ユクスキュルの『生物から見た世界』(2)

(1)のつづき

第四章、単純な環世界

生物にとって空間と時間というものは、区別された多数の知覚標識を主体を中心にして統合するためのベース(枠組み)のような基礎的なものであり、直接的にそこから何らかの益を得るためのものではありません。
だから単純な環世界に生きる生物の場合は、空間や時間という知覚の枠組みは必要ありません。

例えば、ゾウリムシは、ひとつの機能環だけで生命活動が可能です。
子供のお掃除ロボットのオモチャのように、前進してぶつかれば方向転換し、前進してぶつかれば方向転換し、を繰り返すことによって、いずれ目的物(食物)にたどり着きます。
ただそれだけの単純な世界です。

前項のマダニの機能環では、食物にありつくまでに三つの反射弓(知覚と実行、刺激と反応の経路のこと)が必要で、それらはあくまでダニという主体に統合されているものでした。
しかし、中には複数の反射弓が主体に統合されず、ひとつの個体の各器官や身体部位が個々別々に機能しながら、ひとつの生物体を維持していることもあります(ウニやクラゲなど)。

例えば、お掃除ロボットの吸込み口に、別途パンタグラフ型のマジックハンドを付けて作動させ、獲物を捕獲する機能を付けても、あくまで互いにガシャガシャ別々に作動しつつ、ひとつの機構(遠くのものをマジックハンドが拾い上げ、それを掃除ロボットが吸い込む)として成立しています。

第五章、知覚標識としての形と運動

上述のウニのような環世界においては、各器官それぞれ別々の自立した反射系と知覚標識をもっているため、それらが統合されひとつの場所(空間)としてつながる事はありません。
この環世界では、必然的に、「物体の形」と「その連続的な変化としての運動」というものの関係が断絶しています。
なぜなら、それには、複数の場所の統合というものが前提として必要とされるからです。
形とその連続としての運動という空間把握(空間と時間の成立)は、かなり高度な知覚世界にのみ生じるのです。

例えば、コクマルガラスにおいては、形と切り離された運動のみが知覚標識として機能しているため、餌のバッタが止まっていたり、死んだフリをして動かなくなると、コクマルガラスの知覚世界の中から存在として消えてしまいます。
そもそも、コクマルガラスは静止したバッタの姿を知らないのです。

同様に、イタヤ貝は自分を捕食する天敵のヒトデが真横にいても平然としていますが、ヒトデが動いた瞬間、逃げ出します。
実験の結果、動く物体の色や形は関係なく、いかにもヒトデらしいゆっくりとした動きをした時にのみ、それが知覚標識になり、逃げ去るのです。

第六章、目的と設計(プラン)

人間に特有の自由意志の感覚と、日常の目的論的な行動によって、どうしても動物も人と同じように目的論的に動いてると思いがちです。
「マダニが獲物を(目的として)待ち伏せている」と以前書いたように、無意識的にも動物を擬人的に見てしまいるのです。
しかし、実際の動物は、自然に備わった設計(プラン)に従って動いているだけです。

ヒナ鳥が危険を知らせるような鳴き声を発すると、親鳥は駆けつけ、敵をつつきまわします。
まさに、ヒナ鳥を助けるという目的で、駆けつけたように見えます。
しかし、ヒナ鳥にガラスケースをかぶせた上で、同様の危険状態を作って鳴かせても、声が聴こえないため、親鳥はヒナ鳥が目の前でもがき苦しむのを見ながら、平然としています。
ヒナ鳥の鳴き声という知覚(聴覚)標識に触発されて、敵を嘴でつつくという作用が生じる機能環の連鎖が、遮断されてしまっているのです。
もがき苦しんではいても鳴き声を発しないヒナ鳥は、つつくという作用を解発する知覚標識となりえず、助けてもらえないのです。
このように動物は、目的によって動いているのではなく、あらかじめ与えられた設計図に従って動いているだけなのです。

第七章、知覚像と作用像

この自然の設計という観方を採用すれば、動物の「本能」というものにまつわる問題(というより擬似問題)を排除できます。
自然の設計というものは目に見えず、捉え難いものである為、人は「本能」という概念の中にそれらを詰め込み、回避しているだけです。
では、この生物を支配する自然の設計(プラン)というものが、どういうものであるか、考察していきます。

