スティーブン・コヴィーの『七つの習慣』個人編

人生/一般 経済/ビジネス

<七つの習慣とは>

物の観方を変える

基本的にその人のあり方や世界のあり方は、その人自身の物の見方(観点や思考の枠組)に事前に既定されています。
コップに半分入ったお酒を、「まだ半分もある」とポジティブにとらえ酒宴を楽しめる人と、「もう半分しかない」と言ってネガティブに残り時間を過ごす人では、世界のあり方も、その人自身の生き方も、真逆のものになってきます。
世界の物理客観的な外観と、個々人が持つ心理主観的な場(世界がその人にとってどう現れているか)はまったく別物なわけです。

本書の目的は、人生を駄目にするような物の観方から、人生を有意義にする物の観方へと、観点を切替えさせることです。
本書のタイトル「Highly Effective People(すごく優秀な人たち)」になるためのパラダイムシフト(思考枠組の変更)です。

アウトサイド・インからインサイド・アウトへ

人間の優良さを阻害する、悪い方の物の見方として、著者はアウトサイド・イン(外側から内へ)の人間観を挙げます。
いわゆる外発的な物の見方です。
例えば、自分の子どもに対して、思い通りに動かすために、叱ったりご褒美をあげたり、外から内へ働きかけるやり方です。
例えば、自分自身に対して、内なる自分が思い通りに動けない時などは、すぐに外(環境や他人)のせいにします。
「親の私が叱っても褒めても何を与えても、子どもが言うことを聞かない。きっと子どもの素質が悪いのか、学校の教育が悪いんだろう(私が悪いのではなくすべて外のせい)」という、一般的によくいる人達です。

逆にインサイド・アウト(内側から外へ)の観点は、内から外への内発的(自発的)な見方で人間を把握します。
「他人を変えるためには、まず自分が変わらなければならない。子どもが自発的に勉強したり、自然にお手伝いできる人に成れるような環境や雰囲気を親である私自身が作っていかなければ何も変わりはしない」という感じでしょうか。
ここでは、親である私の自発性と、子どもの自発性という、内から外へのベクトルが、双方において重視されています。

このインサイド・アウトという思考枠組みを、私たちの生活において具体化した場合に現れてくる本質的なものが、本書タイトルである「七つの習慣」です。

なぜ習慣か

『優秀な人々の七つの習慣』という本書の題名を、かっこよく「理念」や「法則」ではなく「習慣」という普通の言葉にするのには意味があります。
「思い(思考)の種をまき行動を刈り取る。行動の種をまき習慣を刈り取る。習慣の種をまき人格を刈り取る。人格の種をまき人生を刈り取る」
この言葉にあるように、理念や法則などの思考の範疇にあるものは、人生を形成する中で一番段階の低いものでしかありません。
優秀な人(人格)になるためには、習慣にまで高められた思考が必要であり、さらにそれによって生み出された人格は、よい人生を作るための種になるわけです。
いくらハウツー本や人生哲学の本を読んで感動しても、その思いや考えを行動に起こして自分の人生の実りのための種にしなければ、何の意味もないのです。
思考から行動への一歩とその継続としての習慣付けの過程が、一番困難で重要なものだということです。
[「心が変われば行動が変わる、行動が変われば習慣が変わる、習慣が変われば人格が変わる、人格が変われば運命が変わる」は 、英米哲学の基礎であるウィリアム・ジェームズの言葉ですが、元ネタは古代ギリシャのアリストテレスの著作です。]

成長のステップ

七つの習慣といっても、それは断片的な力の寄せ集めではなく、一から七へと段階を踏む連続的な成長のプロセスです。
先ほどのインサイド・アウトの原則を人間の成長の本質としてとらえた場合、その過程は、「依存から自立へ、自立から相互依存(相互協力)へ」という二段階に分けられます。
他者に依存している状態から自立して自分自身をもち、今度はその自立した個人がお互い協力しあい本当の意味での自己と他者を確立することです。
前者の「依存から自立へ」に第1の習慣から第3の習慣があてられ、後者の「自立から相互依存(協力)へ」に第4の習慣から第6の習慣があてられ、第7の習慣はそれら全体を磨く段階です。

