デシの『人を伸ばす力』(5)病める社会

(4)のつづき

以上の考察から、自尊感情には二つの類型が存在することが分かります。
真の自尊感情と行動随伴的な自尊感情です。

真の自尊感情とは、生来的な人間としての自分という基盤の上に築かれた健全で安定したものです。
内発的動機づけを軸とし外的制限や規範は自己に統合され、行為や感情を上手く調整できる発達した真の自己から成っています。
よって真の自尊感情には、自由と責任の感覚が伴います。
統合された規範や外的価値を持つため、正誤を判断する感覚と自己の誤りを認め改善する柔軟性を持ちます。
他者を尊重し、その良さを素直に認め、弱さを受け容れることができます。

随伴的な自尊感情とは、基盤となるべき自己を持たず、不安定で、状況に合わせることに神経をすり減らし、心の奥で自分を軽蔑します。
この自尊感情は自己関与的な、結果(状況)の如何に左右される脆く儚い束の間のものであり、堅実な自己の感覚というよりは、拡大された自己イメージです。
他者を手段とみなしがちで、評価や非難の対象とします。
随伴的な自尊感情とは、いうなれば、通信簿で5をとった、野菜を全部食べた、部屋を掃除した、等に随伴して与えられる自己価値観であり、もし目標に到達できなければ、あなたには何の価値もない、ということです。

人気の作家や学者などは、多くの場合、自尊感情を絶賛し読者にその重要性を説く訳ですが、これら自尊感情の違いを理解していないため、むしろ逆効果に終わる可能性があります。
愛においても同様、理想として提示されるものは、どちらかあるいは両者の自律性を欠いた依存関係であり、随伴的な対象として相手を見るものです。
しかし、重要なのは相互に自律性の支援があるかであり、真の自己と真の自己が関わりあう関係です。
自己の感覚を維持しながら、自律的な選択によって、自分と同等にかけがえのない自己を持つ他者と関わる時、真に満ち足りた関係となるのです。
もし、どちらかが自律性を欠けば、統制、義務、不自由、不安、不信、批判、等のネガティブな感覚が前面に出た関係となります。

人が誠実に関わり合うことを妨害するものから自己を解放し、純粋にふれ合うことができるくらいに心理的に自由になれるかどうかが課題なのです(フロムの『愛するということ』参照)。

第九章、病める社会の中で

生きる意欲(目標)というものに焦点を当て、調査してみました。
おおむね社会の中で生きる人間の意欲には六つの類型があります。
外発的な意欲として三つ、裕福に成ること、有名に成ること、肉体的な魅力があること、です。
これらはさらに別の目的の手段となることが特徴です。
財産が権力や名声を、美貌が財産を生み出すように。
内発的な意欲として三つ、対人関係、社会貢献、個人の成長、です。
それ自体が報酬であり、有能さ、自律、関係性に対する生得的な満足を得るものです。

これら六つの意欲は誰もが持つものであり、かつその対象は必要なものです。
問題はこれらの目標の追及が一辺倒でバランスを失った時、起こります。
調査の結果、三つの外発的意欲の内いずれかが突出して高い時、精神的健康が低くなりました。
例えば、裕福さへの意欲が異常に強い人は、ナルチシズム、不安、抑うつ、社会的義務感の喪失が見られ、他の外発的意欲に関しても、心理的機能の低下と関連付けられました。
これとは逆に、強い内発的意欲に関しては、精神的健康にプラスとなる関係が認められました。
バイタリティに溢れ、自尊感情が高く、状況に対する友好を感じています。

これは単に意欲や目標が、心理的な健康や不健康を生み出すということではなく、心理的なあり方が必然的に意欲や目標を決定する原因ともなるということです。
精神的に最も健康な人は、三つの内発的意欲に焦点を合わせている人ですが、もちろん彼らも同時に外発的意欲も持っています。
しかし、富や名声が精神的に不健康な人の行動を支配することはあっても、健康な人の心のバランスを崩すほど占拠することはありません。

外発的な目標に夢中になる人の背景には、自己の希薄さというものがあります。
確固とした基盤がなく、内発的な欲求が満たされない状況にあるとき、人は必然的に表面的なペルソナ(記号的な人格)を作り上げ固執します。
自分の価値は、肩書き、年収、車、服装、外見、などによってのみ示されます。
先述の随伴的な自尊感情、偽りの自己です。

