バラージュの『映画の理論』(3)

(2)のつづき

第九章、変化する視点

映画における世界観

演劇や絵画の場合は視点は固定され、ひつとの遠近法において眺められるだけです。
それに対し、映画は視点を自由に変化させることができ、映画作家はそれによって客観的な現実を描きながら、同時に主観的な個性を表現することが出来ます。
目の視点とは、即ち心の観点であり、その人が何に関心を持ち、世界をどういう関係付けによって捉えているか(世界観)が分かります。
[私が『美女と野獣』の舞台作品を観劇する時、鑑賞者としてのその視点(フレーム)が、主にどこを切り取っているかによって、私のもつ価値観や世界観が開示されます。奇怪な野獣への好奇心か、美しい美女への美的関心あるいは性的関心か、ファンタジックな舞台美術への見世物小屋的な遊興心か。]

絶えず変化する視点の可動性は、観客と作品を同一化させます。
それは、車掌の視点から見る列車がカーブを曲がる際の、ヌッとしたパースの変化における運動感のような、物理的同一化だけでなく、見上げるような視点で強い人物を撮ることによって、立場の弱い者の気分へと、精神的に同一化させることができます。

ゲーテは述べます。
「環境が人間に働きかけるばかりではない。人間は逆に環境にも働きかける。自然が人間を作り、人間が自然を作る。無限の世界の中におかれた人間は、いわばこの世界を切り取って、自ら小宇宙を作り、それからその小宇宙を彼の自我イメージで満たす。(同上、125項)」
この理念を最もよく実現しうるのは、映画においてです。

風景の発見

映画において背景は人間の顔に劣らない強い観相を持ち、それはただの書き割りではなく、ひとつの表現です。
勿論、それは人物と背景の独立した表現ではなく、各々が反響的につながる表現であり、人間行動のイメージは家具や雲や樹木に織り込まれ、背景の雰囲気は人間行動を準備します(例えば、人間の悲しむシーンでは雨が降る)。

ただの客観的な「地形」は、主観的な情緒を与えられ「風景」となります。
「風景」は人間の情緒によって出現するものです。
宅配便で忙しいお兄さんに道端に咲くコスモスの花などただの「地形」であり、画家やカメラマンによって相貌として見られた時、はじめてそれは「風景」となります。
絵画や写真における静止した風景と違い、映画における風景は動作の表情を持ち、例えば刻々と表情を変え沈んでいく夕日の本当の美しさや儚さの情緒を表現することは、映画以外では不可能です。

自然はいつの時代においても芸術的主題であったわけではなく、人間の精神をそこに吹き込み、自然を人間化することによって、はじめて「風景」は成立しえたのです。
ヨーロッパではじめて、たんなる「地形」を「風景」へと転換させたのはルネサンスの芸術家であり、田園の美を鑑賞するためだけに山登りをした最初の人間はペトラルカ(詩人、文学者)です。
ヨーロッパにおける旅行がための旅行(いわゆる観光-光を観る-、他地域の風光や景色を見物する)は、近代的な発明品、文化現象です。
[柄谷行人の『風景の発見』の項を併せて読むと、より理解が深まります。]

風景による観相ひとつひとつが象徴的な意味を持ち、言語を介さぬその表現は、誰にでも開かれた表現となります。
例えば、更衣室の吊鍵にかけられ並ぶ炭坑夫の普段着のクローズアップは、こう語りかけます。
「御覧なさい。ここに人間がぶら下がっています。これは労働者が脱ぎすてて行った人間です。人間は上に止まらなければなりません。地下の坑道へ降りていくのは、機械にすぎません。機械以外の何ものでもありません。」(同上、135項)

