ユクスキュルの『生物から見た世界』(3)

(2)のつづき

(前項で基本的な理論は解説し終えましたので、ここからは駆け足で見ていきます)

第八章

この経験によって付加される個々の主体独自の作用像や作用トーンというものが、時に外的な知覚を歪めることがあります。

例えば、毎日、コの字型の水槽の先に餌を置いた装置の、もう一方の先から闘魚を入れ、給餌したとします。
しばらくそれを繰り返した後、コの字型のスタートとゴールを直結する穴を開けてロの字型にします。
しかし、闘魚は持ち前の作用トーンに従い、目の前の穴という知覚像を無視し、いつも通りコの字型の迂回路を通って、餌に向かいます。

これとは逆に、盲導犬の場合は、自分(イヌ)の作用トーンによる環世界を、盲人の作用トーンによる環世界に合わせて歪めるように学習します。
それによりイヌにとっては存在ですらない段差を、盲人のトーンによって出現させ、回避します。

第九章

動物がある一定の場所に故郷のように住み着くのも、自分の主観的な環世界の作用トーンへの偏重ともとらえられます。
粘性の高い流体の中を粘性の低い流体が通っているように、なじみの道、なじみの場所を離れることには、ある種の抵抗が存在しています。

第十章

また、カモがはじめて見た物を親だと思い込む「刷り込み(imprinting)」のように、一度経験的に付加された作用トーンが、生得的なものと思えるくらい堅固で長期間持続し、知覚像を支配し続けるものもあります。

第十一章

その動物がある特定の作用像や作用トーンに強く支配されていれば、それだけ知覚像も歪んだものとなります。
例えば、私が家から居なくなった飼い猫を必死で探す時、普段は当たり前に知覚していた街のゴミ、ボロ布や買物袋や濡れた段ボールに、探索像である猫が上書きされて、それを轢かれた猫と知覚して駆け寄ってしまいます。
恐怖のトーンにあるときは、柳の木が人間の姿に、猫の声が赤子の泣き声として知覚されます。
ヒキガエルに長い間エサを与えずに空腹のトーンにして、ミミズを一匹与えると、その強い印象の作用像に支配され、その後、マッチ棒のようなものにでも、即座に飛びかかるようになります。

第十二章

これが極端になると、主観的なトーンが環世界を覆い、ある種の魔術的世界となります。
経験との関係が希薄であり、その主体にしか見えない現象が生じます。
ドン・キホーテが風車の巨人と真剣に戦うように。
ムクドリの観察において、突然見えない何かに向かって突進し、虚空をついばみ、餌場に戻り、それを嚥下するという行動が見られました。
空腹による過度の摂食のトーンによって、ある種の幻視行動が見られたとも考えられます。

以上、これまでの考察から導き出されるのは、環世界というものは純粋に主観的な現実であり、世界の客観的現実なるものがそのまま環世界の中に登場することはありません。
世界そのもの(いわゆるカントの物自体)は、その生物独自の知覚標識に従った形式に変更された上で受容され、さらにその刺激は各個体の作用トーンによって様々な意味のものとして変更された上で、ようやく現実の対象物となるのです。

はじめに述べたように、知覚標識も作用標識も、あくまで主体から生ずるものであり、客体はそれら標識の担い手でしかないということです。
あらゆる主体は、主観的現実のみが存在する世界に生きており、それが環世界だということです。

第十三章

仮に客観的現実をとらえようとしても、そこから生ずるのは混沌の眩暈だけです。
例えば、カシワの木は、少女にとっては瘤顔の悪魔であり、木こりにとっては単なる商品であり、キツネには寝座、リスには跳躍台、ヒメバチには産卵場、キクイムシにとっては食物です。
カシワの木というものは、そんな無数の生物それぞれの環世界を部分的に担う何らかのものでしかありません。
それぞれの生物はそれぞれの環世界から出ることが決してできない以上、カシワの木そのものも、他生物にとってのカシワの木の姿も、認識することは決してできません。

第十四章

これは人間の世界においても言えることで、それぞれの人間や共同体の持つ世界観というものは、それぞれの主体の能力や特性や状況に合わせて切り取った、自然のほんの小さなひとコマにすぎません。
様々な学派や学問領域が主張する世界(自然)の姿は、ただ彼らの生きる環世界の中における自然の姿を描いているだけであり、その実みな同じものなのです。

物理学者が描く世界と芸術家が描く世界は相反するものではなく、ただ相補的に世界を描写しているだけです。
行動主義的心理学と心理主義的心理学の激しい対立は、ただ、行動によって精神を説明するか、精神によって行動を説明するかの、観点の違いでしかないのです。

この多様な環世界ひとつひとつが、あらゆる別の環世界に対して閉ざされていると同時に、そのすべての環世界が、「自然そのもの」という、永遠に認識されない隠れた存在によって支えられているのです。

おわり