が証明されるはずです。

そこで「熱い石(太陽)」について考えてみます。
今までなかった「石」というものが存在しはじめる(結果する)ためには、その石の内にあるすべてのものを、自己の内に有する存在という原因がなければ不可能です。
今まで熱くなったものが熱くなる場合、その熱の可能性をすべて含む存在(原因)が前提となるはずです。
熱や石の観念が私の内にある時、その熱や石の観念と同等以上の実在性を自己の内に含むある原因によって置かれるのでなければ、成立不可能です。
その観念を生んだ原因の内に含まないものを、観念はもつことができません。
私の内にある観念は、それを産出したもとの事物の完全性を失うことはあっても、より多く含むことはありえません。

【用語解説】
ここでデカルトは、「表象(表現)的実在性」と「形相的実在性」という概念を導入します。
「表象(表現)的実在性」とは、私の知性に観念として(観念を介して)表象(表現)されている事物の実在性です。
「形相的実在性」とは、その観念の向こう(起源、原因)にある、事物そのものの実在性のことです。
事物そのものと言っても、それは単純に外的事物を指しているのではなく、私以外の存在の探求をしている現考察段階では(私の内にあるか外にあるか)所在のはっきりしない不明の概念であり、「表現の向こうに確かにある何ものか」として捉えられています。
当然、表象的実在性は元のものの表現であるため、元になる形相的実在性より小さく、それには段階(度合い)があり、表象的実在性が大きくなればなるほど、元のもの(形相的実在性)に近づいていきます。
表象的実在性の度合いにおいて、実体の観念は様態の観念より大きいと述べられます。
ある観念が、自体的にある「実体」か、その実体に依存する付帯的にある「様態」かの、存在論的カテゴリー(アリストテレスの項を参照)によって、その度合いがはかられています。
【ここまで解説】

もし、私のもつある観念の表象的実在性が極めて大きく、私の内に形相的実在性をもてないほど過剰な観念があるとしたら、私自身がその観念の原因であることはできないはずです。
私がその観念の原因でないということは、必然的に、世界には私以外の存在、その観念の原因となる他の事物が存在するということが証明されることになります。
逆に、そういう観念が見出せなかったとしたら、私の外に在る存在を確信させるような根拠はないことになります。

そこでいくつかの代表的な観念を考察してみます。
私自身については以前に十分考察しました。
では、他の人間や動物や天使などの観念はどうでしょうか。
もし仮に、私以外の人間や、動物や天使などが世界にいなかったとしても、それらの観念は、私が持っている「私」と「物体」と「神」についての観念によって複合し、生み出すことができます(馬+鳥=ペガサス、のように)。
それは、他人や動物や天使などの観念の原因は私の内に求めることが可能であり、外的存在の根拠にはならないということです。

では、その「物体」である物体的事物の観念についてはどうでしょうか。
個々の物体的事物の観念を検討してみても、先の蜜蝋の考察と同様の結果であり、それらの観念において私が明晰にとらえるのは、ごくわずかなもの(延長、形態、位置、運動-位置の変化-、持続、実体、数)でしかありません。
それらにも、私自身から生起したと思えないほど過剰な観念は見当たりません。
「私(思惟実体)」と「物体」が相当異なった概念であったとしても、ともに実体(それ自身によって存在しているもの)であり、延長、形態、位置、運動という実体の様態を共通して持っています。
物体を実体(の観念)としてとらえられるのは、そもそも私が実体であるからです。
実体の観念が私の内にありうるのは、私が実体であるという限りにおいてのみです。
[例えば、私が持つ石の実体の観念は「実体の観念」の様態として把握され、私が持つ私の実体の観念は「実体の観念」の実体として把握されるがゆえに、「実体の観念」の表象的実在性の度合いにおいて、物体的事物より私の方が大である(優越している)ということです。たぶん。]

