バラージュの『映画の理論』(5)

(4)のつづき

<第二部>

第十三章、映画形式の問題/第十四章、アバンギャルドの形式主義

映画の本質的表現

第一部で明らかにしたのは、映画芸術が独自に獲得した表現方法についてです。
特に無声映画においてそれは強く輝き、技術の進歩によって映画に色彩やサウンドなどが付け加わると、その映画の本質的な表現は、他の芸術の表現形式によって希釈され(忘却され)ることになります。
他の芸術でも代替可能な表現ではなく、映画にしかできない、映画であるがゆえに蒙る表現の限界(個性、独自性)が、無声映画の中に顕著に現れていたということです。

純粋映画

映画独自の表現形式、創造性を獲得した無声映画は、それを究極まで推し進め、ストーリーやプロットという文学の代替表現を排除しようとします。
抽象絵画を生んだ絵画史におけるアバンギャルドの動きと同じことが、映画においても起こります(グリーンバーグの項を参考)。
主題や物語性を排除した単なる現実という素材を、直接、映像の形式のみによって、芸術的な表現とする試みです。

ここにおいては、手段の可能性が目的と一致し、形式が内容を決定することになります。
形式そのものが内容となり、形式はトートロジー(同語反復)的に形式を指示するだけであり、言葉(意味するもの)は事物(意味されるもの)ではなく言葉(意味するもの)を指す言葉になり、結局、何か語っているようで何も語っていない「無」に到達するのです。
それは創造性の枯渇した形式的遊戯であり、専門家や進歩的知識人を喜ばせる自己満足的な珍品、あるいはブルジョワの現実逃避の産物です。

しかし、この動きは新たな芸術形式を探究する実験の段階として、非常に生産的な意味を持ちました。
サイレント映画の巨匠達は、少なからずアバンギャルド派の影響を受け、それを商業ベースの一般受けする映画の中に継承したのです。

純粋なドキュメンタリー(生の現実)

この純粋映画への志向は、主人公も筋もない、演劇性や物語性を徹底的に排除し無垢な現実の素材を観せようとする純粋なドキュメンタリーに向かう流れと、純粋な視覚性の形式主義的構成、いわば視覚的映像の万華鏡による形式遊戯の、ふたつの流れに分かれます。
前者は無形式の対象を見せること、後者は無対象の形式を見せることを、目的とします。

先ずは前者(無形式の対象)から考察します。
これは結局のところ、排除しようとするものを、排除することができません。
主人公のない映画の主人公は、ただ、カメラの後ろに隠れただけであり、カメラという眼を通して、世界を見、解釈し、意味付ける姿を見せない主人となります。
また、何を映像の対象とし、どう並べるか(構成)の内に、すでに作家の世界観が開示されており、意図や脈絡のない単に時間継起する映像の中にも、観念連合による意味付け関係付け(物語化)を行わざるを得ないのが人間です。

生の素材を観せようとする芸術家は、一体何を目指しているのしょうか。
彫刻(という形式)を分解し石を見せ、家屋(という形式)を分解し木を見せ、映画(という形式)を分解し生の素材を見せようとする時、それは何でもない無を志向しているだけでしかありません。
そもそも、生の経験など存在しません。
ある体験は、周囲や前後の事物との関係性の中で、ある構成する主観によって、全体の中に統合されるがゆえに、経験として成立するのであり、主観(観点)もつながり(物語)も排除した生の純粋経験など、単なる抽象物にすぎません。

映画と現実のオーバーラップ

主人公や筋や演劇性や物語性を、いくら排除しようとしてもあいも変わらず居座りつづけ、最終的に開示されてくるのは、客観的な現実、ありのままの事実と思われているもの(私の観ている世界や、ニュース映像や新聞記事や歴史記述)すら、創作物である映画と同次元にあるという事実です。
真実とは、真実を語る者が真実だと考えるところのもの(意味と価値観)です。
リアリズム(客観)は、結局、隠蔽されたロマン主義(主観)のことなのです。

