ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

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プロテスタントと資本主義

本書のタイトル通り、近代資本主義を発展させたエートスが、プロテスタントの倫理を源泉として生じたというその成り立ちを描き出すことです。
「エートス」とは、ウェーバーが定式化した社会学的な概念で、その意味は「ある文化や人間集団のあり方や生き方を内奥から規定する心的特性」を指します。

ウェーバーが調べた職業統計から見えてくるのは、この資本主義社会の上位に属する者には、著しいプロテスタント的特性があるということです。
それは、カトリックとプロテスタントの特性の違いが、経済活動のあり方に相違を生み、プロテスタントの精神的土壌が資本主義のそれと同調関係にあるのではないかという疑問です。

ちなみにプロテスタント(新教)というのは、カトリック教会(旧教)への抗議(プロテスト)によって分離したキリスト教派です。
これを宗教改革と呼び、主な改革者がルターとカルヴァンです。
時代的にはプロテスタントの隆盛が近代資本主義の発展に先行する形です。

 

資本主義の精神

この資本主義の精神を典型的にあらわすものとして、ベンジャミン・フランクリンが例示されます。
彼の「タイム・イズ・マネー」という有名な言葉の中に、その精神が集約されています。
この言葉の前後の文脈を含めた主旨は、「一日の労働で一万円稼げるのに、半日寝て過ごせば、そのために五千円支払っているか捨てていることになる」ということです。
いわば人生の時間をマネーで数量化し、マネーをすべての基準にすることです。
さらに「時は金なり」の後には、「信用は金なり」「金は子供(金)を生む」の言葉が続きます。

普通(合理的)に考えれば、人間が働くのは、住み良い家をこしらえたり、美味しいご飯を食べたり、楽しい時間を過ごしたり、人生を快適にするための行動です。
しかし、フランクリンにおいては幸福や快楽や安息など度外視で、労働そのものが自己目的となり、むしろ人生を労働の手段とするような奇妙な転倒が起こっています。
ここに既に宗教にあるような非合理性が垣間見られます。
それは非常に禁欲的で倫理的な厳格さを含んだ「エートス」をもっています。

また、資本主義社会においては、マネーとクレジット(信用)によって人はつながります。
マネーを大切にしマネーを沢山持つ人は、勤勉で信用ある立派な人であることの証しとなります。
資本主義社会における「信用」と、プロテスタントにおける「信仰」は、非常に似た関係にあります。

 

天職

中世キリスト教(カトリック)が中心であった時代には、特に資本主義的なもの、金融業などは否定的にとらえられ、それを生業にする者は非キリスト者であるユダヤ人が中心でした。
いわば金儲けを目的とすることは、伝統的なキリスト教の倫理に反することでした。

しかし、神と私を職でつなぐ「天職」の概念が生じたことによって、資本主義社会で成功すること(利潤の追求)とキリスト者の倫理との矛盾は解消されます。
宗教改革以後、プロテスタントにおいて職業というものは、神に召され与えられた使命「天職」と捉えられるようになります(ドイツ語の「ベルーフ<職業>」は、「ルーフ<呼ぶ>」からの派生であり、神から呼ばれた召命の意味をもっています)。

だから、職業において成功する者は、それによって自らが神に選ばれた者であることを証明するのです。
逆に、失敗することは、選ばれなかったということの証明になります。
この職業と召命との親和性が、資本主義とプロテスタントをつなぐかすがいとなります。

 

予定説

ここで重要になるのが、カルヴァニズムの「予定説」の教えです。
人間の中で誰が救われ、誰が滅びるかは、神の意志によって予め決定されており、人間の力でそれを変えることなどできない、という考えです。
しかし、そうであるなら人間は努力を放棄し、自堕落な生き方に流されそうなものですが、ここで奇妙な逆転が起こります。

教会や聖職者に頼ることもできなければ、自分の努力に頼ることもできません。
神への祈りもどんな儀礼も予定の前には無力であり、宗教改革は呪術、感情、人間的な要素を徹底的に排除し、まるで神の意志を実現する経営者の事業のように、合理的にことを進めます(呪術からの解放)。
また、救済は予定の中にのみあるため、隣人との助け合いの可能性は完全に断たれます。
そんな孤独の中にある無能な人間に唯一できることは、ただ自分が救われる者か、滅びる者かを確認することだけです。
不安を唯一やわらげる方法は、この確認のみなのです。

