槇原敬之の『世界に一つだけの花』

※歌の歌詞を勝手に解説するコーナーです。

『世界に一つだけの花』

【作詞】槇原敬之

NO.1にならなくてもいい
もともと特別なオンリーワン

花屋の店先に並んだ
いろんな花を見ていた

花屋の商品として並ぶお花によって、会社の労働力商品である私たち労働者、あるいは将来労働力商品となるよう育てられている学生達が、比喩的に表現されています。

ひとそれぞれ好みはあるけど
どれもみんなきれいだね

槇原からすれば、本来それらの人達に優劣などなく、好みの問題であり、どの人も魅力的に見えます。
のび太もジャイアンもスネ夫も出来杉も、それぞれがそれぞれで魅力あるだろう、と。

この中で誰が一番だなんて
争う事もしないで
バケツの中誇らしげに
しゃんと胸を張っている

花の場合、花はただ一生懸命生きているだけであり、相田みつを風に言えば「花は咲く、ただひたすらに」となり、花自身は別に競争などしていません。
値札を貼って競争させているのはあくまでも市場であり、この花に優劣を付けるのは市場における交換価値(お金)です。

それなのに僕ら人間は
どうしてこうも比べたがる?
一人一人違うのにその中で
一番になりたがる?

ここで槇原が批判する比較とは、横の比較「区別」ではなく、上下の比較「差別」です。
語義的に「区」は平面的な横の分割です。
北区、南区、東区、西区、のように、それらは平等な同列のものとしてあります。
これが「区別」です。
語義的に「差」は上下間の分割で、優劣の意を含みます。
落差、段差、温度差、貧富の差、のように、程度の概念を含んでいます。

では、なぜ人は区別ではなく差別の階層で人間を格付け、上に行きたがるかというと、単純にそれが利益になるからです。
人間間の関係に上下の落差が生まれたとき、はじめて人間行動に秩序や合理化や効率化が生じます。
リーダー/部下、主人/奴隷、管理者/労働者、等、人間の管理というものが可能になるということです。
上下の役割分担は、人間集団の合理化をはかることを旨とする社会の成立条件です。
全体を見渡す上からの視点を持てるリーダーも監督もいない人間集団(例えば、選手だけの野球チーム)が、集団作業として生産性を上げる(優秀な成績を残す)ことは、かなり難しいでしょう。
当然、この階層において、上へ行けば行くほど、社会的な地位や権力が得られます。
そして現代社会のこの上下間のヒエラルキーの秩序を規定するものは、当然、社会の利益である経済(お金)の原理です。

花屋の花はただ一生懸命咲いているだけであり、それを勝手に人間が経済の定規に従い、売れる値段で順位付けしているだけです。
しかし、人間の場合、商品である人間自身が必死になって優秀な労働力商品になるために争い合います。
なぜなら、自分がその価値付けにおいて他者をうち負かし上位になれば、自分を高く売れ、賃金が上がるからです。
横の区別としての個別性を失った、この上下間の管理のシステムに乗ることは、その人の個別性(アイデンティティー、存在価値)が上下の位置、地位によってしか決定し得なくなるということです。
その人独自の個性(種、花)ではなく、偏差値や年収や地位(上下の位置)のみが、個性を証明することになり、人は自分の存在価値であるそれに必死にすがろうとします。

資本主義社会において、学校の偏差値は後の年収と強く結びつけられており、実のところ、学校の成績の価値というものもお金の論理によって規定されています。
偏差値の上がらない(金にならない)分野の勉強で優秀になっても、ただのオタクとして見下されるだけです。
勿論、当時(約20年前)に比べ、学校というシステムの存在価値が揺れており、将来どうなるかは分かりません。

そうさ 僕らは
世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ
その花を咲かさせることだけに
一生懸命になればいい

よく考えて欲しいのですが、金にならない雑草扱いのシロツメクサの花は、高く売れるバラの花より魅力がないでしょうか。
バナナの数十倍の値段のするメロンは、本当にバナナより美味しいでしょうか。
大トロは精肉店の脂身のように、昔は捨てるものであったわけですが、それをいま赤身より美味しいと感じるのは、市場価値の順位(高価だから)による先入観ではないでしょうか。

槇原が批判するのは、向上心ではありません。
彼は一生懸命生きることを推奨します。
問題は順位付け、価値付けの定規がたった一つしかないことです。
勿論、現代社会において、それは経済の定規です。
その社会の序列、競争において圧倒的に上位なのは、出来杉君です。
経済中心の社会における将来の地位を約束された彼は、のび太やジャイアンやスネ夫よりも価値ある人間として位置付けられます。

しかし、美しく(女性の美しさの優劣も経済的価値に換算されます)そこそこ学業の偏差値も高いしずかちゃんが、自分と対等な社会的価値の出来杉ではなく、不釣合いなのび太を結婚相手として選ぶエピソードが語られます。
それは、しずかちゃんがのび太の“オンリーワン”の魅力を知っているからです。
不器用であるがゆえに人間的魅力に溢れ、弱く傷付きやすいからこそ他人に優しく、偏差値(金)にならない分野では結構な才能を持つ(五輪選手並に射撃が上手い)、そういう独自の魅力を、先入観なしに見てとったからです。

そういうしずかちゃんのような人が、次の歌詞で語られます。

困ったように笑いながら
ずっと迷ってる人がいる
頑張って咲いた花はどれも
きれいだから仕方ないね
やっと店から出てきた
その人が抱えていた
色とりどりの花束と
うれしそうな横顔

この人は選択において、きちんと迷うことができる人です。
たった一つの定規によって規定された価値を盲従するのではなく、それぞれの魅力をそれぞれの尺度によって比較した上で、決断できる主体的な人間です。

名前も知らなかったけれど
あの日僕に笑顔をくれた
誰も気づかないような場所で
咲いてた花のように

この店先にいた無名の人の嬉しそうな横顔が、槇原にとってはとても美しく見えたわけです。
目の当たりにしてきた芸能人のような高価な花ではなく、道端で揺れている無名の花のようにぱっと咲いたその嬉しそうな笑顔が、彼にも連鎖して、さらなる笑顔が咲いたのです。

まとめ

本人曰く、元々これは仏教的世界観をベースに作られた歌です(というか、たぶん相田みつをの影響でしょう)。
仏教では「オンリーワン」という言葉にかなり重層的な意味が含まれているのですが、これが単純に受け取られ、相当誤解され、この歌は一部でかなり批判されています。

それは肯定する側においてもそうです。
これは決して社会における自分の無能力を肯定するための歌ではありません。
「NO.1にならなくてもいいから、努力なんてしなくてもいいんだ、わーい」ということではありません。
それぞれの色において優劣はありませんが、「彩度(彩やかさ)」は存在します。

これは個々の人(色)が面目躍如として彩やかに輝けるよう一生懸命になりましょう、という応援歌です。
鳥が飛び、馬が駆け、魚が泳ぎ、ウサギが跳ねるように、それぞれがそれぞれに持つ自性(種)を発揮し(咲かせ)ようぜ、ということです。

詩というものは、大抵、理想を謳うものです。
ナンバーワンにとって生きやすい社会でオンリーワンを目指すことは、現実ではかなり大変なことです。
下手したら、社会で村八分にされるか飢えて死にます。

と、いうことで、最後は唐突に雫ちゃんのお父さんの名言で締めさせてもらいます。
「自分の信じる通りやってごらん。 でもな、人と違う生き方はそれなりにしんどいぞ。 何が起きても誰のせいにも出来ないからね」(近藤喜文監督『耳をすませば』より)

おわり

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