スマイルズの『自助論』

人生/一般

はじめに

本書は成功者の偉人伝と、それを事例として導き出した成功のための一般則(理論)の、二つの文章から構成されています。
本頁では後者の理論にスポットをあてているため、全十三章のうち、本質的な理解にあまり影響が無いと判断したいくつかの章を省いています。

日本では明治四年に出版され、当時では驚異的な百万部のベストセラーであり、『学問のすすめ』と並び日本の思想形成に大きな影響を与えました。
当時は『西国立志編』 、現在は『自助論』というタイトルで出版されていますが、大半が抄訳本ですので、可能であれば完訳本を手にされることをお勧めします。

第一章、自助の精神

天は自ら助くる者を助く。
援助は人を弱くし、自立の精神を挫き、自立の欲求すらなくします。
自分で自分を助ける自助の精神こそ、人間を継続的に励まし続けるものです。

いつの時代も人は自分の力を信じず、法や政治のような外部の力に頼ろうとします。
しかし、いかに優れた法律を定めても、個人の本質は変えられません。
あくまで政治は国民の考えや行動の反映であり、政治の質がどうであれ、結局、国民のレベルに均されます。
国家の価値は国民の質に決定されるため、個々人が変わらなければ、何もなりません。
外からの支配ではなく、国民一人一人の内からの自律によって、社会の進歩は保証されます。

そんな個々人の途切れることなく引き継がれる努力によってのみ、文明も社会も発展していきます。
先人の遺産の後継者として、それを引き受け、さらに発展させ、次世代に引き継がねばなりません。
日々、黙々と働く個人の努力のつながりの糸が、社会という大きな織物を編みあげていくのです。
偉人や天才は、その中で単に目立つ編み目に過ぎず、将軍の勲章は、語られることのない無数の一兵卒の勇気と英雄的行動を基礎にして勝ち取ったものです。

生き生きと努力する人の態度や語りは、それ自体が教育的価値を持ち、周りの人々をも変えていきます。
学校教育よりも、もっと本質的な学びがそこにあります。
人間は机上の学問ではなく、行動によって向上し、労働によって自己を完成させます。
学問は単なる素材やツールであり、それを使いこなす方法は、実践的な学びの中にしかありません。

貧しい境遇において、立派な学問教育を受けられなかった者が、最高の地位に上り詰めることが、それを証明しています。
シェークスピア、コペルニクス、ケプラー、ニュートン、ダランベールなど、貧苦からの成功者の例は数え切れません。
人間の優劣を決めるものは、そういう真剣な努力なのです。

物質的な豊かさは、教育の良し悪しをなんら保証するものではありません。
豊かさから生じる安楽や保護は、学習意欲や問題解決能力を喪失させやすく、反対に厳しい境遇は、人を真剣にし意欲に火をつけます。
また、富は様々な誘惑を招き寄せ自堕落な生活を生じさせやすいため、恵まれた家庭に育ちながらも快楽を軽蔑し、勤勉に生きた人間は尊敬に値します。

ここで勘違いしてはならないのは、自助の精神というものは、他者の援助や支えを必要ともしますし、社会や先人への感謝も惜しまないということです。
そういう意識的なものだけでなく、私という人間は無意識のうちにも、見えない形で無数の他者や事物の影響によって作られているのです。
自助の精神とは、自分の行動とその結果に対し全責任を自分で引き受けるということであり、自分自身が自分に対しての最良の援助者になるということです(最良の援助者の位置に他人を置くことが依存です)。

第四章、忍耐と根気

偉大な成果というものは、大抵ごく当たり前の行為の根気強い積み重ねで達成されます。
成功に必要なものは当たり前の常識と忍耐と集中力だけです。
偉人と言われる人ほど、天賦の才など信じておらず、たゆまぬ努力と集中力、意欲と忍耐を重んじます。
辛抱強くひとつ事に集中して向き合っていると、問題の本質が浮かび上がり、それが成果につながります。
ニュートンが、どうしてそんな素晴らしい発見をできるのかと問われて、「常にその問題について考えていたからです」と静かに答えました。

歴史をひもとけば、あらゆる分野で成功した偉人たちは、倦む事を知らない努力の自伝を持っています。
厳密な意味での「天才(生まれつき優れた者)」にむしろ成功者は少なく、並の才能である者が粘り強く努力した結果生じた優れた業績によって「天才」と呼ばれる人の方が、はるかに多いわけです。

当たり前のはなし、進歩と言うのもは反省と修正の繰り返しのことであり、その反復のプロセスを習慣化しなければ成功はできません。
努力ということはそういうことであり、ただ無意味に汗をかくことではありません。
この努力の習慣を身につければ、どんな難事も達成できます。

