ジェームズ・アレンの『原因と結果の法則』(3)考察

(2)のつづき

なぜそうなる?

本書は自己啓発本の原点とも言われ、1世紀以上を経た現在でも世界中で売れ続けている力のある本です。
実際、1902年に書かれたものとは思えないくらい、すぐれた心理学的・哲学的洞察が含まれています。
ニューソート的な美辞麗句にとっつきにくさも感じますが、重要なのはその内容です。

本書は『原因と結果の法則』という邦題の通り、心という原因が環境という結果を生み出すということを説いた本です。
しかし、著者は随筆や詩を中心とする作家であるため、肝心のその論理的なつながりが、まったく書かれていません。
あくまでも作家個人の経験から導き出された信念であり、また、その信念の実行において得た確信です。
だから原因と結果の法則と言いながらも、その因果関係に関する理論(法則)的な考察がないという致命的な問題があります。

仕方がないので、本項では「なぜそうなる(心が環境を作るの)か」を自分で考えてみたいと思います。

心の持ちようではない

古代のストア哲学から現代の認知心理学まで、心の持ちようが環境を変えるということは周知の事実です。
同じ環境でも人は心の持ちようによって、快とも感じ不快とも感じます。
困難な状況をピンチととらえるか、チャンスととらえるかは本人次第であり、有名なだまし絵「ルビンの壷」を、顔と見るか壷と見るかは本人次第です。
世界とはその人の心のありようからとらえた個人的な解釈であり、心の中の考え方や見方を変えれば、環境はいくらでも変えられるということです。

しかし、アレンはこの可能性を明確に否定します。
原因と結果の法則のつながりは、同時的なものでも全的な対応関係にあるのでもなく、継起的な時間を必要とするという旨を述べているからです。
それは認知の変化のように、同時的で全的な対応関係ではないということです。

お祈りでも自己暗示でもない

また、原因と結果の法則は、引き寄せの法則とも言われ、心に描いたものが、それに見合った環境を引き寄せてくるというのです。
これは「願えば叶う」というような、いかにも受動的な訳語のニュアンスですが、アレンが述べるのは、むしろ絶対的な主体性と過酷なまでの自己責任論であって、そんなロマンティックなものではありません。

また、人間は心に描いた通りの者になり、心に描いたビジョンを実現する、と言っても、決してそれは自己暗示的に反復してイメージをすり込むことによって、自己の行為や人格を制御し、環境を変えていこうというものではありません。
アレンが述べるのは、あくまでも自覚的な目的設定の中で心を変え環境を変えていこうという能動的なものであり、なかば無意識的な行為に頼るような受動的なものではありません。

結局、自業自得ということ

結局アレンが言っていることを日本人のもつ概念に直せば、それは「自業自得」ということです。
もちろん通俗的な悪いニュアンスの意味ではなく、仏教用語としての意味で、「自分の業(行為)の結果を自分で得る」という事です。
善い行為によってその人に善い結果が生じ、悪い行為によってその人に悪い結果が生じる、という因果を指したものです。

哲学者の西田幾多郎の著作に、仏教的な自業自得というものを哲学的に記述したものがあるので、少し紹介します。(西田幾多郎『絶対矛盾的自己同一』の項を参照)
一般的に時間は、不確定で未知の未来からやってきて、現在を通り、過去となり、消えていくと思われています。
しかし、西田は、人間の環境というものは、自分の尻尾を咥えたウロボロスの蛇のように、過去から未来へと円環的につながっていると言います。
例えば、未来からやってきた環境である「気温の上昇した世界」は、現在において無自覚に行った森林伐採や工業化によって後に生じた温室効果ガスが、やがて過去から未来へぐるりとまわって、地球の温暖化としてやってきた円環的な因果によって成り立っています。

アレンはこの自業自得の円環的な因果法則を、現在においてあった人間の心の慢心や荒廃が、未来の物理的な環境の荒廃を生じさせた(引き寄せた)と解釈します。
いま現在の私のだらしない心から生ずる行為の結果は、やがて未来のだらしない物理的環境を生じさせ(引き寄せ)、私の心は環境と合致してしまうということです。

以上のように、仮に自分の行い(自業)が自分の結果(自得)として還ってくるとしても、まだ「原因と結果」の法則を説明したことにはなりません。
一番基本的な問題として、思考と行為の直接的な関係「行為は思考(心)の現れ」というものがあります。

行為と思考はなぜ同じものか

アレンにとって人間のあらゆる行為は、心で考えていることの現れであり、ちょっと魔が指したとか、間違えちゃったとか、心で思っていることと行為のズレはすべて否定されます。
ふだん善人である人に魔が差して悪いことをした場合、それは本人の知らぬ間に心の隅で育まれていた悪い考えがふいに飛び出してきただけです。
錯誤行為というものも、フロイト同様、心の奥底にある無意識の願望のあらわれになります。

しかし、こういう論理というものは、たんなる定義であって、実証も反証も不可能なものです。
アレンにとって心の中で考えていることとは、現実の行為から逆算して考えられるものであり、彼にとっての「思考」の定義とは、「現実の行為に変換される前段階の理念的なデータ」のようなものです。
例えば、「下→斜下→右→Aボタン」で画面上のキャラクターが必殺技を出すゲームの場合のように、画面・外見(視覚情報)で必殺技が出されたから、彼は「下→斜下→右→Aボタン」という理念を心に持っている、と推論するようなものです。
現実(画面)では必殺技を出しながら、彼が「左→右→A→B」を理念として持っていたと主張しても、それは思い違いでしかありません(プラグマティズムの項を参照)。

心の中にある「反省」という考えは、現実の反省という行為を通して、存在として認められます。
「心から反省している」と言いながら、同じ失敗を繰り返す人の心の中には、「反省」という考えは無いことになります。
行為と思考が同じというのは、あくまでもそういう定義、決め事なのであり、なぜそうなるかと問うても意味がないのです。
たとえどんな反証例(心と行為の齟齬)を挙げても、「心の奥の無意識の意図」という、何でもありの心理学的な概念に回収されてしまいます。

だからこそ、本書をベースとする自己啓発本の類は、「思考は行為を作り、行為は習慣を作り、習慣は人格を作り、人格は人生を作る」という単純な因果のつながりを、何の疑問もなく描くわけです。
行為=思考の現れという定義、そして自業自得という論理、これら二点によって、本書の内容は基礎付けられています。

結語

しかし、行為結果の意味というものは、その状況(コンテクスト)によって決定されるため、そうなると人間の心というものもその状況に応じてコロコロ変わるものになってしまいます。
時代や場所によって良い悪いの尺度が変わるように、私の心の良し悪しも、それに合わせて変化するカメレオンのようなものであり、アレンの言う法則を厳密にとらえると、彼が絶対視する主体性も、人間の心などというものも、結局は無いことになってしまいます(プラグマティズムの心理学者W・ジェームズはそれについて自覚的です)。
あくまでも本書はゆるーくとらえて自己啓発に生かす本であり、心のあり方が現実に還ってくることは、実際日常的に誰もが経験するところです。

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