バラージュの『映画の理論』(4)

芸術/メディア

 

(3)のつづき

 

第十章、編集

 

モンタージュ

勿論、前章で述べた視点(ショット、部分)の力は、それを取り巻くコンテクスト(全体)に拠ってのみ、意味を持ちます。
絵の中の一筆の色面、音楽の一つの旋律、文章の中の一つの単語、それら部分は全体との連関によってのみ存在する関係概念です。
この全体を作り出す作業が、編集(モンタージュ)です。

人間の意識は、個々の観念をつなげて(連合)、物事に意味を付与するという、本質的な作用(観念連合)を持っています。
偶然描かれたバットの絵の横の円の図形に対し、人間は避けがたくボール(凸)としての意味を付与し、偶然描かれたシャベルの横の円の図形に対し、人間は避けがたく穴(凹)としての意味を付与してしまいます。

映画の編集とは、この意識の観念連合と想像(連想)の作用を、意図的かつ外的かつ視覚的にやろうとすることです。
要は制作者の意図した方向(表現)に、鑑賞者の観念連合を操作的に導こうとするものです。
映画とは、スクリーンに投影された、人間の意識の内的観念連合です。

例えば、映画でよくある場面、「急ぎ足で部屋を出る男」「割れて散らばった部屋の花瓶」「椅子の脚元に落ちる赤い液滴」の三つのショットによって、私たちはどうしても「争いと殺人」という全体の意味の中で観念を連合してしまいます。
事実はただ、男が机の上のトマトジュースをこぼして、慌てて花瓶を落としてしまって、洗面所にタオルを取りに走っただけだったとしても。

このようにして、編集によって個々の物事の意味は、容易に反転することが可能です(メディアリテラシーで最も注意される問題です)。
「怒りのAの顔のショット→包丁で刺す手のアップ→苦痛に顔をしかめるBの顔」を編集によって、「人を刺す恐怖に顔をしかめるBの顔→包丁で刺す手のアップ→刺された恨みの怒りに震えるAの顔」と、いう風に。

 

時間経過

編集による時間の流れ(テンポ)の操作は、それだけでひとつの表現的意味を持ちます。
爆発と燃焼の違いが、その燃える速度にあるように、ひとつの出来事も速度の違いによって、じれったく燃えあがる恋愛映画のようにもなれば、激しく爆発する活劇映画のようにもなり、その意味合いは大きく変わります。

時間経過というものは、人間が物事を経験として内面化するために非常に重要な心理的要素であり、無視することはできません。
例えば、印象的な夕日の美しさは、そのゆっくり落ちる速度にあり、早送りで見る夕日は、全然美しくもなく、印象にも残りません(時間の静止した写真の方がまだマシです)。

 

ショットの連続性

ショットをつながりとして見せたい時、ショット間に形態や雰囲気の連続性を与えなければなりません(いわゆるコンティニュイティ)。
部分と部分を連続的な観念連合としてつなぐか(同アクション内の出来事)、部分と部分を観念連合として断絶するか(別アクション内の出来事)は、事実よりも、この編集の技術に拠るところが大きいのです。

例えば、「画面右に向かって走る人間」のショットに続き、反対側のカメラから撮った同じ人のショット「画面左に向かって走る人間」をつなげれば、同じ人間が走っているのではなく、二人の人間が対決するように向かい合って走っているように(観念を連合し)見えてしまいます。
形態の連続性が考慮されていない編集で、よく起こる失敗です。

 

詩的(隠喩の)モンタージュ

プドフキンの映画『母』において、労働者の革命デモのシーンに並行し、その背景のショットが挿入されます。
溶けはじめた雪の滴は小川になり、それらは合流し、やがて大河となるショットです。
雪溶け水のしぶきが、春の明るい光に輝き、労働者の明るい笑顔が水溜りに映っています。

この詩的編集の効果が表現として力をもつのは、物語に密接に関連し溶け込んだ隠喩においてです。
もし、人が怒るシーンで急に地球の裏側で噴火する火山のショットを貼り付けたり、王制が倒されるシーンで王様の彫像が台座から落ち砕けるショットを挿入したり、いかにも知的で人為的な操作としての比喩であれば、映画言語は力を発揮しません。

事前に存在する思想の暗示(代替表現)としての映画言語ではなく、映画言語自体において思想の表現であらねばならないのです。
要は、映像を通して、鑑賞者の心の中に直接思想を呼び起こすべきであり、頭で見られた映像(映像から読まれた思想)を外から内に受容させるのでは駄目なのです(それは映像に映った象形文字を読ませるようなものです)。

 

映画の時間

モンタージュ(編集)のリズム(速度)は、その物語の持つ内的リズムの外化であり、このつながりを欠いたリズム表現は、空虚で陳腐な技巧に堕ちます。

レース場面中盤、画面は静止し車はビュンビュン通り過ぎる時、編集の速度は最小で場面の速度は最大です。
ゴール前の競り合いの場面、ショットはめまぐるしく変化しながら、ゴール最後の5秒を顕微鏡で拡大したかのように数十秒に引き伸ばし、先ほどとは反対に、編集の速度は大で場面の速度は小です。
内的な必要性と外的なリズムが合致しているため、心理的には引き伸ばされた(場面内時間が遅くなった)とは感じません。

以上のように、映画は、場面の時間とモンタージュの時間の組み合わせによって、豊かな表現可能性を持ちます。
これに実際にかかる映写時間を含め、映画は三つの時間によって構成されていることが分かります。
1-物語内(場面の現実)の時間、2-画面内(編集表現、想作内)の時間、3-映写(現実の現実)の時間。

また、編集のリズムは音楽的な要素を持ち、映像の伴奏として優れた効果を持ちますが、これを主題として、映像の内容をたんなるリズムのための素材としてしまえば、映画の本質表現ではなく音楽の代替表現(視覚的音楽)となってしまいます。
[ミュージックビデオなどでは非常に効果的ですが。]

 

第十一章、パノラマ

ここで言われる「パノラマ」は、概ね、ショットを切ることなく、カメラの移動によって連続的に撮影することを、バラージュは指しています。
パノラマを語源として持つ現在の映画撮影で言う「パン(カメラを軸回転させ、フレームを動かす)」のことではありません。

個々の分断されたショットの観念連合によって、表現された空間のイメージを鑑賞者に与えるモンタージュ空間とは対照的に、なめらかに移動する視点によってリアルな空間そのものの体験をさせるのがパノラマです。

パノラマは、空間のリアリティ、運動感覚に伴う強い主観性(3Dゲームのような)、カメラの運動の緩急(テンポ)による抒情性、劇性など、様々な利点を持ちます。
しかし、その反面、これはモンタージュ特有の創造的な空間、鑑賞者の頭の中で想像(観念連合)されるイメージとしての空間を殺してしまいます。
必然性のないパノラマに頼る多くの作品は、撮影された演劇へと逆戻りしてしまっています。

 

第十二章、カメラの表現技巧

現在で言う「トランジション」、映像編集での場面切替技法の効果についての解説です。
主に、フェードイン(徐々に映像が見えてくる)、フェードアウト(徐々に映像が見えなくなる)、クロスフェード(徐々に映像が別の映像に切り替わるオーバーラップ)についてです。

 

第一部、完

 

第二部へつづく