では、光、色、音、香り、味、熱(冷)などはどうでしょうか。
これらの観念は事物(存在するもの)の観念とは言い難いでしょう。
これは観念が事物でないものをあたかも事物であるかのように表現する、ある種の虚偽であるように思えます。
そもそも熱(冷)の観念とは何なのでしょうか。
熱とは冷の欠如か、冷とは熱の欠如か、どちらが実在的な性質を持ち、どちらがそうでないのか。
片方を実在として立てれば、もう片方は虚偽となるような、相対的で曖昧なものなのです。
それはいかなる事物も表現していないか、もしそうでないとしても、ほとんど事物でないもの(存在しないもの)と区別のつかないほど、極めてわずかな実在性しかもっていません。

最後に残るものは神の観念のみです。
私自身に由来しない過剰なものがそこに何かあるでしょうか。
それは、無限で、完全に独立しており、すべてを知り、すべてが可能であり、私と他のものすべてを創造した実体です。
その観念は、当然のごとく、私からはみ出るものであり、必然的に神の存在が結論として導出されます。

無限は有限の否定ではなく、有限に先行するものです。
私は自分の有限性(疑い欲する存在、いわば不完全性と欠如のうちにある自己)を、一体何によって理解しているのでしょうか。
先行する完全な存在者の観念との比較なしに、私が自己の欠陥を認識することなど不可能です。
この観念は、有限な私において最も明晰でありつつ、同時に神の内には私には決して把握することのできないものが無数に含まれているという不可知な無限者として認識されるのです。

逆から言えば、もし、こうした完全な存在者の観念をもつ私自身が、これを失ったとしたなら、そもそも私は存在することができるのでしょうか。
私がただ私自身によって存在するとすれば、私は疑うことも、欲する(欠如を補う)こともなく、何ら欠けたもののないすべての完全性を自身に与え持つ者、つまり私自身が神であったはず。
私自身の原因が私自身であるなら、完全に充足した存在者であるはずであり、自己の欠如や、自己を超えた外部の存在を考えることはできなかったでしょう。

また、時間というものは、無数の部分に分割することが可能です。
しかし、少し前(の時間)に私が存在したということから、いま(の時間)私が存在しなくてはならない必然性はないはずです。
そのためには何らかのもの(原因)が、私を今という瞬間に再創造し、私を保存する必要があります。
保存と連続的な再創造は、考え方(とらえ方)の上で異なるだけです。
ここで私は自身に問わねばなりません。
私にそんな創造的な力があるのかどうかを。
そして、その私の無能力の自覚を前にして、私を超えた存在者を明証的に認識せざるをえないのです。

では、完全な存在者(神)の観念を、不完全で有限な私はどうやって受け取ったのでしょうか。
まず、感覚的な事物を感覚器官で受け取る時のように、偶然あらわれるものではありません(外来観念ではないということ)。
さらに、私がつくり上げたものでもありません(作為観念ではないということ)。
なぜなら、完全なものからは何かを取り去ることも付け加えることもできず、構成不可能だからです。
残るものは、私に生得的に与えられた観念のみです(生得観念であるということ)。

神が私を創造したとき、~その観念を私のうちに植えつけたということは、なんら驚くべきことではない。~私がある意味で神の像と似姿にかたどって作られていること、そして、神の観念がそのうちに含まれているところのその似姿は、私自身が私を認識するのと同じ能力によって私によって認識されることはきわめて信じうることなのである。言いかえれば、精神の目を私自身に向けるとき、私は不完全で他に依存しているものであり、より大きなもの、さらにより大きなもの、すなわちよりよいものを、限りなく求めていることを私は理解しているが、それだけでなく同時にまた、私が依存しているものは、それらいっそう大きなもののすべてを、ただ無祭限に可能的にもつだけではなく、実際に無限に自分のうちにもっており、かくしてそれは神であることをも理解するのである。
~すなわち、私がいまそうであるような本性をもつものとして、つまりうちに神の観念をもつものとして存在するためには、実際に神もまた存在するのでなければならないことを、私が認めることにある。私が神と言っているのは、その観念が私のうちにあるのと同じ神、つまり、私は把握することはできないが、ある仕方で思考によって触れることはできるところのすべての完全性をもち、どんな欠陥からもまったく免れている神である。これらのことから、神は欺瞞者ではありえないことは十分明らかである。
(デカルト著、山田弘明訳『省察』筑摩書房より)