むしろ私たちは、人為的な介入可能性(演出、作為性)のない映像(例えば自然科学のデータとしての物理的映像や医学的な診断のための身体映像など)に対し、現実とは隔絶した、超現実的な不思議な感覚を憶えます。

映画と現実の弁証法

映画と現実という、この似たもの同士は、互いに影響を与え合い、左右の足を交互に出すような前進をもたらします。

例えば、自分たちの鉄道建設の記録映画を観た作業員は、強い感銘を受けます。
その映画によって、自分たちの鉄道建設の現実が芸術となったからです。
そして、それによって高揚され促進された建設工事によって、芸術は再度、新しく現実へと生まれ変わります。
そして再度、その現実は映画となり…、そのサイクルによって弁証法的な前進を実現します。
結局、この工事は、予定より半年も早く完成することになります。
[ドキュメンタリー映像による現実の芸術化は、プロパガンダ映画から、NHKの人気番組「プロジェクトX」まで、幅広く利用されています。]

映画というものは、拡大された現実、新たな経験可能性です。
私たちは映画を通して、新たな人間の類型(モデル)や新たな感情を経験し、今度はそれを現実の中で実現していくのです。

形式主義

文学的構成(物語性-時間的コンテクスト、主人公の観点-空間的コンテクスト)を排除した現実の表現は、最初に目指したリアリズムとは正反対の表現(抽象、非現実)にたどり着きます。

Hans Richter-Rhythmus 23 (1923)
Joris Ivens – Regen (1929)
[YouTubeに飛びます。]

空間的、時間的に隣接物との意味連関をもつことなしに、リアリティは存在しえないのです。
むきだしの事実を表現しようとする映画は、抽象的な絶対映画なるしかありません。
むしだしの事物(物自体)というものが、現実からの抽象によってしか把握されないのと同様に。

何も指示せず何も意味せず何も描写しない映像は、映像の万華鏡の模様や幻影の走馬灯のような、図像の戯れとなります。
現実を現実たらしめる因果律のつながりから切り離され浮遊するそれらの事物(映像)は、何の原因でも結果でもないただの模様や幻影とならざるをえません。

第十五章、視覚的トリック

カメラの技巧によって、作り手の世界観や気分を、被写体となる事物に反映させることができます。
フェードアウトやオーバーラップ、高速度または低速度撮影、ソフトフォーカスやフィルター、ディフォルメ、二重露光、逆回しや合成など、無数に数えることができます。

しかし、何度も言うように、部分(ショット)に意味を与えるのは全体であり、それと同様、カメラの効果も、それをとりまく文脈によって、潜在的な可能性の中から一定の意味付けの選択がなされることになります。

例えば、人間と樹木がオーバーラップによって示される時、ファンタジー映画の文脈では魔法的変身、一般的な文脈なら場面の変化、夢や心象のイメージの場面では連想の継起、他、詩的比喩や喜劇的ナンセンスなど、様々な意味を持ちます。
物理的変形、空間的移動、心的過程、詩的比喩、超現実、不条理…、ある技巧がどういう機能を持つかは、編集(全体)によって決定されます。

第十六章、サウンド映画

サウンド映画が、サイレント映画に、ただ音を付け加えるだけであれば、芸術表現として何の意味もありません。
音というものが、新しい表現の可能性を開き、人間に新たな現実、新たな経験をもたらす時、サウンド映画は芸術となります。
サウンド映画が、いかに音を再現するかではなく、音によって何を表現するかが問題なのです。
サイレント映画が、自然の再現ではなく、クローズアップやショット、モンタージュや観念連合によって、未知の視覚的世界を開示しえたように。