しかし、それには時間が必要です。
偉大な成果は急に得られるものではなく、一歩一歩の着実な歩みの遠い先にあるものです。
いかに「待つ」かを知ることが成功の最大の秘訣なのです。
収穫の時期が来るまで、忍耐強く待ち続ける力が必要なのです。
辛抱強く待たねばならない時でも、快活さを失ってはなりません。
快活の精神は、失望や諦めなどのネガティブな感情を駆逐し、待つ力を与えてくれ、仕事に対しての素直な判断力と努力の活力をもたらします。

道は遥か遠く、自分は全く未熟であるという「無知の知」の自覚が、人を努力に駆り立てます。
凡庸な人間は自分の知識や技術を誇り、上辺の能力で満足し、それ以上の努力を放棄します。
しかし、偉人と呼ばれる人達は、自分をまだまだ無知な未熟者であると反省する賢明さを持っているため、常にもっと上を目指そうという意欲を持続させ続けるのです。
ある高名な画家は亡くなる際、「私は鳥の一羽もまともに描くことができなかった」と言いいました。
ニュートンは自分の偉大な業績をもってしても、「真理の大海原の前で私は、浜辺の小さな貝殻を拾い集めているに過ぎない」と言います。

第五章、好機をつかむ

優れた仕事をする人は、些細な問題もおろそかにせず、改善しようとします。
ある時、作品の修正をするミケランジェロに対して、「そんな些細な問題は、さほど重要だとは思えませんが」と友人が言いました。
それに対し、「確かにそれは取るに足らない問題に見えるかもしれないが、そのようなものが積み重なり、美は完成する。美の完成において些細な問題が重要な意味を持つ」と答えました。
積み重なりの過程を知らない鑑賞者の友人と違い、制作者であるミケランジェロにはその小さな過程の一歩の意味と重要性がよく見えているのです。

大発見が偶然から生じたという逸話がよくありますが、実際そんな偶然で偉業が達せられることはまずありません。
例えば、リンゴが落ちたのを見て、その偶然のインスピレーションから、ニュートンは万有引力の法則を発見したという、ドラマティックな逸話を人は信じたがります。
しかし実際は、長年重力の問題に専心し考え続けてきた努力が、単にリンゴをきっかけとして現れ出ただけでしかありません。
たとえリンゴがそこで落ちていなくとも、別のものをきっかけとしてそれは発見されていたでしょう。

普段から問題意識を持って努力し、集中している人の目には、世界の本質が見えています。
その観察力がニュートンのリンゴやガリレオの揺れるランプを通して、真理を見出します。
コロンブスが船尾に漂うちっぽけな海藻から、新大陸の存在を確証したように、こういう観察力を持っていれば、取るに足らない小さなことが、とてつもなく大きな成果に結びつきます。
偉人は高度な事象としか関わらないと思われがちですが、実際はごく当たり前の単純な事象から重要な事実を発見します。

小さなものの積み重ねが大きなものを生み出し、大きなものの存在を小さなものが指し示しています。
小さなものが無駄に見えるのは、その根にある本質が見えていないからです。
やかんの口から蒸気が吹き出すのは、世界中の人々が普段目にするどうでもいいような光景、ちっぽけで無駄なものです。
しかし、観察力を持つ者はそこに蒸気の力(蒸気機関)を見出し、歴史を変える大発見を成し遂げるのです。

逆に観察力や問題意識を持たない人は、たき木の一本も見つけることができません。
事物の本質まで見る真の眼は頭(心)の中にあるのであり、賢者には世界は明るく、愚者には暗く見えています。
心眼がない者はただ世界を眺めているだけで何も見ておらず、心眼のある者は事物の差異と連関を見極め本質を射抜きます。
クモの巣から吊り橋が、フナクイ虫からシールド工法が発見されます。
世界には無視していいような些細なことなどありません。
心眼があれば、どんな小さなことの中にも、何らかの有用なものを発見できます。
その小さな事実の集積によって、ピラミッドが積み上げられるように、偉大な業績が打ち建てられるのです。

ここから分かるように、大きな成功を収めるために豊かさは必要ありません。
豊かさはその人自身の内から作り出すものであり、偉大な人間はチャンスや環境を、ほんの小さな偶然を利用して、どんどん生み出していきます。
偶然出会った一人の人間や一冊の本、偶然拾った化石が、その人の人生を大きく動かし、成功へ導くことがあります。
しかし、それは、小さな偶然をチャンスに変えられるほどに、その人の機が熟していたからであり、普段何の努力もしていない人間には、一冊の本も化石も無意味なものでしかありません。

