マルクスの『資本論』

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第三章、資本家と労働者

資本と資本家

通常の経済的営みを図式化すると「商品→貨幣→商品」となります。
仕立て屋である私は服という商品を貨幣に交換(販売)し、今度はその貨幣で生活を維持するために必要なものと交換(購買)します。

けれど、この図式を変えて、貨幣そのものを目的とすることもできます。
「貨幣→商品→貨幣」となり、使用価値として必要だから商品を買うのではなく、売るためだけに商品を買うという行為です。
需要と供給の変動を見ながら、安いときに商品を買って、高いときに売れば、その差額が儲けになります。
土地や株の投機などが典型です。

一見、これによって価値が増殖したように見えますが、この方法は単に他人のお金を自分の懐に入れているだけで、イス取り合戦のように私の儲けは誰かの損失であり、全体で見ると価値は釣り合っており、別に上昇しているわけではありません。

あくまで商品の基本的な「価値」だけに則した「貨幣→商品→貨幣」のサイクルにより、商品に内在する力によって自己増殖する価値を「資本」といい、これを遂行する人を「資本家」とよびます。
(後に述べますが、労働力は価値を増殖させ変動させるため「可変資本」、生産手段は価値移転はしてもトータルの価値に増減がないので「不変資本」とよびます)

この、等価交換であるにもかかわらず価値を増大させる資本という謎を解くことが、資本論の大きな目的のひとつになります。

労働力商品

その謎を解く鍵は、資本家は労働力を商品にすることが出来るということにあります。
「貨幣→労働力商品(労働者)→貨幣」、お金を労働力と交換(雇用)して、労働力によって貨幣に交換する生産物を作るということです。

資本主義社会に生れ落ちる人間は、万物が誰かの所有物である世界にいきなり参入します。
何か生産して生活の糧にしようとして、生産手段を見渡すと、すべて他人のものです。
作物を作るための土地も、種も、水も、馬も、農耕具も、生産手段すべて誰かのもので、それと交換するためには貨幣が要ります。
だから親の貨幣や生産手段を相続しない限り何も持たない人間は、自分の労働力を売るしか方法がない訳です。

資本家とは生産手段をたくさん持ち労働者(労働力商品)を買う人で、労働者とは生産手段を持たないために自分自身を労働力商品として売る人です。

労働力の価値

商品販売の第一の目的はその商品の生産の継続、再生産です。
私が仕立て屋であった場合、服を売って「商品→貨幣→商品」のサイクルを繰り返し、自分の生活を維持することが基本的な目的です。
店やミシンのローン、材料費や私の食費に生活費など、次の洋服を再生産するための費用がまかなえないなら、仕立て屋としてやっていけません。

それと同じように労働力商品の対価(交換に必要な貨幣価値)も、それの再生産可能性が基準になります。
衣・食・住、扶養家族の養育費や職業技能の獲得と維持に要する費用等、労働者(労働力商品)が生存しかつ生産力を維持できる程度に健康であって、繰り返し再生産のサイクルに乗ってくれる程度の対価です。
労働力の価値とは、労働力の再生産費によって決定するということです。

 

第四章、剰余価値の成立

剰余価値

仮に前項において述べたような労働力の再生産が、一日一万円で可能な国であったとします。
資本家に雇われの身になった仕立て屋の私が作ったスーツの売り上げから、生産手段や販売にかかった費用などすべて差し引いた額を私の要した労働時間で割れば、私の労働が生み出す時間単位の価値が表せます。

それを一時間2,000円とした場合、一日8時間契約なら、16,000円の価値を私は産出します。
しかし、支払われるのは雇用契約書通りの固定給一日あたり一万円です。
これにより「貨幣→労働力商品(労働者)→貨幣」の等価交換のサイクルは、「10,000円→労働力商品(労働者)→16,000円」という自己増殖を生じさせます。
この増殖した分の価値を「剰余価値」といいます。
労働時間を増やせば、その分剰余価値も増殖するため、資本家は可能な限り労働時間を延長しようとする傾向にあります。
一日8時間の剰余価値+6,000円から、一日10時間にすれば剰余価値+10,000円になります。

ちなみに、技術革新など資本家による生産力の拡大によって生ずる利潤の増大を「特別剰余価値」、そういう生産力の拡大が社会全体の技術水準や生産力を引き上げることにより、労働力の再生産費が小さくなり、相対的に剰余価値が増大するのが「相対的剰余価値」です。

生産物からの疎外

非常に分かりやすくいえば、生産手段を労働者が持つ場合、その努力や頑張りによって得た「喰うに困らない程度(商品の再生産可能な程度)」以上の余剰分の成果は、全てそのまま自分のものになります。
これが資本家の持つ生産手段のもとで雇われの身として働く場合、その余剰分の成果は見えない形で剰余価値としてすべて資本家のものとなります。

生産手段を持つ自立した労働者のサイクルは「商品(生産物)→貨幣(売上)→商品(再度生産物を作るために必要なものの購入)→労働→商品(生産物)」となる訳ですが、資本家の強みはこの他人の労働サイクルそのものを商品に出来るというメタレベルの経済活動なのです。
「貨幣→労働力商品(労働者)→貨幣」の中で生ずる余剰分の成果はすべて資本家に抜き取られます。

しかし、この剰余価値というものは労働者の側からは基本的に見えません。
システムの単なる部品である私から全体を把握できず、資本家というシステム全体の価値配分を鳥瞰できる位置に立たなければ分からないからです。
あくまで私は生活のために自発的に契約を結んで、等価交換で自分の労働力を売っていると思い込んでいます。
資本主義というものがどんな過酷な奴隷社会よりもはるかに多くの搾取を可能とするのは、剰余労働を労働者側から自発的に生み出すことができるからです。

一般的なイメージとして、資本家はたくさん生産物を売ってたくさん儲けたいから、その人手として多くの労働者を雇うと思われがちです。
しかし真実はその逆で、たくさんの労働者を雇ってたくさんの剰余価値を奪取したいからこそ、たくさんの生産物を販売するわけです。
もし資本家が剰余価値を取らず労働者が生み出す価値と同じだけの賃金を払ったなら、何百万人労働者を雇おうが儲けはゼロです。

絶えざる競争の中で

また、私は自分の労働力を繰り返し資本家に販売するということで生活を成り立たせています。
自分の販売商品である「自分の労働力」は、つねに「他人の労働力」という商品との競争にさらされているため、一定以上の品質の商品(労働力・がんばり)を提供しなければなりません。
こうして労働者は、自発的に隷属し、自発的に頑張って働くという構図が生み出されます。

だからといって資本家は奴隷をこき使って豪奢な生活を送りたいということで、剰余価値の増大を狙っているわけではありません。
資本家も労働者同様、他の資本家との激しい競争にさらされているため、価値増殖の追求や生産性の拡大を目指さなければ、資本家として生存競争に敗れてしまうからです(資本家はこの闘いで勝たねば自身だけでなく労働者の雇用も守れない)。
いわば資本家も労働者も競争に駆り立てられて、いやでも生産性を無際限に拡大していくのです。

とあるアクション映画にもあるように、それは加速することを止めればただちに爆発する列車のようなものです。
資本主義という機関はそういう危険なエンジンを内在することによってフル稼動しているという認識をもって、マルクスはその批判とするのです。
(以上は『資本論』という大著のほんのさわりの部分です。このエンジンは必然的にオーバーヒートして破裂するわけですが、それについてはまた時間がある時に書きます。)

 

おわり

 

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