アドラーの個人心理学(3)

(2)のつづき

共同体感覚を生む三つの要素

以上のような共同体感覚を得るためには、重要な三つの要素があります。
「自己の受容」「他者の信頼」「他者への貢献」です。
まずひとつめの自己受容から説明していきます。

自己の受容

客観的な事実とそれに伴う因果論ではなく、事実に対する目的論的な個人の主観的認知を重視するのがアドラー心理学の前提であると述べました。
重要なのは客観的な環境として何があるかではなく、それをどう見てどう使うか、です。
事物のうちで「変えられるもの」と「変えられないもの」を見極め、変えられないものに無益なエネルギーを使わず、変えられるものの現実的な可能性にのみに意識を集中するということです。

課題の分離によって、「現状の自分、及び自分の可能性」と「そうでないもの(他者の可能性)」をきちんと区別し、「今はできない自分」という現実を受容しつつ、地に足をつけた上で可能性を探り、実現していくことです。
謙虚にありのままの自己を受容し、同時に卑屈にならず自分の可能性をまっすぐに見据えること、いわば幻想ではない本当の自己信頼を持つことです。

他者の信頼

次に重要なものが、無条件に他者を信じる「他者信頼」です。
例えば、勝ちまくっている投手に対し、「私は彼を信じている」と言って先発に選ぶ監督は、別にその投手を「信じている」のではなく、当然、次も勝つだろうという計算(打算)によって登板させているだけのことです。
「信じる」ということは、当然ではなく疑いの可能性が大きい時に、それでも賭けるという時に生じるものです。
アドラーの言う「他者信頼」とは、そういう計算抜きに、裏切られる可能性も覚悟で、他者を信じることです。
勿論、無条件に信じると言っても、万人すべてを信じるということではなく、関係の構築を考える他者を私自身の課題として選んだ上でのことです。

なぜそれが必要かというと、他者を信じなければ、残るものは懐疑だけだからです。
懐疑というものは底無しであり、世界のあらゆるものが疑いの徴(しるし)として現れてきます。
恋人の浮気を疑う者は、何でもない行動(例えば、携帯で時間を見た)すら浮気の証拠(浮気相手のメールのチェック)だと感じてしまい、世界のあらゆる事物も他者も敵対的なものとして現前してきます。
こんな状態では、誰とも関係を築くことなどできません。

この懐疑を断つには、いずれにせよどこかで「信じる」しかないのです。
「信じる」ことを怖れていれば、人は表面的な部分でしかつながる事ができません。
浅い関係であれば壊れた時の痛みも小さいですが、喜びもまた小さい。
他人を「信じる」ことによってもっと深い関係に踏み込む勇気は、もっと深い所にある人間の喜びの可能性を開いてくれます。
それによって悲しみもまた深くなるでしょうが、それもまた自己受容(現実の直視)でもあるのです。

いつパンクするかと常に怖れながらするサイクリングが楽しいでしょうか。
いつ嫌われるかと怖れながらするデートが楽しいでしょうか。
たった一度のかけがえのない人生です。
疑いながら生き、人生という表層をすべるだけで終わるのは、勿体なくはないでしょうか。

他者への貢献

ありのままの自己を受容し、他者を信頼すれば、必然的にそこには「仲間あるいは共同体」という意識が芽生えてきます。
先にも述べたように、共同体という地図に私の居場所を描くことによって、私の中に所属感というものが生まれます。
そこは根こぎにされ漂う不安な世界ではなく、世界への安定した根付きによって与えられる安心の場所です。
自己受容と他者信頼のどちらかが欠ければ、世界は私に敵対し、安心ならざるものとなります。

私の居場所を共同体という地図に描くということは、社会に参画していくということです。
どんな形であれ、それは共同体(他者)への貢献となります。
私が毎日工場で作った電球は、学校のトイレや家の玄関の安全のために貢献します。
他者貢献というのは、自分を捨てて他者に尽くすという自己犠牲的のように、課題の分離のできない非自立的で未熟なものではありません。
あくまでも自分の存在価値の実践を通して、他者に貢献するということです。
どちらかの不幸がもう一方の幸せになるような縦の利益関係ではなく、お互いが対等に協同し貢献しあう横の関係が他者貢献です。