人間を助けるのは偶然の力ではなく、不断の努力によって、小さな偶然をチャンスに変えるための観察力と実行力を養うことです。
幸運の女神は向こうからやってくるのではありません。
いつも手の届くところで隠れて待ってくれている女神を、自分で見つけ出し、自分の手でつかまえなければならないのです。

努力の基礎となるものは時間とその積み重ねです。
ほんの些細な時間でも大切にし、目的に向けて有効に使えば、いずれ大きな業績として返ってきます。
お金や物と違って、今日という日は二度と戻ってきません。
重要だと思える考えがあるのなら、それを実行にうつし、忍耐強く継続することです。

その道を歩むことは、永らく他者からの無理解や孤独を伴うものであったりします。
しかし、偉人は多くの場合、移り気で不正確な他人の評価より、自分が確証した真実を重視し、自分の本分を満足させるものから喜びを得ます。
それは谷間の道を行くような静かな歩みであり、名声を得た後の騒々しさよりも、むしろ自身の本分に対し誠実で謙虚な姿勢でいられるこの道を好みます。

第六章、仕事と創造

何らかの目的を達成しようと意を決したなら、起床から就床まで、全身全霊をそこに傾けねばなりません。
たとえ天賦の才や幸運を持っていても、努力によってそれを保持し磨かなければ、輝きを放つことはありません。
結果の果実しか見ない私たちは、それが生まれるまでの勤勉な努力の過程を知らず、まるで天から与えられたもののように感じてしまいます。
しかし、目の前にある一枚の絵(ティツィアーノ『最後の晩餐』)は、7年もの間、毎日描き続けられた作品であったりします。
むしろ洗練されたものは努力の跡が見えなくなるので、尚更、注意が必要です。

そんな根気強い努力を堅持するためには、富や名声という外的な褒美ではなく、自身の本分の達成を目的とし、自身の天性を発揮するという内的な褒美を求めねばなりません。
いわば仕事が何らかの別の目的のための手段ではなく、その仕事自体が目的であることによって、安定的で継続した努力へのモチベーションが維持できるのです。
ぶらさげられたニンジンのために走る馬ではなく、面目躍如とした自分の本姓を発揮するために馬が駆けるように。

目の前に与えられたどんな状況や偶然も大切にし、貪欲に自分の目的へとそれを向け変え、小さな歩幅であっても、今日一歩でも前進させることが大切です。
例えば、ターナーは画家としては下らない絵の仕事(他人の絵の仕上げ作業、パンフレットのイラストや辞典の挿絵など)も引き受け、お金にしました。
どんな瑣末な仕事であっても、それに最善を尽くし、絵の修行の機会とすれば、金を入手するためだけの時間と労力も、無駄にはならないからです。
「それこそ当時の私にできる最善の練習方法だったのだ」と、ターナーは言います。
常にベストを尽くす努力によってのみ、現状を打破する可能性が与えられ、幸運を手にする資格が与えられます。

第八章、勇気と活力

「われは道を探す。道なくば道を作る」という古代の名言通り、環境というものは自分自身で作っていくものです。
肥えた土地も痩せた土地もある程度は自然に与えられた条件によるものですが、基本的のはそこに住む人々の勤勉な努力によって生まれたものです。
絶望的に駄目な土地を肥沃な土地に変えるというお話は、現実でも虚構でも無数にあり、運命を自分の使命によって変えていく姿に、人はうたれます。

現実というものは、頭と身体を共に働かさない限り変わりません。
変えたいものに向かって努力し、努力し、努力し続けることが人生です。
それに必要なものは意志(勇気)と活力であり、厳しく単調な仕事に押しつぶされることなく、前進していくことです。
成功に必要なものは環境や才能ではなく、強い意志と努力を継続させる活力なのです。
それは活力によって希望が芽生え、同時に希望によって活力が湧き起こるというサイクルです(その反対をなすものが、無気力と絶望の円環です)。
ヘイスティングズの戦いの地、バトル修道院に残る古い兜には、「希望は力なり」という言葉が刻まれています。
現実の厳しさというものが世界で最も優れた教師であり、勇気を持ってそれに学び、希望に結びつけねばなりません。
臆病さはすべての可能性の芽を摘んでしまいます。

端的に意志というものは可能性への信頼であり、意志薄弱とは不可能性を信じてしまうことです。
ナポレオンが不可能という言葉を嫌ったのは、その言葉を発した時点で、負けが決定(不可能が確定)するからです。
戦いにおいては、相手の意志が緩む瞬間がこちらの勝利の機であり、逆にこちらの意志が薄弱になった時、敗北の機が訪れると言います。
成功者と失敗者の違いとは、この意志の有無とそこから生ずる旺盛な活力なのです。
意志の強さは必然的に持続力と粘り強い活きた力となり発揮されます。
それら意志と活力を備えていなければ、たとえ有利な境遇や豊かな才能があってもも、無用の長物でしかありません。
「真の英知とは、確固たる決意のことだ」というのがナポレオンの信条でした。

