アリストテレスのカタルシス

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カタルシスの一般的な意味

「カタルシス」は主に「浄化」などと訳される言葉であり、元々は医学的な意味での不純物の排出、宗教的な意味での穢れの浄化、そしてプラトンにおける哲学的な意味での魂の浄化として使われていました。
しかし、アリストテレスがその悲劇論である『詩学』において、この言葉を独自の芸術的概念として定義し直し、現在では「カタルシス」という言葉は、主にこの意味で理解されます。

ただ、『詩学』においてこの言葉に言及されるのは、以下に挙げた一度だけ(厳密には二度)であり、定義が不明瞭で、解釈が分かれます。
「悲劇とは、・・・あわれみとおそれを通じて、そのような感情の浄化(カタルシス)を達成するものである」(岩波文庫『詩学・詩論』松本・岡訳より)

 

アリストテレスによるカタルシスの定義

これは主にソポクレスの『オイディプス王』を模範とした悲劇論です。
『オイディプス王』の内容を一文でまとめると、「オイディプスは知らずに父を殺し、知らずに母と結婚し交わり、それを後に知って、妻(母)は自殺し、自身は目を突き盲になり彷徨う」という悲劇的なお話です。

ここには四つの要素があります。
「恐れ」と「あわれみ(同情)」という感情的要素と、それを生じさせる「認知」と「逆転」という知的要素です。
オイディプスは幸せな状態から、真実の「認知」によって不幸へ「逆転」し、それが「恐れ」と「あわれみ」を生じさせます。
理想的な悲劇は、この「恐れ」「あわれみ」「認知」「逆転」という要素を持ち、それによって浄化(カタルシス)を為すというのが、アリストテレスの悲劇論の主旨です。

 

カタルシスのいくつかの解釈

カタルシスは研究者によって解釈がいくつかに分かれ、主になるのは以下の二つです(岩波書店『アリストテレス全集17』146-147項図表参照)。

ひとつめは、医療(身体)的な意味での「瀉出(しゃしゅつ)」です。
身体に溜まった有害なものを瀉出する(流しだす)ように、心の中に溜まったネガティブな感情を、同じ感情の高揚による放流によって一気に洗い流します。
この解釈の根拠は、アリストテレスが『政治学』において、音楽のカタルシスを類似療法(同毒療法)的な消散と快感として語る部分です。

ふたつめは、宗教(精神)的な意味での「浄化」です。
これは瀉出のように恐れやあわれみの感情の除去を目的とするのではなく、それによって感情や精神を倫理的に浄化・抑制し、質的に高めることです。
これは真実の認識による知的純化と認識の快感を伴います。
この解釈の根拠は、アリストテレスが『二コマコス倫理学』において、あわれみと恐れを適度に持つことの美徳を語る部分です。

もちろん、この二つの解釈は両立も可能であり、むしろ同じことの感情的な面と知性的な面を、それぞれで語っているともとれます。

 

現在の日常的意味

現在わたしたちが一般に使う「カタルシス」という言葉は、こういう全体的な本来の意味の中から、部分的な意味だけ取り出して使用しています。

例えば、映画などで使われるカタルシスという言葉は、主に「瀉出」的な意味で使われています。
私たちが高畑勲のアニメ映画『ほたるの墓』を観て号泣する時、罪なき子供たちの命を奪うその圧倒的な悲劇によって生ずる感情の放流に、自らの心の底に日常的な抑圧によって溜め込まれていたネガティブな感情(我慢できる程度の、苦しみ、悲しみ、恐怖、怒り等)が、涙と一緒になって洗い流されます。
「泣いてスッキリする」ために感動的な映画を欲する人は、多くの場合、こういう意味でのカタルシス(瀉出)を求めているわけです。

また、心理学などでよく使われるカタルシスは、主に「浄化」的な意味で使われています。
日常生活に支障をきたす行動を生じさせる心理的葛藤の真の原因を「認知」することによって、異常から正常への「転回」をうながします。
それによって精神は「浄化」され、知的に一段成長することになります。

例えば、自虐的で自罰的な傾向にある私の行動の真の原因が、専制的であった両親への復讐(抑圧された攻撃衝動は自分へ向く)であることを「認知」した時、私は知的に「浄化」され、健全な精神と行動へと「転回」します。
心の底にわだかまった思いを言葉などによって吐き出し、意識化することによって「浄化」の効果を得るというフロイト的な方法論が、こういう意味でのカタルシス(浄化)に近いわけです。

 

正確な意味

アリストテレスの「カタルシス」という言葉の正しい解釈や正確な意味など決定しようがないのですが、これはあくまでも『詩学』という文学理論内の概念であることを考えると、上で述べたような心理学的な主観(鑑賞者)の問題だけではなく、以下に挙げたような劇の内容を主眼とした客観的な解釈(今道友信による)もあることを、視野に入れておく必要があります。

苦難の浄化、・・・それは、発見的再認と逆転変とについで、筋構成の第三の契機である。しかし、受難乃至[ないし]苦悩はそれのみでは悪乃至凶である。しかし、hamartia[過ち、悲劇を生む欠陥]を入れることによって同情と恐怖とを惹起する経過を作劇し、その苦難の意味を明らかにし、それを介して、苦難に内在する悪を洗い落とし、主人公の苦難を高な尚もの[高尚なもの?]と浄化する。歴史的な個を意味的普遍に還元し、更に、決意の実存的価値に高める。

カタルシスは哲学者が使う場合、医学用語と宗教用語と認識論的用語すなわち、洗浄、瀉出、浄化、救済、解明を止揚している。

心理学ではなく演劇学及び詩学乃至演劇や詩の哲学となる。(岩波書店『アリストテレス全集17』146項より)

ニーチェの言うように、苦悩に意味が無いことが問題なのであり、人は意味のある苦悩は耐えられます。
個的な苦難の形成過程を描き、意味を解明し、断片的で無意味であったその苦難を、全体的(物事の因果的連関、要は物語的)なものの中に位置付ける時、人は救われます。
それは、運命を知らないあるいは逃れようとする受動的苦難から、運命に対峙する能動的決意としての苦難への跳躍です。

 

おわり

 

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