それは「自分のため」と「他人のため」が同時に共存する世界です。
見返りのない無償の貢献のみが本当の善で、それ以外は偽善だと言う人は、課題の分離のできていない、未熟な依存関係(上下の関係)で世界を見る人です。

三位一体

これら三つの要素は、円環的に強化されていきます。
あるがままの現実を受け容れる「自己受容」が裏切りへのを恐れを払拭し、「他者信頼」を可能にします。
そして他者を信頼することによって、共同体の関係の中へ入っていくことができ、仲間への貢献「他者貢献」というものが結実します。
そしてこの「他者貢献」が自己の有能感へとつながり、より強い自己受容が生じます。
このサイクルによって、共同体感覚というものが強化されていきます。

自立した人の生き方

人間には本質的に優越性への欲求があり、それは社会貢献の中でのみ満たされるものであると述べました。
優越性といっても、その実際はいたって普通の様相を呈します。
なぜなら自立した人間、自分に対しての信頼を持つ者は、ことさら自分が特別な人間であることを誇示する必要はないからです。

劣等感の項でも述べたように、自分を特別な存在として誇示しようとする人は、自分に自信のない人、自己を確立(自立)できていない人です。
優越性への欲求が、自分を特別な存在にしようと駆り立てるものである場合は、注意しなければなりません。
それは自分が本質的なものを離れ、疎外されてしまっている状態です。
例えば、私がボランティア活動をするのは社会貢献が目的であって、それに贈られる賞ではありません。

戦略的に自己を宣伝し偉人に名を連ねた者を除けば、大抵の偉人は普通に自分の課題を日々淡々とこなしていただけです。
その道程と時代のタイミングがかみ合って、結果的に偉人となっただけであり、別にアインシュタインもマザーテレサも偉人になろうとして社会貢献していたわけではありません。

マザーテレサ以上に社会に貢献しながら、名もなき人として普通に生涯を終えた人は星の数ほどいます。
別にそれで彼らが不幸だとか悔しいだとか思うわけではありません。
人間的に自立している人にとっては、自分の課題をこなすことが本質であり、名声などというものは付帯的なもの(オマケ)にすぎません。
ノーベル賞や文化勲章よりも、身近な他者の笑顔や、子供のありがとうの言葉に価値を感じる普通の人こそ、社会に貢献し、共同体を支えている人たちなのです。

世界を変える自分の力

目的論の項で、目的(未来)が現在や過去の意味を決定すると述べましたが、目的というものは現在からいくらでも変更可能な柔軟なものです。
例えば、目玉焼きを作ろうという目的を立てて、現在において卵の黄味を潰してしまったとしても、その目的をスクランブルエッグに変更すれば、その事実は失敗から成功に変更することが出来ます。
軸はつねにいま現在のアクションにあり、そこから未来に目的を立て、その未来が現在と過去をつねに新たに意味付けます。

あらかじめ固定した目的がないという事は、そもそも私の人生に決まった意味などないということです。
私の現在のあり方が人生をつむいでいくという事は、人生の意味は私が作るものだということです。
「世界は酷い所であり、他者は敵である」というライフスタイルを選ぶことは、世界を悪いものとして意味付け現前させることであり、「世界は結構いい所であり、他者は仲間である」というライフスタイルを選べば、世界は善いものとして存在します。

私の力は計り知れないほど大きいと知るべきなのです。
私が変われば、世界も変わります。
世界は誰かが変えてくれるものではなく、自分によって変えていくものなのです。

いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショック(いわゆるトラウマ)に苦しむのではなく、経験の中から目的に適うものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって、自らを決定するのである。そこで、特定の経験を将来の人生のための基礎と考える時、おそらく、何らかの過ちをしているのである。意味は状況によって決定されるのではない。われわれが状況に与える意味によって、自らを決定するのである。(アドラー著・岸見一郎訳『人生の意味の心理学』より)