第九章、実務の力

どんな分野であれ成功のために必要なのは、その道の専門能力に加えて、一般的な実務の力です。
映画や文学等で伝えられる偉人や、あるいは偉人となる本人すら、その偉業の裏にある退屈な実務の努力を見せないため、巷では天才はビジネスや実務に縁遠いものと思われています。

しかし、現実の偉人たちは崇高な目標を持ちつつも、その裏で地味で俗っぽい実務を営むことを大切にしていました。
優秀な劇場経営者であったシェークスピアや、秘書官であったミルトン、造幣局長であったニュートン、収入印紙販売員のワーズワース、等、芸術家はむしろ実務面の方で優れていたとも言えます。

そもそも職業が人間の格を決定するのではなく、人間の職業に対する生き方が格を決めるのです。
正当な報酬を得る仕事は、肉体労働であろうが頭を使う仕事であろうが同格に尊いのです。
人間の格を落とすのは、身なりの汚れではなく、精神的な腐敗です。

地味で面倒な回り道によって常識と実務経験を得ることで、成功への道は開けます。
こまめな実践の積み重ねによって歩む道は、着実な成果と困難を乗り越えていく達成感を生みます。
厳しさの中にある緊張感は、人の意識を高め、人間を磨き、他者を感化し仲間を生みます。

反対に安易な近道による成功は、ある種のまぐれ当たりであり、その不安定なギャンブル性への依存が、人生を狂わせ破滅に導きます。
その中で失敗を環境や他人のせいする怠惰心が身に付き、成功者の行動力を厚かましさと非難し、自分の実務力のなさを慎ましさと捉えるような、ねじれた人間となります。
実務の力がなければ、どんな幸運な境遇も才能も、宝の持ち腐れとして終わります。

小さな実践の積み重ねの中で重要なことは、その正確さです。
少しずつきちんと正確に仕事をこなすことによって、確実に進歩し、目的地に最も早く着きます。
正確さと同時に大切なのは、本質をつかんだ手際の良さです。
その仕事にとって何が重要で何が不要かの本質をつかみ、無駄を省けば、驚くほどのスピードと少ない労力で、多くの仕事量をこなすことができます。

さらにそれは時間管理の問題にも共通することで、有効に時間を活用すれば、それだけ利用可能時間も増え、良い循環で時間の余裕が生まれます。
逆に、時間管理をおざなりにすれば、それだけ利用可能時間もなくなり、火の車となります。
一度染み付いた時間を無為に過ごす怠惰の姿勢は、なかなか取る事ができません。

地味な回り道の誠実な歩みは、自分のその行為の結果が廻り回ってくるまで時間がかかるため、危険な近道を選びたくなります。
しかし、成功を確実で持続的なものにしたいなら、あえて苦しい回り道を選ぶしか方法はありません。

第十章、お金の力

お金というものは、それ自体は尊くも卑しくもない、単なる道具です。
使い方次第で、その人や人生を良くも悪くもします。
お金の使い方はその人の人格の現れであり、お金の問題は人間の問題です。

善く使えば、それは精神的にも経済的にも自立と安心を与えてくれるものであり、何より基本的な物質的必要の充足は、人格の健康や成長に必要なものです。
また、快適な生活を得るための努力自体が、自尊感情、実務力、忍耐、勤勉、克己、節度、計画性、目的意識などの、人間にとって重要な特性や能力を獲得する教育的効果を持っています。
将来のために今を犠牲にする計画行動というものは、難事でありながら、幸せな人生を作るために絶対必要なものです。

反対に、悪く使えば、寄る辺ないその日暮らしの精神的不安と状況に依存する奴隷状態の中で、自尊心や自己肯定感を失い、無気力と怠惰と諦めが常態化することになります。
社会の片隅に追いやられ、無知と不満で心は荒み、不況時には他人の慈悲にすがる物乞いのような存在となります。
貧困は内からも外からも悪徳に対する抵抗力を無くし、改善のための手段を限定してしまいます。
困窮は、人間をその場限りの可能性に縛りつけ、別の道を歩む自由を奪っていきます。

凡庸な人でも、勤勉、倹約、節制、正直の徳目に従えば、状況はいくらでも改善し向上します。
労働者に健全な自助の精神が根付けば、底辺での足の引っ張りあいから全体の向上へと社会は動き出します。
惨めな隷属から解き放たれ、知性と美と自由に溢れた生活が約束されます。
お金の正しい使い方はその人の懸命さ、克己心、先見力の証しです。