「依存から自立へ」という段階の重要性は社会の中で多く語られるわけですが、「自立から相互依存(協力)へ」ということに関してはおざなりにされています。
なぜなら彼らは依存と協力の違いが見えておらず、自立できない自分の弱さを埋めるために他者を必要とする依存関係と、自立した人間同士が自分たちの力をもっと強くするために他者を必要とする協力関係を混同しているからです。

効果的とは

七つの習慣は題名にもあるように、それは人間が「Effective(効果的)」であるための習慣です。
効果というものは、「成果(結果)」と「成果を生み出す能力(過程)」から成り立っており、この効果を高めるために重要なものが、これらふたつの要素間のバランス関係です。
例えば成果をもたらす能力を持つ優れた芝刈り機があったとしても、ただ成果だけ求めてメンテナンスする間も惜しんで使い続けると、機械の能力は落ち寿命は非常に短くなります。
逆に芝刈り機という能力ばかり大切にし、金や時間を機械のメンテナンスや改善ばかりに使っていれば、成果がおざなりにされ、下手をすれば成果以上のものを消費してしまいます。
最大の成果をもたらすのは、この能力(過程)と成果(結果)のバランスががっちり合って最適化された時です。

先ほどの親子関係の例にもあるように、親がただ成果だけを求めて短絡的に叱ったり褒めたりするだけで、子どもの能力を育てる努力をしなければ、子どもは何の成果も上げません。
部屋をきれいにして欲しいと成果を望む気持ちと、自主的に掃除できる子どもが育つような親子の環境を築くこととのバランスを取ることが大切なのです。
このバランスを見極める判断力こそが効果の本質であり、本書の目的でもある効果的(Effective)であることの定義なのです。

扉を開けられるのは自分自身

「説得されても人は変わるものではない。誰もが変化の扉を固くガードしており、それは内側からしか開けられない。説得によっても、感情に訴えても、他人の扉を外から開けることはできない。(Marilyn Ferguson)」
著者は読者に七つの習慣を身に付けさせることで、読者の変化と成長の扉を内側から開けようとします(インサイド・アウト)。
既存の思想家のように、著者の理念をレトリックや感動によって読者に押し付けようとする姿勢(アウトサイド・イン)とはまったく別のアプローチです。

<第一の習慣、主体的であること>

受動的に反応するのではなく自らコントロールする

人間の本質というものは、デカルトの「我思うゆえに我あり」という言葉にあるように自己反省(自覚)の能力です。
動物やそれに近い幼児などの場合はその能力を持たないため、刺激とその反応が直結しており、ある環境因を与えられれば自動的にそれに従った行動が出力されるという、決定論的な世界の中にいます。
しかし、自覚と反省の能力を持った人間には、刺激と反応の間に「選択の自由(意志)」というものが介在します。

例えば、大切にしていた犬が死ぬという刺激が与えられると、子どもは自動的に泣きます。
しかし、大人の場合そこに自己反省(自覚)が介入し、「大の大人が泣くなんて社会人として恥ずかしい」「悲しんでいれば周りのみんなの気分も落ち込ませる」などというように、自分の意志によって、泣かないという選択が可能になります。
この自覚によって行為選択をしていくというあり方が「主体的」であるということです。
条件反射(条件反応)的な衝動を抑え、意志に従って主体的に行動を制御していきます。

逆に、環境による条件付けに行動が支配される人は「反応的」であり、その人の感情や行動は自分の意志ではなく、環境や他者に隷属することになります。
褒められれば快活になり、貶されれば殻の中に閉じこもり、感情も行動も他者の出方次第でコロコロ変わり、自分でコントロールすることが出来ません。

