バラージュの『映画の理論』(2)

(1)のつづき

第五章、視覚的人間

印刷術の発明によって、人間の表情や身振りなどの視覚情報によるメッセージの伝達方法は廃れていきます。
見る精神は読む精神となり、視覚の文化は概念の文化へと変容します。
それによって、普段の人々の顔つきや動作、姿勢までもが変化します。

この失われた視覚的人間の能力を回復させる可能性を、映画(特にサイレント)はもちます。
話さないということはメッセージがないということではなく、形態や映像、姿勢や動作を通してのみ表現できる意味や情緒で溢れているという事でもあります。
概念的人間は、身体言語(手話など)を、あくまで言語の代用品、劣った表現法として使用します。
しかし、視覚的人間は、言語では伝えられないひとつの精神的な体験や、抽象化による言語分節を許さない重層的な深層にある意味を、表情や動作のような直接的な形象化(抽象を媒介としない)によって伝えるのです。

概念的人間は、抽象化によって、合理性の網目からこぼれ落ちる様々な可能性を捨象します。
世界を文学化することによって、言語ではとらえがたい人間精神の重層性や心の全体性を失い、そして「世の中そんな単純ではない」はずの世界の本来の姿を隠蔽します。
身体は魂(精神)を失った木偶になり、まるで信号機のように、突き出た顔面から伝達される信号(記号)においてのみコミュニケーションを取るようになります。
身振りや手振りは幼稚で劣った原始人や子供のものと見なされ、大学教授のように落ち着いた動作で巧みに言語を駆使することが、人間(成人-人と成る-)の理想とされます。

私たちは、映画の出現によって、失われた視覚的人間の能力を取り戻そうとしています。
高度に洗練された言語芸術には、まだまだ及ばないにしても、可能性において勝ります。
勿論、それは概念の文化を捨て、視覚の文化に取り換えることではありません。
別にひとつの富を得るために、もうひとつの富を捨てる必要は全くありません。
合理的な概念文化によって発展した科学がなければ、いまや社会の成立も人間の進歩もありえません(むしろ科学は映画の存在条件です)。
合理的な概念を捨てて、無意識の情動によって作られた社会の先に待っていたのは、ファシズムです。

普通、人間の内に感情や思考というものがあって、それが何らかの表現手段によって表されると思いがちです。
しかし、実際は表現手段や表現する能力が、感情を目覚めさせたり、新たな概念の可能性を生み出したります。
表現能力や表現手段が増していくほど、精神の成長が促進され、表現可能な精神の幅も広がっていきます。
表情や身振りなどの視覚情報による映画言語というあらたな表現手段の獲得によって、それは一体どういう形で人間の精神を発展させるのでしょうか。

それはひとつの普遍的な意識や相互理解の精神となるでしょう。
サイレント映画は言語を使用しないため、国境を越えた普遍性を持つと一般的に考えられていますが、それだけの問題ではありません(表情や身振りに含まれる意味は、文化によって相当違います)。
そうではなく、ここで言う普遍意識や相互理解とは、映画の国際的な普及によって、世界中の人々共通に感情を呼び覚まし、共通に身振りを習得させ、また興業的にも国際的に解読可能な表現とせざるを得ないために生ずる普遍性です。

映画(サイレント)は、言語ではなく、人間を身体的な側面から、互いにつながることを助け、人間の普遍的な類型を作り出していきます。
民族や人種を内部で結合させ、親密なものとし、世界的なヒューマニズムに寄与することになります。

第六章、創造的カメラ

映画が単なる現実の複写ではなく、ひとつの創造であるための本質は、カメラによる世界の切り取り(細部)とその統合(編集)にあるということを述べました。
それが映画における作品の創造であり、作家の個性の表現です。
それは映像を素材とする建築物であり、素材(モデル)の模写ではありません。
こうして映画は、私たちが普段見ている世界に対し、もっと別の見方がありうることを提示し、それが事物(世界)の新しい可能性を開きます。

しかし、映画の新しさは、これまでとは違ったものを見せた、というだけでなく、それをこれまでとは違った仕方で見せたことです。
それは既存の美術作品において本質的な特性であった、作品と鑑賞者との距離を無くした(内的距離の止揚)ことです。
旧来の美術作品は、独自の法則に従い、自己完結した小宇宙であり、現実をモチーフにはしても、それとは完全に断絶した存在物です。
鑑賞者は絵の中に入っていくことも、彫像になることも、演劇舞台に上ることもできません。

それに対し、映画においては、観客はカメラの視点に同化し、映画世界の内部から眺め、感じ、作品を享受します。
観覧席からロミオとジュリエットを眺めるのではなく、ロミオとしてジュリエットを見上げ、ジュリエットとして地上のロミオを見下ろします。

第七章、クローズアップ

新しい形式言語の基礎は、カメラによる対象の分解である「ショット」と、それを集め配置し統合する「モンタージュ(編集)」によって、「シーン(場面)」が生み出されることにあります。

しかし、この統一性のイリュージョン(錯覚、幻想)を生み出す能力は、はじめから人間に与えられているものではなく、観客が観念を連合させる方法を、事前に学び身につけていなければなりません(そうでないと前項の田舎娘の例のように、映画を観る事ができません)。
これが視覚的文化の有無です。

勿論、その前提として、不自然ではなく統一された構成物として作品を提示できる監督のモンタージュの技量は必要です。
美しく自然に部分をつなぐ、技術です(いわゆるコンティニュイティ)。