お金は有意義なものも無意義なものも買え、衣食住だけでなく自尊心や自立心や鷹揚な心を買うこともできます。
生活の足場が安定していることは、希望と明るさと安心を与え、そういう地固めの努力をできる向上的な人は、人としても尊敬に値します。

自立の基本は倹約です。
倹約の本質は家政全般の秩序付けと管理であり、生活に規則を与えることで無駄を省き、人生を有効に使うことです。
将来のために現在を利用し、本能的な動物的欲望を理性によって制御し、後の幸福に向けて快楽を計算する、快楽の経済学です。
倹約はくだらない金銭崇拝などではなく、道具としてのお金の使い方の能力です。
倹約は自助の精神の最高形態としての現れです。
倹約は思慮分別が産む子であり、自由と安心と心の余裕を産む母になります。
倹約はケチとはまったく逆のものなのです。

ケチはむしろ計画性のない、近視眼で狭隘な心が生むもので、それは不幸の原因です。
本来、人間という主人の道具であったはずのお金の奴隷となり、人は人間性と主体性と心を失います。
人間の幸福ではなく、金儲け自体が目的になり、人間を忘却してしまいます。

ケチが計画性のない、盲目的な貯蓄への衝動だとすれば、浪費は計画性のない盲目的な乱費です。
自分の稼ぎで自分の生活をまかなえないその無計画性は、やがて不正な手段や、他人へ依存することになり、自由と自立と善良さが犠牲になります。
浪費家の敵は社会ではなく、自分自身の中にあるのです。

余裕のない浪費は虚飾を生み、上辺を取り繕ったものが跋扈する見掛けだけの社会が生じ、破滅へ向かいます。
不正と嘘に覆われた社会では、分わきまえた本質的な生活を送る正直さや本物は埋もれ消失してゆきます。

お金の使い方は、その後の人格形成や幸福を左右する非常に重要なものなのです。
目先の利益や快楽の誘惑に負けていくごとに人間の抵抗力は弱まり徳が失われていき、逆に勝てば自ずと自信と勇気がついてきます。
やがてそれは習慣となり、自然と徳と勇気の備わった生活を送れるようになります。
自己修練によって自分が自分の主人になり、お金より知恵を求め、倹約によって自立することです。

お金はあくまで道具であって、過大評価してはいけません。
偉人は最低限の資金で十分、人間力を養えます。
目指すのは最大の資産ではなく、最高の人格です。
豊かさは財産の多さはではなく、心の中の欲望の落ち着きにあるのです。
下品な虚飾の金持ちより、つつましい品のある暮らしが豊かさです。
神はいつでも必要十分なパンを与えてくれているのです。

人間的なものが目的であり、それ意外はすべて単なる手段でしかありません。
肩書きだけの地位や名誉よりも、社会人としての責務をまっとうすることです。
お金の力より、知性や道徳の力の方が優れています。
社会や人類を先導する者は、金持ちではなく豊かな人格を持つ人であり、そんな人にとっては世俗の成功や金や名誉など、取るに足らないものでしかありません。

第十一章、自己修養

最高の教育とは、自らが自らに対し行う教育(自己修練)です。
自分固有の状況の中で、自分の手で苦労しつかまえた知識だけが、血肉になります。
自分の頭と身体によって問題をとらえ解決する自己修練の姿勢は、どんな優れた教師や書物に出会ったとしても、基本として必要となるものです。
一方通行的な断片的な知識の押し付けでなく、主体的に知識をつかんでいくことが効果的なのです。
自分の頭も身体も使わない怠惰な姿勢は、安直で邪(よこしま)な考えが入ってくる隙を与えやすく、悪い方へ流されてしまいます。
知的な仕事に携わる人は、身体の健康を疎かにしがちですが、不健全な肉体は、鬱や無気力や不満や忌避を生じさせやすく、注意が必要です。

しっかりとした目標と、惜しまぬ努力さえあれば、誰でも目的とするところまでたどり着けます。
先ず自分が何をしたいのかという確固たる目標を明瞭に自覚すれば、そこへ到るための手段は自ずと導き出されます。
単調な作業の積み重ねが天才へと至る道であり、成長に限界などなく、努力をやめるときが限界なのです。
努力しなければ、成就の可能性すらありません。
偉大な業績は急に生まれることなどなく、その前に地道な準備の努力があります。
努力することによって、最初は難しかったことが難なくできるようになり、その積み重ねによって、偉大なことが実現可能になるのです。
簡単にやってのける大道芸人のお手玉も、忍耐強い練習と挫折の後に獲得されたものなのです。

重要なことは、知識をどれだけ蓄えたかではなく、知識をいかに有効に活用できるかです。
使い方も分からない膨大な知識より、有効な少数の知識を正確に習得する方が知識として優れています。
得た知識はいつでも使えるような状態にして保持しておくことも重要です。

