スマイルズの『西国立志編(自助論)』 (4)模範と人格

(3)のつづき

第十二章、模範(モデル)

人間の模範は言葉を使わない実践の教師であり、行動による教示は言葉のそれより遥かに説得力があります。
人間は耳で聴くる情報より、目で見る情報の方が比較にならないほど多く、その印象の強さも相当違います。
文字(概念)によって学ぶ意識的な学習より、視覚像によって学ぶ無意識的な模倣の学び(真似び)の方に多く影響されます。

子供は知らず知らずのうちに、周囲の大人の言動を模倣し、それに似た者になっていきます。
子供の人格形成においては、学校教育以上に家庭における模範の影響が大きいのです。
親の人格は日々繰り返し子供の無意識の中に刷り込まれ、その影響は終生残り続けます。
もっと強い影響を持つ模範が現れ上書きされたとしても、その痕跡は残り続けます。
時代や場所を問わず、子は親を映す鏡と言われています。

子供の頃に接した母のあたたかい眼差しや、父の真っ直ぐな背中や、お手伝いさんの決して悪口を言わずどんな人でも敬う姿勢、そういうものが偉人の後の人生を作っています。
逆に言えば、周囲の悪い言動は悪い人格を形成します。
それを反面教師として意識的に反抗すること「こういう人間の言動だけは絶対に真似しない」もできますが、それは概念の学びであって、模範-無意識レベルの学びではありません。

ある人物が部屋に入ってくると、とたんに雰囲気が良くなり、言動が上品になり、皆がいきいきしはじめるようなことがあります。
健やかな心は健やかな環境の中で育まれ、荒んだ心は荒んだ環境の中で生じます。
誰かを教育しようとする人(親、教師、上司、等)に対して言える最高の助言は、「汝、自らを改めよ」ということです。

人の言動のひとつひとつが、必ず周囲に何らかの影響を与えます。
その影響は、水面の波紋のように広がりながら連鎖していきます。
そうやって、社会という共同体の成員である一人一人の行動が周囲に与えるその影響が、未来の社会のあり方を作っているのです。
過去の人々の言動という模範によって生み出された文化に育まれた現代の私たちは、次は未来の世代のあるべき模範としての役割を担っています。
今を生きる私たちは、模範という教育によって次の世代を育て、未来を作る責任を負っている、歴史の制作者なのです。

人は死に、その肉体が消滅しても、模範という影響の輪は生きつづけます。
死んだ父の実直な生き方が、私や周囲の人の中に生き続けているように、私の人生は私が消滅しても、未来へと生き続けるのです。
魂の不滅の言説は、そういう意味でとらえるべきでしょう。
過去と未来をつなぐのが現在の我々なのです。

すべての人間がすべての人間に対しての教師でありかつ生徒であり、そこに管理する者される者の上下差はありません。
貧しい農夫の真面目な生き方が他者に善い教育的な影響を与えることもあれば、偉い教授の狡獪(こうかい)な生き方が生徒を悪くすることもあります。

物質的な環境が悪くとも、人格的な環境がよければ、人は立派に育ちます。
狭く貧しいあばら屋でも、人格的に豊かな模範がいれば、そこは優れた学校になります。
そこに居る人達が、どちらに転ぶかは、その人達次第なのです。
目の前の経験を善い行いによって模範とし、周囲を変えていけば、そこは良い環境になっていきます。
人を動かすためには、先ず自分が模範となるよう動き出さなければ、何も変わりません。
他者や物質的環境への非難や願いを口で訴えても、効果はありません。

優れた業績は、立派な理念を持つ者ではなく、自らの行動によって理想を模範として示す者です。
いかに身分が低くとも、強い意志を持って行動する誠実な人は、周囲の人々を動かし、立派な事業を成し遂げます。

以上のことからわかるように、教育の結果というものは、何を模範とするかということに決定付けられます。
注意深く模範となるような人を選別し、自身をその周囲に置くことです。
悪い影響を与えると思われるものを避け、良い模範となるようなものに触れ生きることです。
優れた人と接すれば、必ず良い感化を受けます。
立派な人格者は、常に周囲に良い影響を与え、無意識のうちに高められ、一段高い行動の中で生きることを促します。

もし、善き模範となるものが、周囲に無く、孤独な戦いを強いられるようなら、伝記を読むのが効果的です。
たとえ文学や映画やマンガのような形であっても、過去の優れた人格が模範となり、私の人生を変えるきっかけになります。
同じ活字であっても、それは抽象的な教科書の学びではなく、あくまでも行動が記録された文学(伝記)であり、それは模範としての教育的効果を持っています。

一人の人間の勇気に満ちた生涯は、同様な思いを持つ者の心に火をつけます。
そうして燃えたもうひとつの火は、また別の者の模範となり、灯火のリレーのように、時代や場所を越え、永遠につながっていきます。

希望の火に燃える人は快活であり、快活は精神を健やかにし、恐怖心や絶望を駆逐し、失敗をチャンスにします。
どんな些細な仕事も尊いものとし、労働というものに、心と喜びが宿ります。
周囲の人の意欲も掻き立て、環境もより善いものになっていきます。

第十三章、人格

世の中で最も価値あるものは、優れた人格です。
それは人間に威厳と信用と富よりも強い力を与えます。
人格者は社会の良心となり、国を動かす力となります。
人格は自己修練に努めれば誰にでも手に入るものであり、才能や富とは関係なく、平等に機会が与えられています。
優れた人格を最高の目標として生きることで、人に希望と動機づけが与えられます。
仮にそれが実現できなかったとしても、高い基準を設け努力することの中で、様々な経験と力を手にすることができます。

