ルターの『キリスト者の自由』(2)

(1)のつづき

十四、
旧約聖書において初生児は貴ばれ、支配権(王権)と祭司権という二つの特権を与えられた。
長男は地上の者(弟)に対しては君主であり、神に対しては祭司であった。
この物語は、イエス・キリストも処女マリアから生まれた父なる神の初生児であり、霊的な意味で彼は王であり祭司であることを比喩的に象徴している。
キリストの王国は地上の富にあるのではなく、霊的な富(真理、平和、祝福など)の中にあり、キリストは外的な動作や衣装ではなく、霊的なものの中で神の前に立ち祭司を務める。

十五、
信仰によって彼と一体になるキリスト者は、皆が王となり祭司となり、霊的に万物の主と成る。
選ばれた者のために、生も死も、義も悪も、現在も未来も、すべてのものが仕え益とする。
これは身体で地上のものを所有したり使用したりすることではない。
身体的な支配や服従には地上的な限界があり、最終的には身体は死というものを免れない。
そうではなく、ここで説かれるのは霊的な支配であり、それは身体が拘束されていても支配できるのであり、あらゆるもの、身体の死や苦悩すら私を益し祝福するものとなる。
信仰によって霊の王国に入れば、万物が私の益となり、しかも私には信仰以外なにも必要とされない。
これこそがキリスト者の自由と権力である。

十六、
信仰者は王であると同時に祭司でもあり、神の前に立ち祈る権利を与えられている。
まるで身体的な意味での祭司が、人々の代表として前へ進み出で祈るように、我々は霊的にお互いのために進み出で祈ることが許されている。
反対に信仰なき者には、万物は何の働きも益も与えず、彼は万物の奴隷であり、あらゆるものに躓き、しかも祈ることも許されない。
かように、信仰篤きキリスト者は、王であることによって万物を支配し、祭司であることによって神をも動かす。
何度も言うように、これを成就させるものは信仰(内なる心)のみであり、善行(外なる行為)ではない。

十七、
信仰者万人が祭司であるなら、キリスト教界における祭司と平信徒の違いは何かと尋ねられる。
そもそも聖書は聖職者を、キリストの教えを説く任務を負った者として単純に奉仕者、僕、執事などと呼んでいるだけで、特別な区別は与えていない。
今日特権的な僧侶階級にある少数者としての祭司は、これを不当に利用し、現世的で外的な権力と恐ろしい支配力を手にした。
それは正当な権力(地上の)ですら対抗できないほどの強力な権威であり、平信徒などまるでキリスト者ではないかのように扱われる。
こんな世界では、恵みも自由も信仰も、キリストから受けるもの全てに対する理解も失われ、キリスト御自身でさえも奪い去られる。
その代わりに人は、地上の権威(最も無能な人達)の奴隷となり、人間的な律法の行為者に堕ちる。

十八、
もし、キリストの生涯と事業を表面的になぞり説くだけ、まして彼については全く触れず、ただ教会法や人間的な律法を講ずるだけなら、それは全くの間違いである。
また、感情的にキリストに同情し、ユダヤ人に憤慨するだけの子供じみた者も多くいる。
しかし、説教はそれを聴いて信仰が呼び覚まされ保持されるようなものでなければならない。
キリストはなぜ来られ、私たちに何をもたらし、いかに彼と交わり益を得るか。
それは、われわれが彼から受けたキリスト教的自由を正しく解釈するということである。
先述の、自由と喜びと義の獲得、罪と死と恐怖からの解放、キリストと共にあることによる永遠の勝利、常に神の前に受容され聞き届けられる私の祈り。
そういうものへ理解があって、はじめて人は彼を愛する必然に駆られるのである。

十九、
以上、内なる人間については充分述べた。
次は第二部として外なる人間について述べる。
人を義とするものがただ信仰のみであるなら、なぜ善行を命じられるのか、善き者になりたいと思いながら信仰以外何も行わずともよいのか、という問いが浮かぶ。
もし、人が純粋に内のみの霊的・精神的存在であればそうであろう。
しかし、現世においてキリスト者は身体をもつ存在であるため、前項第一章で述べたように、「(霊的に)何人にも従属しない王でありながら、(身体的に)何人にも従属する僕」なのである。

二十、
内的な魂においては信仰によって充分に義であったとしても、まだ身体は現世に留まっている。
だから、信仰に次いで、今度は身体の制御をせねばならない。
身体を内なる者と信仰に従い、馴致し同化することです。
ここから、偽善ではない、本当の行為(善行)というものがはじまる。
信仰に裏打ちされた善行は、務めでありながらも神と一体にある喜びと楽しみであり、愛する者のための行為のように強制でありながら自由である。

二十一、
これらの行いは、神の前に義しくあろうとする目論見でやってはいけない。
何度も言うように、神の御前にあることができるのは、魂と信仰によってのみであり、外的行為によっては決してそこに近づけないからである。
魂の内的信仰によって、身体の外的行為が従順になり、悪い欲望が清められることが本来的なあり方であり、外的行為によって己の信仰を神に証示し義を得ようとするのは偽善でしかない。
そうした見返りを求める善行ではなく、神の御心に適いたいという自由な愛から生ずる行為がその本質であり、ここから身体を鍛える健全な行為や規準が得られる。
だからこそキリスト者は、心身ともに節度ある規律の中で健やかに鍛錬されるのであって、もし外的な善行が自己目的化してしまえば、頭も身体も壊してしまうほどの過度な善行を行うようになり、むしろ救いの無い愚昧に堕ちる。

二十二、
「神は創りたもうた人間を楽園に置き、そこを耕させ守らせたもうた(創世記2章15節)」
神によって義しく作られた罪のないアダムの楽園での生活は、ただそれだけで義しく、別に楽園を上手く管理し耕すことの報酬として義しくされるわけではない。
それと同様、キリスト者の生活も信仰によって楽園へ置かれたなら、義を得るための善行など必要とせず、ただ無為に過ごさず聖意に適うよう行為すれば自由と義は必然的に定められる。
なので信仰者が善行を行う時も、別にその行いが彼をより善くし、より多く清め、キリスト者とするわけではない(そもそも信仰によって既に聖別されてる)。

二十三、
義しい(善い)行為が義しい(善い)人を作るのではなく、義しい(善い)人が義しい(善い)行為をするのである。
同様、悪い行いが悪い人を作るのではなく、悪い人が悪い行為をする。
すべての行為に先立って、人格(魂・精神)の修養が必要なのである。
「悪い木は善い実を結ばず、善い木は悪い実を結ぶことができない(マタイ伝福音書7章18節)」
人の信仰のあり方によって行為の善悪が決定するのであり、反対に行為のあり方によって信仰の有無や義し悪しが変わるわけではない。
人は行為の前に信仰によって既に義でなければならない。

(3)へつづく