ルターの『キリスト者の自由』

宗教/倫理

一、
キリスト者とは何であり、彼らにキリストが与えた自由とは何か。
「キリスト者は全てもののも上に立つ自由な主人であり、何人にも従属しない」
「キリスト者は全てものに奉仕する従僕であり、何人にも従属する」
この二原則はパウロの論述から明らかである。

二、
この原則に自由と服従に関する矛盾が生ずるのは、人間には霊的(精神)と身体的という二種の性質があるからである。

三、
キリスト者は霊的な内面において義(ただ)しく、自由である。
身体的(外的)なものは、決して人に義や自由を与えることはできない。
なぜなら義(善悪)や自由は内的な範疇のものであり、身体が健康であろうが不健康であろうが、拘束されようが解かれようが、何の関係もない。

四、
同様に、身体が豪華な聖衣を着ようが立派な教会に居ようが何の役にも立たず、身体で祈り、巡礼し、断食し、身体における善行を積んだところで無益である。
魂に義と自由を与えるものは、これらとは全く別のものでなければならない。
なぜなら、外的なものや行為は、悪人や偽善者にも容易に手に入るものだからであり、そこからは偽の聖者しか生まれない。
平服を着、市場に居、飲食し、巡礼も祈りもせずとも、魂には何の害もない。

五、
魂は、義と自由たらしめる聖なる福音、神の御言葉以外なにも持たない。
魂は神の御言葉があればそれで充足し、それ以外のものは必要とせず、他の何を持っていたとしても、神の御言葉がなければやっていけない。
その御言葉の中に満足があり、食物、喜び、平和、栄光、技能、正義、真理、知恵、自由、全てがその内に充たされるのである。
キリストがこの世に来られたのは、この御言葉を伝えるために他ならない。
この使命を手伝うはずの聖職者たちは、残念ながら今や別様のものになってしまった。

六、
そんな大きな恩恵を与えてくれる御言葉の本質は何かと言うと、
「人間の世俗の生活や行為は、神の前には無に等しく、君とある全てのものと共に永遠に滅びる。しかし、神はキリストの言葉によって君が滅びの中から救われるよう計らった」
「君はキリストに身をゆだね信仰し、罪の許しと滅びの克服を得、義と平和と真実の中で自由を約束される」
「キリスト者はただ信仰によってのみ生き、その義によって、あらゆる律法の終わり(完成)とされる」

七、
だから、キリストとその御言葉を自己の内に抱き、信仰を鍛えあげることが、キリスト者の唯一の務めである。
これ以外の行いは、なんらキリスト者になることの助けにはならない。
キリストへの信仰は、不幸を除去し祝福を与え、人を富んだ者にする。
信仰の中にはすべての掟が集約されており、それが信仰者の義しさを保証するため、正や義とされるためにはその他のものは何も必要がない。
「心から信じることは、人を正しく義とする(ローマ書10章10節)」

八、
信仰が義と自由と幸を与えるものに対し、善なる態度や行いを詳しく規定する律法や戒めは、ただ指令するだけで助力しない。
何をなすべきかは教えても、実行する力は与えないのだ。
結局、厳しい戒め(旧約聖書)は人に自身の無力を悟らせ絶望させるだけのものであり、それによって人間は他者の助力が必要だということを学ぶのである。

九、
いましめに対して自分は無力であり、かつ戒めを充たさなければ罪と滅びが定められている。
人間の慢心は完全に砕かれ惨めな姿で喘いでいる時、神から新たな約束(契約)の言葉が与えられる。
「お前がすべての戒めを充たし悪い欲望と罪から解放されたければ、キリストを信じよ。私はキリストを介し、お前にあらゆる恩恵と義と自由と平和を約束する。戒めの要求する難事を、信仰によってたやすく完うされるだろう。なぜなら、私はすべてのものを信仰のうちにまとめておいたので、信仰を持つ者はそれだけで幸いとされ、持たぬ者は何ひとつ得られないのである」
旧い約束の戒めの言葉(旧約聖書)の要求を成就する、この神の新しい約束が、新約聖書である。

十、
なぜ、信仰が既存の善行との比較を絶するほどに、多くのことをなし得るのか。
それは、既存の善行が信仰と違い、神の言に頼らず、魂の内にあらず、その外で動くものだからである。
鉄を火に入れると、炎と見分けがつかぬほど赤熱し同化する、ある種の親和性を持つように、ただ神の言と信仰のみが魂と交わりうる。
キリスト者は信仰だけで充分であり、義とされるためにはその他いかなる律法も戒めも必要としない。
この解放が「キリスト者の自由」である。

十一、
他者を信じるのは、相手が正直で真実な人間であると認めているからであり、それは最高の敬意である。
反対に不信は、相手が嘘つきで軽薄な人間だということであり、最大の侮辱である。
それと同様、神に対しての信仰は最高の賛辞である。
神の言を信じ疑わず、すべてを預け、そして従う。
反対に神への不信は最大の侮辱であり、神を拒み、嘘つきと罵り、自分の方が有能であると自負し、心の内に自分に都合の良い偶像を貯め込む。
人間の魂が信仰によって神を崇める時、神もまた魂を尊び、これを義とし真実としたもう。