外的情報をいかに受け取るかを自ら選択し自ら状況を作る

「あなたの許可なく、誰もあなたを傷付ける事は出来ない(ルーズベルト夫人)」
「自分から捨てさえしなければ、誰も私の自尊心を奪うことはできない(ガンジー)」
これらの名言は、主体性と意志の自由を表現したものです。
私たちは一般に、辛い出来事(環境)のせいで傷付いていると思っています。
しかし、実際は、私自身がその出来事を容認するという選択をしたことによって自ら傷付けているのであり、それは私自身の認知の問題です。
私が「バカ」と他人に言われて傷付く時、傷付けているのはその言葉を容認する私自身なのです。
私への批判や罵倒が客観的な正当性を持つかどうかの自覚的反省的な吟味もなしに、ただ反応的にそれらの言葉を受け容れるのは隷属的な奴隷の生き方(姿勢)にすぎません。
私にとってはごくごく普通の役所のお姉さんの事務的な態度に傷付いて自殺するネガティブな人もいれば、私なら辛くて死にたくなるような境遇にあっても元気でポジティブに生きている人もいます。
私の感情や行動を決定するのは状況そのものではなく、それに対する私自身の選択なのです。

主体的な人間は、与えられた状況に対する反応を自分自身で選択できるだけでなく、状況そのものを作り、変えていくことができます。
状況を変えるためには、私とそれを取り巻く環境を鳥瞰的に把握し、他者の立場に立って物を見るという、反省(自覚)の能力が必須です。
反対に、環境による条件付けと行為(結果)が直結した反応的な人間は、環境から自分を引き剥がすことができないため、永遠に状況の奴隷なのです。
ため息、舌打ち、愚痴、陰口、私たちの周囲で見かけるこれらのものは、自分で状況を変えていけない反応的な人間の無力さ「思い通りに行かない」から出るものであり、「思い通りに行く」ようにしたければ、反応的な人間を卒業し、自覚的な人間になるしかないのです。

このように反応的な人間は決定論的な思考枠組(パラダイム)でものを見るため、いつも環境のせいにし、自分の行為決定の責任を負わず、誰かになすり付けています(アウトサイド・イン)。
「私は生まれつきそういう人間なんだ」→私は悪くない、親や遺伝のせいだ。
「マジであいつは頭にくる奴だ」→自分の心や感情は、私ではなく他人が作る。
「あの人がもっと優秀なら・・・」→自分の状況は他人の状況に依存している。
「・・・しなければならない」→私の行為決定は、状況や他者に強要されている。
等々、反応的な人間の言葉は常に被害者意識の意味合いを持ち、それは自分の泣き声に苛立ってさらに泣く子どもの感情のように徐々に増幅し、コントロール不能なものとなります。

コントロール可能範囲を見極める

主体的な人間と反応的な人間では、そもそも関心を向ける対象が違います。
主体的な人間は、自分が影響を及ぼせる物事にのみ働きかけ、徐々にその範囲を広げていきます。
逆に反応的な人間は、他者の行動や環境の問題などの、自己が直接コントロールできないものに対して関心を向け無駄な労力を消費するため、むしろ自分自身の力を弱め、自己の及ぼせる影響の範囲も狭まっていきます。
例えば、親が学校内での子どもの待遇という自分にはコントロール不能なものに対してやきもきして無駄な時間を使うくらいなら、その時間と労力を自分のコントロール可能範囲内の家庭の教育にあて、子どもが学校でイジメにあったり落ちこぼれたりしないよう、人格や学力の向上に力を注ぐべきなのです。

まとめると、
A、直接的にコントロールできる問題(自分の行動に関する問題)
B、間接的にコントロールできる問題(他人の行動や環境に関する問題)
C、コントロールできない問題(動かすことの出来ないもの)