知識を得た後は、自己修練によってそれを越え出て行かねばなりません。
自分の目と頭を働かせ、実生活での経験の中で試行錯誤し、それを本物の知恵として昇華することです。

問題意識を持って学ぶのではなく、遊び半分で勉強していると、やがて勉強が遊戯になってしまいます。
知性と努力の無駄遣いが始まり、空虚な頭と人格が形成されます。
無目的な乱読は、勉強のフリをした惰眠であり、無気力を常態化させます。
人間を高めてくれないような勉強は、知識を装った怠惰と無知でしかありません。
人をより幸福で有徳な人間という目的のための、効果的な道を作ってくれるものだけが知識です。
そういう実践的な英知を得るための基礎が、自己管理と自己修練であり、それを芯から支えるものが自分への尊敬です。
この世界の中で命を与えられた以上、自己を大切にし、世界のために働く責務と使命を負っているという自負心です。
最善を尽くして自分を磨き、世界に対する畏敬の念をもつことです。

自分を尊敬できない人は、他人からも尊敬されません。
卑屈な心は卑屈な行動を生み、うつむいてばかりいれば前向きな心にはなれません。
いかに物質的に貧しくとも、自己を尊び、しっかりと前を向いて歩いてゆけば、下劣な誘惑を弾き飛ばし、真っ直ぐに目的へ向かうことができます。

そうした自助の修練によって自己の能力が向上していけば、自らを敬う心も自然と高まっていきます。
自己が充足している人には利他心が生じ、自分だけでなく誰かのために働くことに喜びが感じられるようになります。

逆境においてこそ、その人の真の力が剥き出しになり、覚醒します。
失敗は問題を明確化し、集中力を高めてくれます。
人間は苦難に耐えぬき、困難に勇敢に立ち向かい、障害を乗り越えることによって鍛えられ、成長していきます。
反対に、富や繁栄などによる安楽は、人間の抵抗力や精神的な筋力を衰退させ、傲慢や吝嗇や卑屈な心を招きよせ、眠たい眼差しは冷静な判断力を鈍らせ、人を堕落させます。
順調な時ほど、規律と自制心が必要となります。

目標を達成する最善の方法は、必ずそれを達成できると強く思うことです。
その時点でほとんどの障害というものは、自然と消えてなくなります。
裏を返せば、障害や限界というものは、自分の心が生み出しているものなのです。
次いで、とにかくやってみることです。
とにかくやってみなければ、自分にいま何があり何が必要かすらわかりません。
画家がキャンバスにまずアタリをつけ、その後そこに絵の具を盛って完成していくように、最初の一歩を踏み出さなければ、その後の歩みは永遠に存在することができません。
千回も望み憧れることより、勇気を持ってたった一度でも試みることの方が、遥かに価値があります。

何度も言うように、世界を動かすのは、天才ではなく、目標に向かって粘り強く努力する者です。
素直に与えられたものの中で一生懸命努力し、最善を尽くしていくことによって、高みへ到る人です。

結論を言えば、真の知識というものは、他人から教わるものではなく、成長の過程で自らの努力によって獲得するものです。
精神と肉体の両面で健康であり、忍耐と努力の習慣をつけ、自己修練に励めば、自ずと目的地へとたどり着くことができます。

第十二章、模範(モデル)

人間という模範は言葉を使わない実践の教師であり、行動による教示は言葉のそれより遥かに説得力があります。
人間は耳で聴く情報より、目で見る情報の方が比較にならないほど多く、その印象の強さも相当違います。
文字(概念)によって学ぶ意識的な学習より、視覚像によって学ぶ無意識的な模倣の学び(真似び)の方に多く影響されます。

子供は知らず知らずのうちに、周囲の大人の言動を模倣し、それに似た者になっていきます。
子供の人格形成においては、学校教育以上に家庭における模範の影響が大きいのです。
親の人格は日々繰り返し子供の無意識の中に刷り込まれ、その影響は終生残り続けます。
もっと強い影響を持つ模範が現れ上書きされたとしても、その痕跡は残り続けます。
時代や場所を問わず、子は親を映す鏡と言われています。

子供の頃に接した母のあたたかい眼差しや、父の真っ直ぐな背中や、お手伝いさんの決して悪口を言わずどんな人でも敬う姿勢、そういうものが偉人の後の人生を作っています。
逆に言えば、周囲の悪い言動は悪い人格を形成します。
それを反面教師として意識的に反抗すること「こういう人間の言動だけは絶対に真似しない」もできますが、それは概念の学びであって、模範-無意識レベルの学びではありません。