映画(絵画)的な「視点」によって、人間は自然から「風景の発見」をなしたように(第九章参照)、サウンド映画は音によって「音の風景」を発見しなければならないのです。
詩人たちが敏感な心と耳によって、世界の騒音の中から事物の声を聞き分け言葉に写したように、世界を取り巻く騒音の中から、個々の事物の表現が顕れ出た音を聞き分け、その混沌の中から個性として救い出すことです。

それはサイレント映画がクローズアップのショットによって、事物の観相を拾い上げたように、聴覚的なクローズアップによって拾い上げた音の個性(部分)を、音のモンタージュによって再構成する時、音は新たな芸術表現として生まれ変わります。
世界の雑音(混沌)に介入し、それに形式を与え、音の個性と調和を実現したサウンドの小宇宙を構築することによって、サウンド映画は新しい表現世界を創出します。

映像のクローズアップと同様、音のクローズアップも演劇には不可能であり、それはサウンド映画特有の可能性となります。
恋人(ヒロイン)の健やかな寝息を聞かせるために、演劇ホールの観客全員の息を止めさせるわけにはいきません。

これは、ラジオのような音声だけの世界でも困難であり、一部特権的な場面でしか使えません。
なぜなら、音の意味を決定するものは、視覚像だからです。
例えば、ラジオドラマは言葉による状況説明や場面描写なしには音やセリフの正しい意味を伝達できません。
サウンド映画のような音のクローズアップのモンタージュをなそうとすれば、ラジオドラマは恐ろしく多弁な状況の朗読に終始することになってしまいます。
ラジオにおける音のイメージは、語られる場面や状況の補足(音の挿絵)でしかありません。

ひとつの発話や音の意味は、どういう状況とどういう表情や動作でなされるかを見ることによって限定されるのであり、森の木の葉擦れの音と海の波音を、視覚情報なしに聞き分けることは思うほど簡単ではありません。
勿論、訓練すればある程度可能です。
猟師は森のさまざまな雑音の違いを聞き分け、盲目の人は音声情報によってかなり正確な空間把握と物の質の違いを限定できます。
一般的には人間の獲得する情報の大半が視覚情報であり、二次的に音声を利用しているため、実のところ、私たちは普段大雑把にしか音を聞いていないのです。

サウンド映画では、音を音によって説明する必要がないため、音は自由に映像と戯れ、視覚描写と聴覚描写が自前の本質表現を保ったまま統合されることになります。
音は音として、映像を規定し、映像は映像として、音を規定します。
ラジオドラマのように音によって映像を説明する代替表現でも、サイレント映画のように映像によって音を説明する代替表現でもない、各々の本質的な表現として対等に関係付けあいます。

すすり泣きの声が聴こえる。
それを聞いている人物の表情がどうであるかによって(同情、恐怖、怒り)、はじめてその音は意味を持ち、その視覚情報(表情)と同時に、耳に聞こえた音の音響的な印象も変わるのです。
同じ音でも、サイレンの音が終業のベルであれば軽やかに、空襲警報であれば、重々しい響きとして感じられます。
同じサイレンの音でも、それを聞く人物の表情の変化によって、危険の警告音か、蜂起の呼びかけか、終業のベルかが意味付けられます。
音声と映像は、互いを規定しあい、決して切り離すことのできない関係付けとなった時、サウンド映画は、ただサイレントに音を取って付けただけのものではなく、音を表現として映像に止揚(統合)することになります。

また、音はクローズアップやモンタージュだけでなく、視覚映像の時と同様に、様々な技巧を効果的に使うことができます。
音のフェードアウトや音のオーバーラップ、音の高速度または低速度撮影、音のソフトフォーカスやフィルター、音のディフォルメ、音の二重露光、音の合成など、映像の時と同様、無数に数えることができます。
[音楽の技法と映画の技法は、かなり類比的な関係にあります。]
例えば、音のオーバーラップとして、無線電信のキーを叩く音と銃撃の射撃音を重ねることによって、命令と実行の因果関係を音声の比喩として効果的に表現することができます。

おわり

※第十七章から第二十四章は副次的な考察であるため、割愛します。