映画の時間

モンタージュにはモンタージュ独自の時間(リズム、テンポ)というものが存在しています。
先ほど述べたように、何でもないシーンでも激しいカメラワークによって激しい場面に出来るように、草原の風景の単調な雰囲気を、動きのない長写しのカメラワークによって、より深めることが出来ます。
逆に嵐のシーンで単調なモンタージュにすると、間延びして、対象(嵐)の本質を殺してしまいます。
ショットに激しい変化や音楽的リズムとテンポを加えることによって(例えば、画面がひっくり返ったり、旋回したり、明滅したり)、嵐の荒れ狂う激しさをを表現できます(例、エイゼンシュタイン『戦艦ポチョムキン』における暴動のシーン)。

リアリズム

芸術家は対象の中の本質的な特徴(相貌)を引き出すことによって、リアルを生み出します。
この相貌を見つけることの難しい対象に対しては、芸術家自らがその対象物に相貌を投射(変形)したうえで、眺めます。
いわゆるディフォルメです。
重要なことは、その変形によって、その対象の本質が失われず、むしろ強化されることが、リアルにおけるディフォルメの条件です。
対象をそのまま引き写すことによって対象の本質を殺す者ではなく、変形によって生かす者こそ、リアリストです。
[ディフォルメとは何か、を参照]

リアリズムの本質とは、私たちの体験可能性です。
恐ろしく精緻に対象を描くハイパーレアリズム(10K画像のような絵画)が、むしろ非現実的で、シュールレアリズムのような感覚を呼び起こしたり、NHKの科学番組などで見る人体の拡大された表面や内視鏡の科学的にリアルな画像が、非常に幻想的に見えたりします。
なぜかと言うと、人間には、それほど極端に物の細部を見たり、人体内部に入り込む視点など、体験不可能だからです。
そこを見誤ると、自分はリアルな映像を作っていると思いながら、ファンタジーを作ってしまったり、ファンタジーを作っていると思いながら、全然幻想的でないことになってしまいます。

表現主義

物理的視点(=精神的観点)の創造性が映画における芸術的表現であるなら、それは必然的に何かを表していなければなりません。
何も考ない奇を衒った視点は、表現をもたない、空虚な形式の遊戯に終わるだけです。
[ただ、「なんか面白いから魚眼レンズを使おう」ということではなく、例えば「主人公の自閉的な孤独の心的表現として、魚眼レンズを使おう」などという風に、物理的視点というその表現の動機づけが、精神的観点(意味)につながっていなければならないわけです。]

「表現主義」というものは、物理的に表れるこの精神性を、物理的限界を越えてさらに表現しようというものです。
にっこり笑った笑顔の口角が物理的限界を越えてさらに上がった時(例えばニコちゃんマークみたいな)、変形は対象物の本質をより効果的に引き出します。
ヨーロッパにおけるコルセットとパニエによる身体の変形(くびれの過度の強調)は、まさに女性の身体の本質の表現主義的な誇張(理念化)です。

当然これには段階があり、例えば、繊細な少年を表現するのに、小枝のようにか細い少年を俳優として起用することもできれば、その少年自体をワイングラスのようなガラス人間として表現することも出来ます。
死や悲しみの表現として、背景で雨をふらしたり、夕日の沈む様を映したりすることもあれば、その雨を真っ赤にして血の雨として極端な表現にすることも出来ます。
画面に映るもの全てがこういう過度の表現になった純粋な表現主義の典型が、映画『カリガリ博士』です。

しかし、ここにおいては、前項で述べた映画独自の表現(ショットとモンタージュ)は、絵画的な創作性に呑み込まれ、脇に退けられています。
『カリガリ博士』は映画絵画であり、ただ、事前に作り上げられた表現(表現主義的絵画)をカメラで写しただけに過ぎません。
映画芸術がそのオリジナルにこだわるなら、創造性は、撮影や編集などの映画自体の本質規定に従って作られなければなりません。

印象主義

現実で私たちの観ているものは、正確な現実ではなく、「印象(感じ)」です。
だから、いくら慎重に細かく再現されていても、対象が少しも表現されていない映画もあれば、限られた部分のさっとした印象で、対象の本質を見事に伝えているものもあります。
例えば、大群衆の蜂起シーンで、一万人のエキストラの行進全体を細かく撮るよりも、高く突き上げられた百人の拳の方が、群集の力をより本質的に表現します。
汚い街の全体を撮るより、掃き溜めに転がるつぶれた空き缶をワンショット撮る方が、効果的にその街の印象(感じ)を伝えます。
[人間にとって、現実の出来事(リアル)というものは、印象の連合によって作られているため、情報の網羅的な集積より、むしろモンタージュの方が、リアルとして合っているわけです。]

