アドラーの個人心理学(2)

(1)のつづき

人生の課題

アドラーは明確に治療の目標(精神的健康)となるような人間のあり方を提示します。
それは行動面で社会的に自立しつつ、心理面では自信をもつ(自分を信じる)ことです。
自立は必然的に他者との調和につながり(そうでなければただの孤立)、自信は必然的に他者への信頼を生じさせます(他人を信じられない人間は本質的に自分を信じていない)。

要するに個として自立しながら、社会と調和して生きる社会適応が、精神的な健康を生じさせるということです。
そして、この実現こそが人生のタスクであり、治療の目的でもあります。
前項において挙げた、コンプレックスから生じる不健全なプロセスは、すべてこの課題からの逃避と言えます。

課題の分離

なぜこの人生の課題というものが、逃避を生じさせるほど苦しいものであるかというと、それは私のコントロール内にある課題と、外にある他者の課題を混同してしまい、そもそも解決できない(コントロール不能の)課題に取り組んでしまっているからです。
あらゆる問題は、他人の課題に私が勝手に踏み込んだり、私の課題に他人を踏み込ませたりすることから生じます。
何らかの課題があるとき、「これは本質的に誰の課題であり、その課題の解決(あるいは失敗)の結果を最終的に引き受けるのは誰か」という、責任主体の明確化が重要です。

例えば、「承認欲求」というものは、他人の期待を満たす事によって、私の期待を充たすこと(承認や褒賞)であり、それは他人の課題のために自分の課題を放棄してしまった状態です。
当然、他者の期待の変化は天気のように予測不能で、無数の他者の異なる期待の前に引き裂かれ、非常に困難な状況に陥ります。
まさに課題の分離の出来ていない典型であり、そもそも解決不能の課題に必死で取り組んでいるのです。
逆に言えば、私の期待通りに他者が動いてくれずに憤慨する時、私は自分の課題を他者の課題と取り違えているのであり、これも課題の分離のできていない未熟な状態といえます。

引き受ける責任もなければ介入する権利もない、そういう他者の課題と、自分自身の責任と行動によって解決しなければならない課題をきちんと区別しなければ、どちらの問題も解決が不可能になります。

自分を生きる

なすべきことは、自分の目的となるものを自覚し、その目標達成のための現実的に自分の解決(コントロール)可能な課題を考案し引き受け、自分の人生を歩むことです。
その選択に対し、他者がどのような評価を下すのかは他者の課題であり、私の問題ではありません。

もちろん、自分の道を自分で選ぶこと(自由)には、責任と不安と困難がともないます。
しかし、根本的にその苦しみの質が異なっています。
他者の人生(課題)を生きる苦しみは、山の上に主人の荷物を運ぶ奴隷のネガティブな苦しみです。
それに対し、自分の人生(課題)を生きる苦しみは、登山家が山を登るときに感じる心地よいポジティブな苦しみです。

共同体感覚

自分の道を歩くと言うと、何か孤独な(孤高の?)ものに聴こえてしまいますが、決してそうではありません。
前項で自立と孤立は違うと述べましたが、自立というものは、共同体(社会)を基礎として生ずるものです。

まず、課題の分離によって個々人の責任の所在を明確にすることにより、各々がお互いを責任主体として認め合う関係が生じます。
自由と責任とは同じものの別表現であるため、互いを責任主体として認め合うことは、互いを自由な人間だと認め合う対等な社会と言えます(個性を伴う平等)。
そういう社会的関心が「共同体感覚」であり、それがアドラー心理学における個人および社会のあり方の指標となります。

自己中心的な人

自立の反対は依存であり、社会性の反対はいわゆる自己中です。
自立性と社会性が結ばれるように、依存性と自己中は結びつきます。
さらに言えば、前者は課題の分離のできる人であり、後者はできない人です。

利己的な人(いわゆる自己中)は、他者は自己の期待を満たしてくれる存在(自己の課題を代わりに達成してくれる人)だと見ており、非常に他者に依存的に生きています。

利他的な人も、その外観とは裏腹に非常に強い自己中心性を隠し持っています。
勿論、それは見返り(他人の承認)を求める依存的な利他性のことであり、課題の分離によって自他共に自立した者同士の協同関係を言うのではありません。
承認欲求の本質は、他者がどれだけ自分のことを誉めてくれるか、いわばどれだけ他者が自分の欲求を満たしてくれるかです。
他者のことを思っているように見せかけながら、その実自分のことにしか関心がないのです。
他者の課題に強引に割り込んで、他者の自立性を根こそぎにしつつ、なおかつ自分自身の課題からも永遠に逃げ続けます。

みんなが世界の中心

課題の分離とは、いわば相互主観性の理解です。
この私が私という視点から私固有の世界を見ているように、あそこにいる他者も他者の視点から他者特有の世界を見ており、世界の中心は私にだけあるのではなく、無数の他者の存在の数だけ無数の中心が存在するという認識です。

所属感

共同体感覚によって生ずる社会という土台の上に、個人が具体的な他者との関わりの中で自分を規定することによって、所属感やアイデンティティー(自己の同一性と他者との差異)が生じます。
自分の居場所(所属感)とは、生まれながらに与えられるものではなく、自分自身が主体的に共同体にコミットしていくことにおいて、自らの手で獲得していくものなのです。
社会(共同体)という地図の上に、具体的に自分のあり方を描くことによってのみ所属感は生ずるのであり、他者との関わりなしに自分の存在を肯定することは、妄想の力でも借りない限り不可能です。

横の関係性

これらの関係性を構造的に見れば、それは「横の関係性」として記述できます。
課題の分離ができた自立する者同士の関係性では明確に各々が分節されているため、どちらが上だとか下だとかは意味のない軸であり、すべては横の関係性として成立します。
分かりやすく言うと、流行歌の『世界にひとつだけの花(槇原敬之詞)』が、上下の関係性を批判し、かけがえのない個の大切さを歌いましたが、その個々の花たちがオンリーワンに留まらずに協同する世界が横の関係性です。

縦の関係性

しかし、課題の分離のできない者は自己の境界が曖昧であり、自己を他者の上に拡張したり、他者を自己の上に伸張させたりするため、お互いが重なり合い、個というものが確立されず不明瞭です。
この不安定な関係は、必然的に上下の関係性で自己の存在価値をはかることに頼らざるをえません。
この縦の構造こそが、先述の「劣等コンプレックス(あるいは優越コンプレックス)」を無限に生み出す温床となるのです。
ここには、「個(自由)」も「平等(横の区別)」もありません。
あるのは「拘束」と「差別(縦の区別)」で動く世界です。

共同体(社会)の条件

人間が人間を管理するということが、社会共同体のはじまりであり、その基本条件でもあるのですが、だからと言って、別に管理する者がされる者よりも偉い(上下の関係性)わけではありません。
管理者はただ管理能力に長けた人であり、実行者はただ実行能力に長けた人であり、彼等がお互いの個を持ち発揮しながら、お互いに協同する(横の関係性)からこそ、社会の合理性と生産性が向上するだけです。

だから、監督が絶対であり、選手は個を殺して従わなければならないようなチームの場合、それは課題の分離のできていない未熟なチーム(共同体)だと言えます。
それは刹那的な結果しかもたらさず、トータルで見ると非常に非効率的で、精神的にも不健康な共同体のあり方です。

(3)へつづく