先ほども述べたように、救済を証明するものは、天職において成功しているということです。
その証しである経済的成功を得るために、人は修行僧のように禁欲的に職業に向かい、必死で働き功徳を積み、増えた資産の分だけ安心と信仰(クレジット)をえられることになります。
自らは神の使命を実行する選民であるという意識がここに生じます。

また、これには、一生懸命労働することによって不安を忘れさせるという心理学的な効果もあります。
休む間もなく勤勉に働き続けることによって、不安の入り込む余地を無くし、救いの状態を擬似的に作り出す方法です。

 

世俗内禁欲と営利機械

カトリックでは教会という神の秩序の中での修行、いわば禁欲的な生活(清貧・従順・貞節)を通じ、キリスト者として精進し功徳を積むことが必要でした。
しかし、教会の特権に抗議(プロテスト)するプロテスタントでは、万人が平等であり、万人を司祭とみなすため(万人祭司の教説)、その修行の場も世俗の生業(職業)の中に移します。
反権威主義的(民主主義的)な個人の自由と責任において、ストイック(禁欲的)に、自らの職業(天職)に従事することが、修行だということです。

また、カトリック教会の指導の下、生活のあり方というものの規範を与えられていた人々は、この伝統からの解放によって、精神的な自立と孤独の中で生きなければならなくなります。
司祭が罪をゆるす赦罪権を持つカトリックと違い、プロテスタントにおいて救いの是非は個人にあり、全責任を負わされた絶えざる内的緊張状態にあります。
自らで思考し計画を立て、主体的かつ合理的に、いわば近代的な社会人の模範とも言えるような生き方に変えていかねばならないのです。
カルヴァニズムの信徒は、信仰の貸借対照表を睨みながら、まるで事業経営者のように自己の人生を合理的に規定していきます。
社会に貢献する労働によって社会を豊かにすることは、神の栄光を実現することであり、自らの職業をその実現のための使命とすることです。
こうしたプロテスタンティズムの世界観が、人間をひとつの「営利機械」とし、必然的に資本主義を発展させていくことになります。

しかし、禁欲的に労働し成果を上げることによって、神の栄光に与ると言っても、それは修行の場が教会から世俗に移ったという外的な変化だけでなく、禁欲の意味も根本的に変わります。
以前の清貧や従順(受動)のような禁欲倫理は、資本主義的な豊かさと主体性(能動)によって駆逐され、変わりに合理性な自己制御(克己)、いわばボクサーのような禁欲(ストイック)に変更されます。
不断の反省によって自己を意志(合理と計画)に服従させ、常に自己が自己の倫理の審判となるのです。
神の国のために訓育された軍人のような規律と合理性によって労働し、社会経済的に成功することです。
この一般化された禁欲をウェーバーは、「世俗内禁欲」と呼びます。
人々の生活全体が徹底的に倫理化されるのです。

最終的にこれは資本主義的な搾取の構造(剰余価値)の肯定につながります。
カトリックでは、物乞いや働けない貧困者は慈善の対象であり、ある程度の居場所を保証されていましたが、プロテスタントにおいては、施しは堕落のもとであり、それは慈善ではないと否定されます(人間は皆、労働力商品にならねばなりません)。
自分の利益(賃金)よりも勤勉に働くことそのものが大切なのであり、禁欲的な労働者は神の恩寵に与る者として高められます(低賃金でも自発的に一生懸命働く労働者の誕生です)。

 

合理を支える非合理のエートス

感性的なものを排除するプロテスタンティズムの精神は、ニュートンのような数学や物理学の飛躍的な発展をもたらし、伝統的なギルドや血縁関係による臍帯を失ったバラバラになった個人を功利主義的な実績の図表の中にピンで留めていきます。
その図表における地位の記号が、救済と選民であることの証しとなるのです。

人間が作ったもの(家や遊戯やご馳走)が価値を持つのではなく、価値があるのは世俗を超えたもっと理念的なものであるという考え方は、偶像(人が作った物)崇拝を否定するプロテスタント信仰のあり方そのものでもあります。
ヨーロッパの近代的な合理性の発展というものは、その実、このような非合理性に支えられて成立している、倒錯的なものなのです。

もちろん、これは宗教改革者たちにとっては予期しなかった正反対の結果です。
人間の歴史というものは、意図した社会の理念と現実の結果のズレが生み出す偶然性で編まれた織物であり、それは本質的に不確実なものであるということです。

 

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