A、に関しては習慣を改めれば解決でき、それは本書第1・第2・第3の習慣で扱う「私的成功」の問題です。
B、に関しては、影響を及ぼす方法を考え実行することによって解決できます。
本書第4・第5・第6の習慣で扱う「公的成功」の問題です。
C、に関しては、変えることのできないもの(過去の出来事や自分の死など)を、ただその事実において受け容れ、その問題に対する態度を改めることが出来るだけです。
例えば、自分の「死」という変えることのできない運命に対して、それを自覚し日々を真剣に生きるというポジティブな態度で人生を充実させることもできれば、毎日びくびく恐れながら無駄に過ごすというネガティブな態度で生きることもできます。

私は主体的に行動を選択できても、その行動が生じさせる結果に関しては選択できず、それは私のコントロール外のものであることを認識し、受け容れるしかありません。
私が良かれと思って決断した行動が、むしろ悪い結果をもたらすことも多々あり、確かにその結果そのものに関しては私の影響力は及びません。
しかし、その結果そのものに対してどういう態度や姿勢をとるかの選択に関しては自由です。
過去の失敗を次の成功を導くためのステップやデータとしてポジティブにとらえ先へ進むか、その失敗を見てみぬフリをして嘘で取り繕ったり、前へ進むプレッシャーや努力から逃げるための言い訳にしたりして、ネガティブな鬱血状態を生み出すかは、私自身の選択です。

また、私の行動によって得られる現実の結果が予測不能だとしても、私がその行動を選択したことによって、私という人間が今後どういう人格として生成するかという結果は予測できます。
例えば、嘘をついて大きな商談を成立させるという行動をとった時、それがばれて降格するか、ばれずに出世するかという結果は分からず、それはコントロール外のものです。
しかし、その選択によって、私は不誠実という人格を必然的に作り上げます。
行動が習慣に、習慣が人格に、人格が人生に成るように、私は行為選択の度に、自分の人生を主体的に作っていっているのです。

<第二の習慣、終り-目的-を見定める>

完成をイメージする

何かものを作ろうとするとき、完成のイメージをしっかり持っていなければ、良いものは作れません。
プロの料理人は完成形のイメージをしっかり描いた上で料理を作るので、その動きに迷いなく、流れるような行為の連鎖で美味しい料理という完成へ導きます。
しかし、下手な素人は、ろくに完成のイメージも練らずに場当たり的に作ってしまうため、非常に不味い料理になります。
野菜を炒めはじめてから味付けを考え、ぐずぐず調味料を迷っているうちに野菜炒めはふにゃふにゃのおひたしのようになり、味のイメージも持たずに迷いながらあれやこれやの調味料を入れていくうちに、ドブ川のような見た目と味の野菜炒め風の煮物が完成します。

人生という旅も同様に、終着点(目的地、完成形)を常に意識しながら地図によって全体を見据え、着実に前へ進むことによって良いものになります。
もし、目的地を意識せず地図も持たずに、場当たり的に前へ進めば、ただ右往左往するだけで、結局どこへもたどり着くことは出来ません。
いま、わたしは目的地へ向かって前へ進んでいると思い込んでいても、むしろ目的地から遠ざかっていたりします。

未来から人生をとらえる

人生における終着点、私の人生の全体をまとめる締めくくりが何かといえば、それは私の「死」です。
私が死ぬ時、私の人生の物語が完結します。
私が死に際して私の物語を振り返った時、それはどんなものであって欲しいでしょうか。
また、周囲の人々に私の物語をどう語りたいでしょうか。
その「こうでありたい私の物語(人生)」が私にとって私の理想であり、人生の本質的な目的、完成形です。
私は私の終わり「死」を意識することによって、そこにいたる全体を鳥瞰的に見ることができ、人生の地図が思い描けるのです。

そういう地図を持たない人の人生は、目的は場当たり的で一時的な感情や他人に依存し流される刹那的なものとなり、あっちへ行ったりこっちへ行ったりして、結局どこにもたどり着くことなく、私は私固有の一回きりの人生を空しく終えてしまいます。
私は死ぬ間際に自分の人生を振り返って、なんて無駄なことばかりに時間を使い、終わったのかと後悔するのみです。
例えば、人は多くの場合、大きな病を患ったりして自分の死を意識した時、ようやく本当の自分の人生をかけがえのない一回限りのものと自覚し、日々を真剣に生きはじめます。
今までいかにどうでもいいものに振り回され、本当の自分の目的を自覚せずに生きてきたかに気付かされることによって、そこから本当の人生がはじまります。
あるがん患者の言うように、それまで生きた何十年より、余命宣告を受けた後の一年の方が、はるかに有意義で本当の人生であったと。