たえず随伴的な愛情や敬意にさらされてきた人などは、自分の価値をはかる基準として、外的基準にのみに頼ります。
外的基準に依存するという事は、社会的権力に弱くなるということであり、それがどんなに病的な社会であっても望まれる価値を採用することになります。
権力によって誇大に広告された価値やヴィジョンを鵜呑みにし、本来必要もない家や美貌や勲章のために、死に物狂いで働きます。

外発的意欲の先行要因としては統制的で随伴的な環境、内発的意欲の場合は自立性の支援です。
要は子供たち(人間)の基本的な欲求(自律性、有能感、関係性)が満たされなかった時、取り入れや随伴的な自尊感情、外発的志向性が生じ、精神的に不健康であるということです。
そもそも金銭欲や名誉欲のように所有するものに対して欲求という概念を使うことは誤りです。
食欲は「食物欲」ではなく性欲は「女欲(男欲)」ではないように、金銭や名誉や外見に対する欲求(というより願望)の裏には、もっと本質的な心理的欲求というものがあることを知らねばなりません。
金銭や名誉や外見が、一体私のどんな心理的欲求を満たしているのか、を。
いわば、それら外発的な欲求は、偽の自己が生み出す偽の欲求だということです。

外発的価値が内発的価値を上回る時は、その価値が自己に統合されておらず、外的なものに自己が篭絡されているという状況です(取り入れの問題と同様です)。
外的価値が統合されていれば、それらは本来的な欲求を満足させるために有意義に使われます。
例えば、恋人との関係性を深めるために必要なデート代は統合された金銭欲ですが、恋人の承認を得るための貢ぎものや自己を売り込むための高級時計を必死で働いて買うお金は、統合されていない金銭欲としてあります。

内発的価値と外発的価値のバランスをとること(自己への統合)を阻害するものとして、親の教育というものをあげましたが、それ以上に物欲信仰や金銭崇拝を煽り続ける社会の経済的側面が、私たちを押し流そうとします。
これほどまでに外発的価値に偏重する社会においては、欲求の心理的バランスをとることは困難な課題となっています。

それに加えて現代資本主義社会を基礎付けるものとして個人主義というものがあります。
第一章で、外的な独立性が内的な自律性と混同されるということを述べましたが、それと同じように個人主義というものも自律性と混同され、自律性というものが見えにくくなっています。
語義としては共に、主体の自由意志によって選択した目標を追及することですが、本質的に意味が異なります。

「個人主義」とは、言い換えれば自利主義であり、個人が自由に利益追求する権利をもつということです(社会契約的な法・ルールの範囲内で)。
個人主義の反対は集産主義(集団主義)であり、全体の利益や目的のために個人の利益や目的を目指す活動が従属させられる構造です。

「自律性」とは、今まで考察したように、自己選択の感覚や自己原因感、自己コントロール感を伴うもので、自分の意思と行為と結果のリンクが明確に把握、統合されている状態です。
自律性の反対は統制であり、それは他者の意思を私が行為し、その行為の結果もまた他者の意思の実現であるという、自己の自然な活動プロセスが分断された隷属状態にあります。

個人主義と自律性を明確に区別するポイントは「自己認識」であり、自己の内的プロセスに対し反省的に向き合い、それらを掌握しているかどうかが重要になります。
いわば、内的な考えや経験が自己に統合されたパーソナリティーの統一性を持てているかどうかです。

資本主義経済がけしかける利益(外的価値)追求の強迫観念によって動かされる現代人は、個人主義的ではあっても自律的ではありません。
個人主義がもたらす問題を、自律性の問題にすりかえ叩く社会心理学者も同様の混同をしているのであって、自律的であることに何ら問題はありません。

資本主義社会は個人主義をまるで人間の生得的な権利であるかのように吹聴するわけですが、皮肉なことにそれはまるで現代版の宗教や独裁国家のように、人間は外発的な価値に統制され、マスメディアが広告する象徴に服従する隷属状態に陥っています。
自律と違って、個人主義が統制と共存しやすいものであるという今までの考察を理解していれば、この見かけの上でのパラドックスは、むしろ必然ともいえるものです。

何度も言うように、個人主義や外的価値が良い悪いなどという問題ではなく、あくまでもそれらが自己に統合されているかどうかの問題です。
社会のあり方は移り変わり、規範や理想とされる価値は刻々と変化していきます。
しかし、そんな流れの中にあっても、よく統合された自己という基盤を持っていれば、確固とした自分自身であり続けることができるでしょう。

おわり