しかし、この印象が、リアルとの臍帯を失い、対象の観相や本質の表現ではなく、印象がための印象、リアルを放棄した刹那的な情緒のみを表す時、もはや何ものをも表わさない浮動した表現の空虚な形式的遊戯となります。
何の意味もない情緒的な光景(スナップショット)が、漂う波のように流れていく、ただの雰囲気「感じ(印象)」だけの映像です。
これが印象主義です。
表現主義映画も印象主義映画も、教条的なドイツ人の手によって生み出されたのは、偶然ではありません(彼等は何でも徹底的にやりすぎ、瑞々しさを失わせる)。

間接表現

優れた作家は直接表現だけでなく、間接表現を効果的に使います。
間接表現によって想像力を喚起し、詩的効果を与え、現実の陳腐な直接性から引き剥がします。
殺人の場面を直接描くよりも、忍び寄る影によって恐怖を増幅させ、地面に落ちるバラバラになるネックレスの真珠が、砕けた魂(死)をより効果的に表現します。
[現実というものは想像以上にあっけないものです。それはいかに“想像というものが想像している現実”が構成的なものであるかを、証示しています。]

私たちの経験の大半は、間接的反響の表現に拠るのであり、例えば、雨粒よりも、水面の波紋が雨をより認識させ、美しい絵画そのものよりも、それに感動する友人の顔によって、その絵画の美しさを認識しています。
事物の表現は、事物同士が鏡のように反響的に映し合い成立しているのものであり、直接的な単体での表現においてではありません。

隠喩

また、これとは次元の異なる間接表現として、「隠喩(暗喩)」というものがあります。
読んで字のごとく「隠して喩える」表現であり、「喩え」とは代理表現のことです。

例えば、キリストの代わりに十字架を見立てて、それでキリストを表現しても、その喩え(代理表現)は全く隠れておらず、隠喩ではありません。
しかし、ラストシーンで主人公が撃たれ、手を広げ十の字になって死ぬ時、それを映す真上からのショットは、隠喩的にキリストの磔刑と死を表現します。
隠れた表現なので、それを読み取るかどうかは鑑賞者に委ねられています。

要は物語の表立った進行に並走する、隠れた表現の進行が存在し、それらが対位法的なメロディー(意味)を織りなす時、その作品に深みが生じると同時に、鑑賞者の連想作用が活性化されます。
たとえその隠喩を鑑賞者が明確に読み取らずとも、無意識的にある程度は理解しており、それなりの効果を持ちます。
例えば、民衆の蜂起によって王侯貴族が倒されるシーンで、シャンデリアが落ち砕ける時、それが物語の物理的な必然性の中で壊れるのを観ながら、同時に、豪華で煌びやかな王侯貴族の代理であることを直感的に(感じとして)把握しています。

様式

作品内部の様式と画面そのものの様式は別次元にありますが、基本的に優先されるのは画面そのものの様式です。
例えば、マイセン(ヨーロッパ最高の名窯)の陶器の中に描かれた古い中国の絵は、どう見てもヨーロッパ風の絵に見えてしまい、重々しいゴシック様式のノートルダム寺院は、モネによって描かれると印象主義的なふわりとした様式に変わってしまいます。

同様に、カメラのスタイルが内容のスタイルと合っていなければ、当然その内容の本質は失われ、別のものになってしまいます。
例えば、ゴシック風の内容を描く場合は、カメラの動きも重々しく、堂々としたショット(構図)で、格式張った厳格なモンタージュが必要になります。
印象主義風の内容を描く際は、カメラの動きも軽く、ゆらめくような、遊び心のある画面の様式が必要になります。

(4)へつづく