私はこうでありたいという人生の最後を思い描き、そのビジョンを日々の行為決定の尺度(地図)にして、今日の生き方、明日の生き方、来週の生き方、来月の生き方を計画していくことによって、私にとって本当に大切なものにのみ焦点を当てて生きることができます。
自分にとって本当に大切なものを知り、そのイメージをもちながら日々を生きれば、私たちの人生は驚くほど新鮮なものになります。
金、娯楽、物欲、仕事、名誉、異性、家族、国家、友人、敵対心、プライド、等々、いまの私が目先の目的としているそれらのものは、私のたった一度きりのかけがえのない人生においてどれほどの価値を持つものなのか、最後を思い描くことからはじめて整理し、考え直す必要があります。
自分の限られた人生を自覚した時、虚栄心や敵対心や嫉妬や責任の擦り付け合いなど、私たちが振り回される日常のネガティブな些事がいかに虚しいものであるかを知り、自己の内面にあるもっと深い価値観に触れることが出来ます。
自分の人生にとって本当に大切なことは何であり、本当にやりたいことや、こうありたいという理想を思うとき、人は非常に純粋で生産的になります。

設計図を作りものを作る、理念と実践という二つの創造

人間の社会においてあるものは、基本的に二度つくられます。
一度目は、理念や理想において創られる、いわゆる設計図の段階。
二度目は、それを現実において作っていく、いわゆる製作の段階です。
建築のような莫大な費用のかかる製作物においてはほんの些細なロスも大きな損失につながるため、第一の創造である建築計画が徹底的に練られます。
料理のようなものならいざしらず、私の人生そのものは家の建築などよりもっと重要なもののはずです。
なのに、多くの人はこの第一の創造(設計)をほとんど無視しながら、自分の人生を作っています。
そういう人は自分の人生の設計図を持たないため、それを他人に借り受け、親や学校や会社に与えられた脚本(物語)どうりに演技をするだけの仮面の人生を送ることになります。
本当の自分を抑圧し(というより気付けず)、ただ他者のプレッシャーに反応するだけのロボットのような生き方です。
そして、この「一度目の創造をする」習慣こそが、第二の習慣の本質です。
前項の第一の習慣「主体性を持つ」とは「創造主であれ」ということであり、それを基盤にしてはじめて、「自分の人生の脚本は自分で書くことができる」第二の習慣が生ずるのです。

ビジネスに即して言えば、一度目の創造がリーダーシップであり、二度目の創造がマネジメントです。
リーダーシップは目標にフォーカスし、何を達成したいかを考え、正しさの判断をします。
マネジメントはその目標や理念を達成するための手段を考え、体系を作ります。

市場がめまぐるしく変化するビジネスの世界では、主体的で強力なリーダーシップによって正しい方向へ舵を取り、目的を定めなければなりません。
リーダーシップのないマネジメントは、漕ぎ手は優秀だが航路を読む船長のいない船のようなもので、難破は必至です。
あまりにも多くの人が、マネジメントの視点のみに囚われ、リーダーシップを忘れています。
目的や方向性も定めないで、能率や効率を追求するという空中楼閣を築き、後になって崩れてから嘆くのです。

終わりを意識し、自分の本当の価値観を自覚し一日をはじめれば、どんな困難や問題にぶつかっても、うろたえることなく、流されることなく、主体的で誠実なブレない人生を作っていくことができます。
それはスポーツや演奏などのパフォーマンスにおけるイメージトレーニングにも似ています。
完成形という終わりを思い描き、そこへ到る筋書きを反復的にイメージすることによって、現実のパフォーマンスの中で迷いのない平常心で理想の結果を生み出すことが出来ます。
「思考は現実化する」わけです。