ある人物が部屋に入ってくると、とたんに雰囲気が良くなり、言動が上品になり、皆がいきいきしはじめるようなことがあります。
健やかな心は健やかな環境の中で育まれ、荒んだ心は荒んだ環境の中で生じます。
誰かを教育しようとする人(親、教師、上司、等)に対して言える最高の助言は、「汝、自らを改めよ」ということです。

人の言動のひとつひとつが、必ず周囲に何らかの影響を与えます。
その影響は、水面の波紋のように広がりながら連鎖していきます。
そうやって、社会という共同体の成員である一人一人の行動が周囲に与えるその影響が、未来の社会のあり方を作っているのです。
過去の人々の言動という模範によって生み出された文化に育まれた現代の私たちは、次は未来の世代のあるべき模範としての役割を担っています。
今を生きる私たちは、模範という教育によって次の世代を育て、未来を作る責任を負っている、歴史の制作者なのです。

人は死に、その肉体が消滅しても、模範という影響の輪は生きつづけます。
死んだ父の実直な生き方が、私や周囲の人の中に生き続けているように、私の人生は私が消滅しても、未来へと生き続けるのです。
魂の不滅の言説は、そういう意味でとらえるべきでしょう。
過去と未来をつなぐのが現在の我々なのです。

すべての人間がすべての人間に対しての教師でありかつ生徒であり、そこに管理する者される者の上下差はありません。
貧しい農夫の真面目な生き方が他者に善い教育的な影響を与えることもあれば、偉い教授の悪賢い生き方が生徒を悪くすることもあります。

物質的な環境が悪くとも、人格的な環境がよければ、人は立派に育ちます。
狭く貧しいあばら屋でも、人格的に豊かな模範がいれば、そこは優れた学校になります。
そこに居る人達が、どちらに転ぶかは、その人達次第なのです。
目の前の経験を善い行いによって模範とし、周囲を変えていけば、そこは良い環境になっていきます。
人を動かすためには、先ず自分が模範となるよう動き出さなければ、何も変わりません。
他者や物質的環境への非難や願いを口で訴えても、効果はありません。

優れた業績は、立派な理念を持つ者ではなく、自らの行動によって理想を模範として示す者です。
いかに身分が低くとも、強い意志を持って行動する誠実な人は、周囲の人々を動かし、立派な事業を成し遂げます。

以上のことからわかるように、教育の結果というものは、何を模範とするかということに決定付けられます。
注意深く模範となるような人を選別し、自身をその周囲に置くことです。
悪い影響を与えると思われるものを避け、良い模範となるようなものに触れ生きることです。
優れた人と接すれば、必ず良い感化を受けます。
立派な人格者は、常に周囲に良い影響を与え、無意識のうちに高められ、一段高い行動の中で生きることを促します。

もし、善き模範となるものが、周囲に無く、孤独な戦いを強いられるようなら、伝記を読むのが効果的です。
たとえ文学や映画やマンガのような形であっても、過去の優れた人格が模範となり、私の人生を変えるきっかけになります。
同じ活字であっても、それは抽象的な教科書の学びではなく、あくまでも行動が記録された具体的な描写の文学であり、それは模範としての教育的効果を持っています。

一人の人間の勇気に満ちた生涯は、同様な思いを持つ者の心に火をつけます。
そうして燃えたもうひとつの火は、また別の者の模範となり、灯火のリレーのように、時代や場所を越え、永遠につながっていきます。

希望の火に燃える人は快活であり、快活は精神を健やかにし、恐怖心や絶望を駆逐し、失敗をチャンスにします。
どんな些細な仕事も尊いものとし、労働というものに、心と喜びが宿ります。
周囲の人の意欲も掻き立て、環境もより善いものになっていきます。

第十三章、人格

世の中で最も価値あるものは、優れた人格です。
それは人間に威厳と信用と富よりも強い力を与えます。
人格者は社会の良心となり、国を動かす力となります。
人格は自己修練に努めれば誰にでも手に入るものであり、才能や富とは関係なく、平等に機会が与えられています。
優れた人格を最高の目標として生きることで、人に希望と動機づけが与えられます。
仮にそれが実現できなかったとしても、高い基準を設け努力することの中で、様々な経験と力を手にすることができます。

人格という芯を安定して持っていれば、困難や不運にさらされても、気高さと勇気を持って、それに立ち向かうことができます。
「知は力なり」と言われますが、さらに深く言えば、その知を道具として操る人格こそが真の力なのです。

本当の人格者は、自分の中心に行動原理があるため、人が居ようが居まいが、常に正しい行動を取ります。
誰も居ない時にお菓子をくすねなかった少年を褒めた時、彼は言いました。
「いいえ、見ていた人が居ます。僕自身です。僕は自分が悪いことをする瞬間なんて見たくはありません」
不正をした時に発覚しようがしまいが、それによって自分の人格が傷付けられます。
自責の念というものは、私自身が私自身の行動によって傷付けられた時に生ずるものなのです。