サイレントと違い、音を使用できる映画は、この面で非常に有利になります。
モンタージュが雑であっても、背景音の連続性がそれを助け、音の変化やニュアンスによって時間や空間の連続性が表現できるからです。
例えば、ダンスホールから個室に入るシーンでは、音は徐々に小さくなり、部屋に入ると音の質が変わります(カラオケボックスの廊下に出た時のように)。
また、私たちは無意識のうちに音の質によって場所を感覚しており、音を吸収する雪国や、独特の響きを持つ森の中や、音の広がるホールや籠もる地下室など、かなりの精度で聞き分けられます。

しかし、残念ながら、トーキー(有声、有音映画)は、この表現の可能性を追求せず、音声をただの付帯的な飾りとして使用し、ある面で撮影された演劇へと退行してしまいました。
音による空間表現と映像による空間表現は、さらに高次の対位法的な表現可能性をもちながら、その能力はほとんど使われずに打ち捨てられています。
例えば、窓の外の海をぼーっと眺める横顔のショットと、遠い波音の静かな連続のみで、無限に広がる空間と無限に広がる放心する心を、非常に効果的に表現できます。

また、カメラによる対象の分解の極点である「クローズアップ」において、私たちは物の表情を発見します。
花のエロティシズムや朝日に光る蜘蛛の糸の美、笑顔の瞳の端で光る小さな涙や落ち着き払った王の震える指先、不吉を告げるテーブルの上の果物ナイフに、半開きのドアの先にある暗闇。
日常における無神経に概括化された全体世界の中で、見失われていた事物の魂は、クローズアップにおいて生き返り、私たちに新たな世界の意味可能性を開いてくれます。
それは単なる正確な細部の再現ではなく、新たな表現であり、小さきものたちへの愛(関心)によって生ずる叙情性の発露です。

第八章、人間の顔

顔のクローズアップは、怒りに震える手のアップのような身体表現の一部としてではなく、周囲に依存しない一個の自立した新しい次元の表現世界を作り出します。
観客は孤立した顔と向き合う時、周囲の空間との関係性の失った相貌という旋律(メロディー)のみを聴き取ります。

微妙な表情のニュアンスによって、様々な無言のメッセージが語られ、表情によるポリフィニー(多声音楽)は、愛しながら憎み、拒みながら肯き、偽りながら本心を語り、悲しみながら喜ぶような、人間が本来的に持つ心の重層性を見事に表現します。

音声に拘束されない(例、Oのとき唇を丸くする必要はない)サイレントにおける唇の動きは、それ自体が表現であり、クローズアップによる口の動きは無数のバリエーションと表現可能性を持ちます。
酔っ払いの千鳥足のようなしまりのない唇の動きや、怒りの蒸気機関が爆発した列車の車軸のようにまくし立てる唇の激しい回転など。
サイレントにおける語りは、聴くものではなく、見るもの(見せるもの)なのです。

表情の変化のリズムやテンポは、ためらいや焦りや期待など、様々な心の動きを表現します。
ぱっと頬を赤らめる少女の心の機微や、疑いの眼差しから信頼の目へと変わる改心せる心の動きという最高の瞬間を、他の芸術形式によって表現することは不可能です。

演劇のように大写しで観られた人間の演技は、大げさなものである必要がありますが(そうでないと見えない)、クローズアップになると反対に演技の動きが小さく抑えられることになります。
些細な演技が表現となってしまう分、俳優の演技は自然と落ち着いたものになっていきます(舞台俳優がテレビドラマで演技をすると大げさに見えるのはそのせいです)。

前項で作品と観客の相関関係を述べましたが、クローズアップの出現による演技の質の変化は、その文化の芸術趣味やムードそのものを変化させることになります。
ロマンティシズムに代わるナチュラリズムの台頭、表現主義的な激情とファンタジーから、シンプルでドライな即物的様式への変化。

それは演技だけでなく、俳優の趣味をも変化させ、ロマンチックで感情的な顔の俳優は時代遅れとなり、シンプルで抑えられた特徴の顔が人気となっていきます。
美しすぎる声や訓練されすぎた声は嫌われ、人間味のある自然な声が人の心に届くようになります。

細部の相貌が多くの場所を占めるに従い、ストーリーの居場所が減少していきます。
映画のスタイルの外向性は、内向性(内面)へと向かい、クローズアップは筋やシナリオなどの作劇を変化させます。
ストーリー展開が内面ドラマに従属し、入り組んだ筋の起伏の激しい長編物語は必要でなくなります。
大きな物語における事件の嵐(劇的状況)は、外的事件のほとんど起こらない内面や深層における嵐へと場所を変えます。

また、それはモンタージュというカメラワークの嵐によっても劇化されます。
俳優は石像のように全く動かない場面であっても、旋回し飛び回るカメラによって切り取られた細部の、激しいリズムの交替(モンタージュ)によって、劇的な場面を作ることも可能です。

単調な日常生活や、今まで気付かれもしなかった些細なものたちが劇化され、小さい事件の中にも大きな感動と刺激的な出来事があることが示されます。
しかし、筋の面白さや複雑なプロットに頼らない映画は、文学との差異を際立たせ、より映画としての個性を確立できた反面、細部だけにこだわった非常にくだらない映画が一般化していくこととなります。
クローズアップによる微視的ドラマツルギーは、他の芸術上の流行と同様に、ひとつの傾向に過ぎないということを忘れてはなりません。

(3)へつづく