メイロウィッツの『場所感の喪失』第一部(2)

(1)のつづき

1-3

メディアの変化と役割の変化

社会的な地位というものは情報フローのパターンによって規定されます。
同一の地位にある人達は同じような状況(情報システム)に、異なる地位にある人は異なる状況にアクセスします。
例えば、伝統的に子供と大人の地位の差は、前者に特定の情報(性やお金など)に対するアクセスが制限されることによって成立しています。

だから、新しいメディアの登場によって、人々の情報システム(状況)が変化すると、必然的に社会役割のあり方にも変化が生じます。
それら社会役割の変化の考察にあたり、本書ではそれを大きく三つのカテゴリーに分け、それらの組み合わせることによって、社会役割の大部分を包括的に把握可能にします。
所属の役割(集団的アイデンティティ)、移行あるいは成長の役割(社会化)、権威の役割(ヒエラルキー)、の三つです。

この三つの役割カテゴリーの複合によって各個人の地位は規定されています。
個人は、ある特定の集団と結びつき、社会化のある過程段階にあり、ある階層秩序の特定の位階に居ます。
例えば、医学部の学生であれば、順に、医師集団、学生過程、エリート階層として、その地位を規定できます。
これら社会役割の構造が、コミュニケーション・メディアの変移によって如何に変化するかを考察します。

その1、集団的アイデンティティ

情報の共有というものが、人々のつながり(サークル、集団)を生じさせます。
それは同一の時と場所である必要はなく、物理的に離散していても 情報が共有されていれば強い結束を伴います。
また、集団的アイデンティティは常に、同一の状況(情報アクセス)を共有しない他者を前提としており、必然的にそれは対立的な部外者を生み出します。

しかし、状況というものは常に変化するため、その集団的アイデンティティを形成する境界もそれに応じて変わります。
例えば、ニューヨーカーとロサンゼルス在住の人が電車で同席し対立的であっても、そこにアジア人の旅行客が入ってくると互いが絆を感じ、新参の外国人を対立的な部外者として結束するかもしれません。

自己のアイデンティティの感覚というものは「私は何者か」という問いの中にあるのではなく、私は何処に居り、誰と共にあり、いかなる情報や経験を共有しているか、ということに依存しています。
それは同時に「われわれ」と「彼ら」の生成であり、「彼ら(部外者)」が私のアイデンティティーの鋳型(凹型)として機能しているということです。
そして、メディアの変化により「われわれ」の結束の基盤である情報共有のパターンが変化すれば、当然私のアイデンティティーの境界も変わっていくことになります。

情報や経験の共有は、成員に同じ役割、同じパフォーマンスを促し、舞台上・舞台裏行動も似たものとなります。
伝統的にそれ(共有される特殊な情報システム)は物理的な位置取りによって保証されていたわけですが、電子メディアなどの発達により、情報が離散的・複合的に共有されるようになると、場所による集団の定義づけは崩れていくことになります。

その2、役割の移行

社会化とは、社会的に順路を規定された、ある役割から別の役割へと移る過程(ただの変化ではなく成長段階)です。
あらゆる社会化の目的は、先進の集団が共有している特殊な情報を獲得し、自己もそこに属することです。
その集団の共有する情報へのアクセスは、タイミングと順番をよく吟味された上で、徐々に与えられます。

人間の一生(ライフサイクル)がそういう成長(役割移行)の過程であり、情報へのアクセス権が与えられる方法やパターンや期間は、人間個人の知的・身体的能力の制約以上に、その社会の慣習によって規定されています。
子供から大人への役割移行のような、生物学的な発達段階に見えるものであっても、その段階数や期間や弁別の指標は、文化によって相当異なります。

もし、その社会のメディアが各集団の情報世界の分割を保持するような可能性を持っていれば、社会化は明確で細かい成長段階を形成することになり、反対に情報の共有が広く曖昧なメディアになると、社会化段階の区別もアバウトなものとなっていきます。