人格という芯を安定して持っていれば、困難や不運にさらされても、気高さと勇気を持って、それに立ち向かうことができます。
「知は力なり」と言われますが、さらに深く言えば、その知を道具として操る人格こそが真の力なのです。

本当の人格者は、自分の中心に行動原理があるため、人が居ようが居まいが、常に正しい行動を取ります。
誰も居ない時にお菓子をくすねなかった少年を褒めた時、彼は言いました。
「いいえ、見ていた人が居ます。僕自身です。僕は自分が悪いことをする瞬間なんて見たくはありません」
不正をした時に発覚しようがしまいが、それによって自分の人格が傷付けられます。
自責の念というものは、私自身が私自身の行動によって傷付けられた時に生ずるものなのです。

人格というものは習慣の集合であるため、優れた人格を得るためには、個々の行動において善い習慣を身につけていくことが必要です。
人間の特性(勇気、優しさ、実直さ、等々)というものは全て習慣から生まれるものです。
身体の習慣が行動の反復によって作られるように、精神の習慣も心の中の則に従い反復的に実践することによって作られていきます。
習慣化を積み重ねることによって、徐々に高度なことも容易にできるようになり、身につけたその習慣はそれだけ堅固になり、道を踏み外すことがなくなります。
身についた習慣は無意識のうちに働くため気付きにくいですが、その習慣に逆らうようなことをやってみれば、それがいかに強力に抵抗するかが分かり、その存在が明瞭になります。
節制が習慣になれば、不節制なことはやる気も起こらなければ、嫌悪の対象ともなります。
逆に言えば、一度でも悪い行動を許せば、そこを端緒として善い習慣が崩れていくことになるため、注意が必要です。

各章で述べてきた信条(信念)、自助の精神、自尊心、勤勉、誠実、忍耐等は、あくまでも実践によって習慣にするべきものです。
信条(信念)という概念的なものは、行動によって実体化された習慣の名でしかありません。
勤勉という信条を持つということは、勤勉な行動が習慣化された生き方をするという事です。

習慣は固定化すればするほど、それは無意識の内から行動を支配するため、一旦つけた悪しき習慣をリセットするには、かなりの努力を必要とします。
悪い習慣をつけ、それを除去し、また善い習慣を身につけるという多大な労苦を考えれば、いかに「最初が肝心」かが分かります。

幸福や不幸でさえ、習慣なのです。
子供の頃から物事をポジティブにとらえるよう習慣付ければ、その後の人生は幸福なものとして構成され、反対にネガティブにとらえるよう習慣付けていれば、不幸な人生が構成されます。
その人の些細な行動から、その人の信条(習慣)とその統合である人格が透けて見えます。
日々の生活は習慣という人格形成の鍛錬の場であり、いかにそれを大切にしていけるかが、人生の成否を左右するのです。

人格形成に際し、礼節(マナー)というものは、自他を幸福にする重要なものです。
礼節とは他者への思いやりと敬意であり、円滑に人間関係を結ぶための潤滑油です。
コミュニケーションにおいては伝える内容以上に重要なものが伝え方です。
いかに相手を想った行動であっても、礼節を持たなければ、相手の心には届きません。

礼節は相手の人格に対しての敬意であるため、つねに相手の意見にも耳を傾け、独善に陥ることがありません。
私の信条と同じだけ、他者の信条にも価値があると考えます。
身分の上下に関係なく、他者を尊ぶ寛大な心が礼節の証しです。
人を選んで態度を変える人は、相手の人格ではなく、その肩書きや功利的価値を見ている卑屈な奴隷であり、主体性を持たない人です。

自立した人は、行動原理が確固として自分の中にあるので、相手が誰であろうと同じように振舞います。
他人の目にどう映るかではなく、自分の信条に照らして自分の行動を評価します。
優れた人格者は、人格の大切さを知っているがゆえに、肩書きや損得勘定に惑わされずに、相手の芯にある人格を尊び、礼節をもって接するのです。
自分の信条を軸にして生きる人格者は、金や快楽や見栄のような外的報酬で心を動かされたりせず、常に正直で堂々と振る舞います。

真の強さには優しさが伴い、勇敢な人は寛容で忍耐強く、情けももっています。
分け隔てない人格に対しての優しさが紳士の証しであり、その人が社会的地位の低いものに対してどう振舞うかを見れば、その人が人格者かどうかが判別できます。

そういう本物の紳士になるためには、富や地位は一切関係ありません。
芯にある人格が問題なのであり、身なりは貧しくとも誠実で礼節を持ち、勇敢で自尊心を持つ者が紳士なのであって、テールコートやシルクハットは紳士を示すものではありません。
本当の貧者は金はあっても心の貧しい人であり、たとえ戦争で敵に財産の全てを奪われても、誇りや希望や美徳を失わない者こそが真の富者なのです。

優しさ、思いやり、気遣い、平等、寛容、敬意、礼節等、人格者がこれらのものを大切にするのは、人間誰もが奥底にもつ「人格」を尊重するからであり、これへの信頼は、自分自身の内にある人格の可能性に対する確固たる信頼のあらわれでもあるのです。
人格の完成は人間の最高の目的であり、本書の目指すものはこの一点に集約されます。