十二、
信仰によって人間の魂は神の御言葉と同化し、自由と幸福を与えられるだけでなく、キリストとも一体となることができる。
キリストと私、各々の所有するものや幸や不幸などのあらゆるものは共有される。
これにより、キリストの持つすべての善きものと祝福が魂に与えられ、魂の持つすべての不徳と罪をキリストは背負われる。
キリストは神にして人であり、罪にも不義にも犯されない永遠なる全能を有するため、その引き受けた人間の罪や不徳は大海に落ちた一滴の墨汁のように消滅する。
このように魂は信仰によってあらゆる罪から解放され自由になり、永遠の義を与えられる。
「神はキリスト・イエスにおいて、罪と死が呑まれるほどの勝利を私たちに与えた(同上15章57節)」

十三、
では、どうして信仰が全ての掟を充たし、人を義とするのか。
それは信仰のみが、モーゼの第一の戒め「ただひとりの神を崇めなさい」を充たすことができるからである。
たとえ誰かの行為がすべて善行によったとしても、この第一の戒めを充たすわけでも、その行いが義とされるわけでもない。
この戒めを充たすことができるのは、どんな善い行い(外的)でもなく、ただ心からの信仰(内的)だけだからである。
この第一の最も基本的で重要な戒めを充たしていないなら意味がなく、その基本を確実に行えるものは、必然的に他の戒めも当たり前に充たす事ができるのである。
内心からの信仰によって、自ら神を崇め、はじめて人は主体的な行為者となれるのであって、そうでない外的な行為は他動的にやらされているだけのものでしかない。
この信仰こそが義の頭であり、それなしの行為で神の戒めを充たすよう教える教説は危険で愚かである。

十四、
旧約聖書において初生児は貴ばれ、支配権(王権)と祭司権という二つの特権を与えられた。
長男は地上の者(弟)に対しては君主であり、神に対しては祭司であった。
この物語は、イエス・キリストも処女マリアから生まれた父なる神の初生児であり、霊的な意味で彼は王であり祭司であることを比喩的に象徴している。
キリストの王国は地上の富にあるのではなく、霊的な富(真理、平和、祝福など)の中にあり、キリストは外的な動作や衣装ではなく、霊的なものの中で神の前に立ち祭司を務める。

十五、
信仰によって彼と一体になるキリスト者は、皆が王となり祭司となり、霊的に万物の主と成る。
選ばれた者のために、生も死も、義も悪も、現在も未来も、すべてのものが仕え益とする。
これは身体で地上のものを所有したり使用したりすることではない。
身体的な支配や服従には地上的な限界があり、最終的には身体は死というものを免れない。
そうではなく、ここで説かれるのは霊的な支配であり、それは身体が拘束されていても支配できるのであり、あらゆるもの、身体の死や苦悩すら私を益し祝福するものとなる。
信仰によって霊の王国に入れば、万物が私の益となり、しかも私には信仰以外なにも必要とされない。
これこそがキリスト者の自由と権力である。

十六、
信仰者は王であると同時に祭司でもあり、神の前に立ち祈る権利を与えられている。
まるで身体的な意味での祭司が、人々の代表として前へ進み出で祈るように、我々は霊的にお互いのために進み出で祈ることが許されている。
反対に信仰なき者には、万物は何の働きも益も与えず、彼は万物の奴隷であり、あらゆるものに躓き、しかも祈ることも許されない。
かように、信仰篤きキリスト者は、王であることによって万物を支配し、祭司であることによって神をも動かす。
何度も言うように、これを成就させるものは信仰(内なる心)のみであり、善行(外なる行為)ではない。

十七、
信仰者万人が祭司であるなら、キリスト教界における祭司と平信徒の違いは何かと尋ねられる。
そもそも聖書は聖職者を、キリストの教えを説く任務を負った者として単純に奉仕者、僕、執事などと呼んでいるだけで、特別な区別は与えていない。
今日特権的な僧侶階級にある少数者としての祭司は、これを不当に利用し、現世的で外的な権力と恐ろしい支配力を手にした。
それは正当な権力(地上の)ですら対抗できないほどの強力な権威であり、平信徒などまるでキリスト者ではないかのように扱われる。
こんな世界では、恵みも自由も信仰も、キリストから受けるもの全てに対する理解も失われ、キリスト御自身でさえも奪い去られる。
その代わりに人は、地上の権威(最も無能な人達)の奴隷となり、人間的な律法の行為者に堕ちる。

十八、
もし、キリストの生涯と事業を表面的になぞり説くだけ、まして彼については全く触れず、ただ教会法や人間的な律法を講ずるだけなら、それは全くの間違いである。
また、感情的にキリストに同情し、ユダヤ人に憤慨するだけの子供じみた者も多くいる。
しかし、説教はそれを聴いて信仰が呼び覚まされ保持されるようなものでなければならない。
キリストはなぜ来られ、私たちに何をもたらし、いかに彼と交わり益を得るか。
それは、われわれが彼から受けたキリスト教的自由を正しく解釈するということである。
先述の、自由と喜びと義の獲得、罪と死と恐怖からの解放、キリストと共にあることによる永遠の勝利、常に神の前に受容され聞き届けられる私の祈り。
そういうものへ理解があって、はじめて人は彼を愛する必然に駆られるのである。