特に裏情報領域へのアクセスは慎重にコントロールされており、それらが開示されるのは、参入者がもう後戻りできないくらいその役割集団に入り込んでしまった時です。
舞台裏の秘密を明かしてしまえば、苦労して得た自分自身の役割そのものをを冒涜し、地位を失ってしまうような状況が、裏領域にアクセスするための担保になっています。

社会化段階の数は、人間集団の隔離可能な場所の数にある程度規定されます。
各役割や段階固有の場所(テリトリー)が、情報アクセスや役割の境界を保証するからです。
例えば、院長室と一般のスタッフルームが同じ部屋であったり、大学生と小学生が同じ教室で勉強したりすれば、役割の境界は崩壊します。
あるメディアが物理的隔離と情報の隔離をどう構成するかを考察した時、もしそれが両方を並行するものであるなら、社会化段階をより分割的なものとしますし、もし前者をそのままに後者の境界をなくすものであれば、社会化段階はより均質的なものとなります。

その3、権威の階層(ヒエラルキー)

一般に権威の階層秩序というものは、財産や才能などの具体的な力(権力)によるものと考えられていますが、これも本質的には情報フローのパターンとして記述することができます。
権力というものは所有するもの(富、軍備、各種能力など)ですが、権威というものは遂行的に保持されるものです。

高い地位(権威)は、その役割における情報(技術的知識や経験的知識など)をコントロールできる力によって保証、維持されます。
状況というものは、情報の価値を相対的に変化させるため、権威というものの定義も状況によって変化します。
例えば、病院に通う自動車整備士は診察室において医者の下の地位にありますが、仕事帰りに医者のベンツが動かなくなって往生した時は、今度は医者が整備士を仰ぎ見ることになります。

万一、下位の者が上位の集団の知識にアクセスできてしまうと、その地位が崩れる可能性があります。
患者が医師より医療に関する知識を持っていたり、趣味でカートをやっている医師が整備士より高い知識を持っている可能性もあります。
だからこそ、専門家集団にしか共有されない特殊な情報が必ず存在し(例えば自動車部品のコード番号や、それを取り扱う卸売業者の情報など)、それによって一般人の侵入から権威は守られているのです。
このような情報のコントロール可能性こそが、その役割を遂行する権利を生むのです。

イニスによって示されたように、聖書に関する情報のコントロール可能性が、中世の教会の圧倒的な権威を保証していたのであり、なぜ彼らが公式でない聖書の翻訳書や異端書に眼を光らせていたか、なぜこの権威を崩そうとしたルターやカルヴァンが聖書を個人のものとして改革しようとしたかは、この辺りから推察されます。
情報コントロールの不均衡が権威の特質であり、対等な相互関係はその不均衡が崩れ情報がフラットに共有された時に生じます。
あるメディアが情報を分断する特性を持つなら、それは社会にヒエラルキーをもたらし、情報を融合させる特質を持つなら、社会は平等主義へ向きやすくなります。

第二に、権威を保証するものは、裏領域行動の全面的な不可視性です。
高位の者のフォーマルな表領域を成り立たせるには、それだけ深い裏領域が必要になります。
ある意味人間はすべて凡庸であり、偉大さはその凡庸さを隠すことによって成立します。
権威とはそういうもの(状況や役割や情報)の戦略的なコントロールの技法によるものであり、それは裏領域を隠すだけでなく、それらをコントロールしていることそのものを決して気付かせない技法も必要とされます。
その人のリアルで具体的な実在性(要は凡庸さ)を隠すことによって、社会的役割の象徴的でイデアル(理念的、抽象的)な面が強調されるのです。

当然、その裏領域情報がリークされたりする可能性もありますが、高位の者の裏側に下位の者がアクセスすることは、そう簡単ではありません。
例えば、平社員が社長や会長の部屋に入るためには、かなりの手続きが必要ですが、社長は平社員の部屋にノックもせずに入っていくことが許されています。
テリトリーのコントロールと、見る権利(見る者見られる者という主従の関係)は、権威の不可侵性と神秘化の絶対的な条件です。
先ほどと同様に、ここでもあるメディアの特性が、裏領域行動の壁を強化するものか侵食するものかによって、当然社会のあり方も変わってきます。

第一部 完