理念を具体的に明文化し、心のバイブルとしてもつ

しかし、どれだけ立派な理念や理想や目的を持ったとしても、それを具体的な形で明文化しなければ、何の力にもなりません。
例えば、国を創る際に民主主義という理念を掲げた場合、憲法のような形でそれを明確にすることによって、はじめて具体的なアクションが可能になります。
それと同じように、私たちは自分の理念を立てれば、つぎにそれを原則のような形で具体的に描く必要があります。
この自分を律する心の憲法のようなものを「ミッションステートメント」と呼びます。
分かりやすく言えば会社に貼ってある社訓のようなもので、ミッション(使命)を具体的な行動方針としてステートメント(声明書)にする、ということです。

内面に軸になるものを持っていなければ、人は変化に耐えられません。
自分の自己同一性や行動の指針となる支えがあれば、変化に適応しながらも自己を見失うことがありません。
現代において多くの人は、その時代の変化の速さについていけず、ただ流されるがままに自己を諦めています。
死の先駆によって自分にとっての人生の意味を見出し、そのミッション(使命)を成文憲法のようなステートメントとして自分の中に定めることで、自分の世界における立場を確固としたものとし、自分の行為の有効性をそれに照らして判断することが出来ます。
この私の法によって、自己のビジョンと価値観を明確に表現し、人生におけるあらゆる事物を測る基準ができます。

生きる意味というものは常に自分の中にあります。
それを自己の外部(直接的にコントロールできないもの)に求めることは、主体(自分)というものの責任を放棄し、それを他者に擦りつける逃避であり、実は探すフリをしながら自己と向き合うことから逃げ続けているのです。
「究極的に、我々が人生の意味を問うのではなく、我々自身が人生に問われているのだと理解すべきである。~すべての人は人生に問われている。自分の人生に答えることで答えを見出し、人生の責任を引き受けることで責任を果たすことしかできない」(V・E・フランクル)

<第三の習慣、最優先事項を優先する>

時間管理の原則

第一の習慣で主体性を持ち、その主体によって第二の習慣である一度目の創造(知的創造)である人生の設計図を描きます。
そして第三の習慣は、その理念を現実化するための二度目の創造(物的創造)である実践に入ります。
要するに第二の習慣で描いたプログラムを実行するのが第三の習慣です。
自分自身を効果的にマネジメントし、現実を目標へと導くことです。

端的に言えば効果的なマネジメントとは「最優先事項を優先する」ということであり、それは大切にすべきことを日々の行為の中で優先していけるように自分を律することです。
感情や気分、世間や常識に流されるのではなく、自分の内面にある価値や目的に従い、本質的なものにエネルギーを集中することです。

目標達成のための手段である日々の行為に「優先順位をつけ、それを実行する」のがタイムマネジメントの基本です。
既存の時間管理の方法では、元々あるスケジュールの項目に優先順位をつけるだけです。
しかし、本当に大切なのはスケジュールそのものではなく、優先事項のはずであり、優先事項が主役でなければなりません。
そこで第三の習慣は、まず優先すべきことを基準にスケジュールを作り、優先すべきでないことは思い切って捨てるのです。
そもそも時間管理(タイムマネジメント)という言葉が意味としてずれています。
なぜなら問題は時間を管理することではなく、自分を管理すること(セルフマネジメント)だからです。
これを誤ると、自分が時間やスケジュールに追われ呑まれてしまい、自分を見失ってしまうことになります。

時間管理の方法

時間管理の本質を知るために、まず下の図を見てください。
(スティーブン・R・コヴィー著『完訳 七つの習慣』キングベアー出版

ある活動の価値をはかるための本質的な要素として「緊急度」と「重要度」があります。
図は縦軸に重要度、横軸に緊急度をあてたものです。
重要度は結果に直接かかわるものであり、その価値は自分の立てた目的に依存します。
緊急度の価値は状況に依存し、緊急であればあるほど人は受動的に反応し、緊急でないことを行うには能動的、主体的なはたらきかけが必要です。
図の四領域のうちのどれを重視しているかによって、その人の能率というものが決定します。
いくつかの類型を挙げてみます。