人格というものは習慣の集合であるため、優れた人格を得るためには、個々の行動において善い習慣を身につけていくことが必要です。
人間の特性(勇気、優しさ、実直さ、等々)というものは全て習慣から生まれるものです。
身体の習慣が行動の反復によって作られるように、精神の習慣も心の中の則に従い反復的に実践することによって作られていきます。
習慣化を積み重ねることによって、徐々に高度なことも容易にできるようになり、身につけたその習慣はそれだけ堅固になり、道を踏み外すことがなくなります。
身についた習慣は無意識のうちに働くため気付きにくいですが、その習慣に逆らうようなことをやってみれば、それがいかに強力に抵抗するかが分かり、その存在が明瞭になります。
節制が習慣になれば、不節制なことはやる気も起こらなければ、嫌悪の対象ともなります。
逆に言えば、一度でも悪い行動を許せば、そこを端緒として善い習慣が崩れていくことになるため、注意が必要です。

各章で述べてきた信条(信念)、自助の精神、自尊心、勤勉、誠実、忍耐等は、あくまでも実践によって習慣にするべきものです。
信条(信念)という概念的なものは、行動によって実体化された習慣の名でしかありません。
勤勉という信条を持つということは、勤勉な行動が習慣化された生き方をするという事です。

習慣は固定化すればするほど、それは無意識の内から行動を支配するため、一旦つけた悪しき習慣をリセットするには、かなりの努力を必要とします。
悪い習慣をつけ、それを除去し、また善い習慣を身につけるという多大な労苦を考えれば、いかに「最初が肝心」かが分かります。

幸福や不幸でさえ、習慣なのです。
子供の頃から物事をポジティブにとらえるよう習慣付ければ、その後の人生は幸福なものとして構成され、反対にネガティブにとらえるよう習慣付けていれば、不幸な人生が構成されます。
その人の些細な行動から、その人の信条(習慣)とその統合である人格が透けて見えます。
日々の生活は習慣という人格形成の鍛錬の場であり、いかにそれを大切にしていけるかが、人生の成否を左右するのです。

人格形成に際し、礼節(マナー)というものは、自他を幸福にする重要なものです。
礼節とは他者への思いやりと敬意であり、円滑に人間関係を結ぶための潤滑油です。
コミュニケーションにおいては伝える内容以上に重要なものが伝え方です。
いかに相手を想った行動であっても、礼節を持たなければ、相手の心には届きません。

礼節は相手の人格に対しての敬意であるため、つねに相手の意見にも耳を傾け、独善に陥ることがありません。
私の信条と同じだけ、他者の信条にも価値があると考えます。
身分の上下に関係なく、他者を尊ぶ寛大な心が礼節の証しです。
人を選んで態度を変える人は、相手の人格ではなく、その肩書きや功利的価値を見ている卑屈な奴隷であり、主体性を持たない人です。

自立した人は、行動原理が確固として自分の中にあるので、相手が誰であろうと同じように振舞います。
他人の目にどう映るかではなく、自分の信条に照らして自分の行動を評価します。
優れた人格者は、人格の大切さを知っているがゆえに、肩書きや損得勘定に惑わされずに、相手の芯にある人格を尊び、礼節をもって接するのです。
自分の信条を軸にして生きる人格者は、金や快楽や見栄のような外的報酬で心を動かされたりせず、常に正直で堂々と振る舞います。

真の強さには優しさが伴い、勇敢な人は寛容で忍耐強く、情けももっています。
分け隔てない人格に対しての優しさが紳士の証しであり、その人が社会的地位の低いものに対してどう振舞うかを見れば、その人が人格者かどうかが判別できます。

そういう本物の紳士になるためには、富や地位は一切関係ありません。
芯にある人格が問題なのであり、身なりは貧しくとも誠実で礼節を持ち、勇敢で自尊心を持つ者が紳士なのであって、テールコートやシルクハットは紳士を示すものではありません。
本当の貧者は金はあっても心の貧しい人であり、たとえ戦争で敵に財産の全てを奪われても、誇りや希望や美徳を失わない者こそが真の富者なのです。

優しさ、思いやり、気遣い、平等、寛容、敬意、礼節等、人格者がこれらのものを大切にするのは、人間誰もが奥底にもつ「人格」を尊重するからであり、これへの信頼は、自分自身の内にある人格の可能性に対する確固たる信頼のあらわれでもあるのです。
人格の完成は人間の最高の目的であり、本書の目指すものはこの一点に集約されます。