例えば、私が壁に釘を打つ時、「ハンマー、釘、壁」という事物は、何らかの設計(プラン)によって秩序づけられ繋がっています。
この設計がなければ、事物のつながりも、事物自体の存在価値も無くなって、ただ混沌とした世界のみが残ります。
釘は用途不明のただの長細い鉄であり、ハンマーは木の棒先についた鉄です。
物理学者が結晶の原子の配列構造を描き出す時、それは非生物的な自然の設計を解明しているのです。

生物の環世界における自然の設計を、ヤドカリの研究を通して見てみます。
ヤドカリを三種の状況下に置き、目の前のイソギンチャクに対し、どういう行動を取るか観察します(下図『生物から見た世界』岩波文庫89項より転載)。
1、巻貝の殻の家を背負った普通のヤドカリは、捕食者の攻撃からの防御として、イソギンチャクを殻にひっつけ共生を図ります。
2、殻の家を持たない裸のヤドカリは、無理であっても、イソギンチャクに強引に潜り込み、家にしようとします。
3、殻の家も防御のイソギンチャクも既に持ったヤドカリが飢えると、目の前のイソギンチャクを食べはじめます。

これは、ヤドカリの気分(状況)によって、対象の知覚像が変化するということです。
1の保護のトーン、2の居住のトーン、3の摂食のトーンとして、感覚器官から生じた単純な「知覚像」が、その後の行動に対応した「作用像」としてとらえられるということです。

これは人間の認識構造において、かなり複雑で重要な問題です。
例えば、「ハシゴ」というものが存在しない文化の人に、ハシゴのある段差を昇るように指示すると、「え?昇るってどういうことですか?棒と隙間しかありませんよ」と言われます。
そこで実際に実演してみると、その後、その棒と隙間という単純な「知覚像」は、その人にとって意味のある「作用像」として変化し、常にハシゴは作用(行為)のトーン「昇るもの」で見られるようになります。

実は私たち人間が事物に与えている意味や本質というものは、自分の環世界における対象物の純粋な知覚像を作用像に不可避的に変化させたものであるということが分かります。
イスは「座るもの」、コメは「食べるもの」、ハシゴは「昇るもの」、などという事物の意味や本質は、その後の行為に準拠して生成する経験的なものであり、先験的に内在するものではないのです。
ある事物(例えばイヌ)の意味や本質は、それを見る人のトーンによって、愛玩動物、食べ物、楽器の材料など、多様に変化します。

同じ知覚像に対し、複数のトーンにしたがった作用像を与えるわけですが、これは先ず知覚像が先行し、その後作用像が生ずるのではなく、何をどう知覚するかの受容の選別が、すでに作用トーンによって既定されているということです。
例えば、お腹がペコペコのトーンで複合商業施設に入れば、その地から浮かび上がってくる図は飲食店のショーウインドウばかりで、他に何があるなどあまり意識されませんし、お腹を下して必死なトーンの時は、トイレのマークの案内板以外はほとんど知覚されません。

鳥の環世界なら、休むトーンの識別で浮かび上がる止まり木、食べるトーンの識別で浮かび上がる虫、交尾のトーンの識別で浮かび上がる雌鳥などでしょうか。
前項で説明した、生物の限られた知覚器官による、生存のために必要な最小限の知覚標識の貧弱な世界に、このトーンというものの限定性が加わり、さらに動物は高い確実性の中で生きられることになります。

ある動物に可能な行為の数が増すにつれて、その環世界に存在する対象も増えていきます。
これはもって生まれた行為可能性だけでなく、経験を重ねることによっても付加されていくものです。
新しい経験は、新たな態度や行為可能性を生み出していき、それによって新しい作用トーンと新しい作用知覚像が連鎖的に生じていきます。
例えば、家で飼われるイヌなどは、日々の経験の中で、人間の日用品の作用トーンを学び、共有していきます。
逆に、人間にとっては溺れるほど物に溢れた部屋も、ハエにとっては数えるほどのものしかない、非常にシンプルな部屋として映っています。

(3)へつづく