1、多くの人は第一領域の問題に追われ、それに一日の大半を支配されています。次々打ちよせる問題の波に倒れては起き上がりを繰り返し、疲弊していきます。(下図1番目)

2、緊急だが重要でない第三領域の用事を第一領域と勘違いし、重要でないことに一日を費やす人がいます。緊急だから重要だという妙な錯覚に囚われ、緊急の用事すべてに反応します。しかし、緊急性は他者や環境などの都合であって、私はたんに他者の都合(優先順位)のために自分の優先順位を犠牲にしている奴隷なのです。(下図2番目)

3、第三、第四領域だけの用事ばかりする人がいます。重要な問題から逃げ、自分の責任を放棄し、他者や社会に依存するだけの無能な人で、いずれ会社や社会に切り捨てられる人です。(下図3番目)

では、「Effective(効果的な)」人々というのは、どういう類型に属するのでしょうか。
まず彼らは、第三と第四領域に関しては徹底的に避け、切り捨てます。
そしてそれによって捻出された時間は、普通の人なら第一領域に当ててしまうところですが、それを第二領域に当てます。
なぜかというと、第二領域を育てていくことによって、第一領域の占める範囲を小さくしていけるからです。

仮に私が原始人の狩人だとした場合、最も重要で緊急な用(第一領域)といえば、食べ物になる動物を狩ることです。
そして、私は第三と第四領域を避けることで出来た時間を、第一領域である狩りそのものにあてて獲物を余分に獲ったとしても、多少の備蓄ができる程度で自分の生活は大きくは変わりません。
しかし、捻出された時間を第二領域にあて、刃を砥いだり、罠を考えたり、作戦を練ったり、身体能力の向上をはかったり、緊急ではないが重要なことに時間をそそけば、第一領域である狩りそのものの問題は効率化し、徐々に小さくなっていきます。(下図4番目)

 

第三、第四領域に対し「ノー」を突きつけることや、緊急でない第二領域に対し能動的に関わっていくことはかなりむずかしいことに思えます。
「最良」の敵は「悪」ではなく「良」なのであり、「最良」を得るためには「良」を捨てる強い勇気が必要です。
しかし、これらの問題は第二の習慣である知的創造(設計図)、理念や目的やミッションステートメントが確立していれば、自ずと解決する問題です。
例えば、野球のイチロー選手のように、試合後チームメイトとの飲み会に誘われても、「家で素振りしなければならないから帰る」ときちんと断れるのは、強い目的意識から生ずる必然です。
第三、第四領域である飲み会に「ノー」といい、試合後の地道な反省と修正のプロセスという重要な第二領域の用事に「イエス」と言います。
チームプレーである野球において仲間との交流は「良い」選択ですが、それを捨ててまで自分の信念にとってより「最良」である素振りを採るのです。

緊急の用事である第三領域、楽な用事である第四領域に比べて、第二領域を行うには強い主体性が要ります。
しかし、建築家ルイス・サリヴァンの「形式は機能に従う」という言葉通り、マネジメント(形-手段)はリーダーシップ(機能-目的)に従います。
第二の習慣、リーダーシップという全体の計画の理念をきちんと持っていれば、必然的に自分の時間において優先すべきことが何かが決まり、自然とそこへ時間をかけることに意志が向きます。
自分の中に大きな「イエス」がない限り、様々な誘惑に対しきっぱり「ノー」と言うことは出来ません。
第一の習慣である主体性と第二の習慣であるリーダーシップから生ずる私の信念が基礎にあるからこそ、第三の習慣としてのセルフマネジメントを従わせることが出来るのです。

 

おわり

 

※以上、本書第一部、第二部の「個人編」の内容です。後半の第三部、第四部の「社会編」は時間があればアップします。