マルクーゼの『エロス的文明』(2)エロスの解放

(1)のつづき

<第二部、現実原則のかなたに>

現実

文明の進歩によって、快楽原則を抑圧する疎外された労働というものの必要性が薄くなっていきます。
それでも抑圧の構造がなくならないのは、その組織の継続が支配者の利益になるからです。

現実は有益で正しいが不快であり、空想は無益で誤りであるが快であるという認識で、現実は理性に従い進行し、空想の言葉は黙殺されます。
しかし、空想とは、現実原則によって秩序付けられたこの世界の限界を究極的なものとして受け容れることを拒み、別の可能性を模索する機能です。
本来現実の中に潜んでいる様々な可能性(空想)を、おとぎ話の無人島へ監禁することが、現実原則のイデオロギーです。

エロス的文明

そこでマルクーゼは抑圧(過剰抑圧)のないエロス的文明のユートピア構想を提示します。
快楽原則が現実原則に対し主導権を取り返すことによって、エロス(生の本能)を解放することです。
それは決して文明が野蛮状態に戻るということではありません。

現在行われている抑圧というものは、生活の必要性から生じたものではなく、その大半が支配者の利益を生み出すために労働者に押し付けられた「過剰抑圧」だということです。
過剰抑圧とは、搾取の基本構造であるマルクスの剰余価値をフロイトの欲動論に接続した概念です。
要は資本家の生産性の拡大のために、労働者に必要以上の抑圧を課すことであり、人間を生産の道具に貶める、疎外された抑圧的労働です。

労働の社会組織を変革し、新しい人と仕事の関係を生み出すことによって、過剰抑圧のない現実原則(=社会)を作ることが、その目的となります。
それには労働のオートメーション化と労働時間の短縮による、自由時間の充実が必須になります。
最終的にオートメーションがすべての労働はたす時代が到来し、経済が自力で回転する装置になれば、性の過剰抑圧は不要になります。
人間は労働の道具であることをやめ、肉体を再性化し、エロス(生きる力)を取り戻します。

美的社会

それは、人と自然をエロス的に和合させるような労働のあり方、秩序が美で仕事が遊びであるような態度を生み出すことです。
理性の専制的な抑圧を排除し、感性の自然な権利を解放することです。
美の本質とは「目的なき合目的性」であり、自由の本質とは「法なき合法則性」であり、これら二つのものによって秩序を規定することです。
真に人間的な文明では、人間の生は労苦ではなく遊びであるはずなのです。

この美的な文明というものは、知性と感性の両面における変革を必要とし、文明が知的にも物的にも成熟に達している時にのみ、可能になるものです。
毎日を遊びのように楽しげに生きる未開人に戻ることではなく、高い文明の中でそれを取り返すことです。
より高められた文化として抑圧を解放するなら、それは野蛮を生じさせず、シラーの言う美的社会へ導きます。
それは必然の王国ではなく自由の王国であり、抑圧のない秩序と疎外されることのない余剰を享受できる社会です(詳細はシラーの遊戯論を参照して下さい)。

性からエロスへ

現実原則によって、時(余暇)、場所(プライベート)、対象(ひとりの異性、性器)等、幾重にも拘束されていたリビドーは、ここにおいて自由な発展をゆるされることになります。
一夫一妻の父権的家族制度は崩壊し、性器の優位が終わり、多様な性欲が復活し、身体の全部が性の対象および手段となります。
生体およびパーソナリティー全体がエロス化され、旧来の性という概念は消失します。
ここにおいては、抑圧の結果として生じていた霊(精神)と肉(肉体)の相克は解消され和合します。

現実原則の抑圧を解除することによって、性をエロスへと成長させ、エロスが理性を主導し、エロス的充足の秩序を維持させることです。
それはエロス内部にある自然な自己抑制によって則を承認することです。

(プラトン『饗宴』を例示して)
肉体的な愛にはじまって、一人の対象から次の対象へと、エロスの充足は上昇しつづけ、美しい仕事と遊びの愛を経て、そうして、最後に美しい知恵の愛に到達する。『高次の文化』への道は、少年の真の愛情を通じて、開けている。精神的な『生殖』は、肉体的な生殖とまったく同様にエロスの仕事であり、ポリスの正しくて真実の秩序は、~エロス的な秩序である。エロスの文化を作る力は、非抑圧的な昇華である。(紀伊国屋書店『エロス的文明』191項より)

エロスとタナトス

最終的には死の欲動(タナトス)もエロスも同じ「ニルヴァーナ(涅槃)原則」、少しの緊張も感じられない常態的満足(欲望の欠如)状態を目指しています。
だとすると、文明が進歩し人間の欠乏を克服していけば、エロスとは逆方向から涅槃の実現を目指していた死の欲動の破壊的力も、自ずと減衰していくはずです。

もし本能の基本的な目的が生命の終結にではなく、苦痛の終焉、つまり緊張の消失にあるとすれば、逆説的にいうと、本能からみれば、生と死の葛藤は、生命が満足の状態に近づけば近づくほど、減少することになる。そこでは、快楽原則とニルヴァーナ原則は同じ地点に向かうことになる。同時に、過剰な抑圧から解放されたエロスは強化され、その強められたエロスは、死の本能の目的を至極当然のごとく吸収するようになるだろう。(同上、234項)