デシの『人を伸ばす力』(4)社会と自己

(3)のつづき

第七章、社会の一員になるとき

社会化とは、社会の成員になるために必要なスキルを身につけることです。
社会化の担い手(親、教師、管理職など)は、下位の者たちが自分の意志によって社会の活動に従事し、将来、援助の手を差し伸べなくとも自立的に活動できるようにすることです。
それらは大抵、動機づけのむずかしい退屈な責務の色を帯び、しかし、それなしには社会役割を果たしえない重要なものです。
多くの場合、それは「内在化」のプロセス(外的規範を模倣的に取り込むこと)によって記述されます。
受動的で混沌の状態にある人間に、外的統制によって行動規範をプログラミング(内在化)していく過程です。

しかし、これは逆の方向から理解する方が自然です。。
「少年に対して内在化が行われた」のではなく、「少年自身によって内在化が行われた」ということです。
外にいる者は子供の内在化を促進したり阻止したりはできますが、あくまで内在化するのは当の本人です。
ある社会の規範や価値を自己の内に統合することで、子供は他者とのつながりを持ち、社会関係性への欲求を満たし、周囲の環境の中に自分の居場所や社会役割を作ろうとします。
この価値や規則の内在化を通した順応過程によって、子供は社会と有能に関係していく方法を見に付けていきます。

この内在化においては、二つの形態があります。
「取り入れ(Introjection)」は、何の理解もないまま丸ごと呑み込む
ことであり、その活動を自律的に実行することが不可能となります。
融通の利かないルールがためのルールであり、統制的なものとなります。
「統合(integration)」は、よく理解した上で最適な形で自己に統合することです。
その活動の原理を理解しているため、自律的にそれをコントロールすることができます。
このような統合によって、重要ではあるが面白くない(内発的に動機づけられていない)活動に対する責任を自ら受け容れるようになります。

有能感や関係性への欲求が内在化を動機づけますが、これに自律への欲求が伴わなければ、ただの「取り込み」で終わってしまいます。
取り込まれた規範や価値は、理由も分からぬ他者のルールであり、「~しなければならない、~すべきだ」という命令(他律)として機能します。
かたくなで義務的で服従的な規則は、硬直性や無気力や反抗を引き起こし、社会化する方される方、共に悪い結果をもたらします。
特に取り込みに長けた子供は一見非常に適応的で優秀に見えるため、管理者から放置されやすく、大きなストレスや心理的な歪みを抱えていることが見過ごされてしまいます。
かたくなにルールを取り込むのは、効果的な内在化のプロセスに失敗した自分の役割の喪失からくる、補償的なしがみつきです。
また、それとは逆に振れて、価値や規範を全く身につけようとしない場合もあります。

子供は心の中に統一感を保ち続けながら社会と関わっていく方法を見つけ出していかねばなりません。
確かな自己を持ち、同時に社会的責任を引き受けられる人間になるかどうかは、彼らを社会化する環境に大きく影響されます。
調査によって分かったことは、自律性を支援し、顧慮する家庭の子供は、適切な内在化をおこなっており、統合の程度も高くありました。
自立性の支援とは、他者を自分の満足のために操作するもの(手段)として見るのではなく、支援する価値のある主体的な人間として、関わっていくことです。
それは彼らの立場に立ち、彼らの視点から世界を見ることから生まれるものです。

自律とは社会の責任を引き受けることによって成立するものであり、共同体の中で自分の位置を確立すること(社会貢献によって)です。
この社会的なつながりへの欲求が文化や社会的価値を内在化し、それを基盤として私独自の創意によって貢献的に関わっていくことが、社会化するということです。

自己中心的で自愛的な人は、自律とは全く逆の人達であり、彼らは無責任で、他人を思いやることがありません。
むしろ自律性と統合の欲求を満足させること(自己の確立)に失敗したからこそ、責任主体としての自己を持てず、無責任に振舞うのです。
それと同様、自由放任は自律性の支援とは真逆のものです。
構造も規範も提供しない無責任な放任において、内在化や自律心が生ずることはありえません。

放任とはむしろ統制に似ています。
両者とも管理者は管理される者に対しての理解をもたず、無関心かつ無責任であるのです。
先ほども述べたように、自律性の支援とは、相手の立場に立つことから始まります。
外側から、ある行為の意味を理解するのは不可能です。
相手の立場になって、そのコンテクストにおける行為の意味を考えた時にのみ、理解されます。
子供の反抗が愛情の希求である事もあれば、子供の従順が復讐であることもあります。

多くの管理者が、自分の無責任な放任を自律性の支援と考えてしまっているのが現状です。
また、管理者が仕事のストレス等で、支援のための十分な時間や活力がない時などは、放任的であるか、あるいは誤った病的な責任感を持つことになります。
管理者を取り巻く圧力から、子供に対して過度に要求的で批判的になります。
子供に対しての要求の理想は上がり、望むような反応を示さない時は怒り狂い怒鳴り殴りつけます。
管理者本人は、この自分の攻撃性を、自律性の支援のための制限だと考え、自分を偽っています。
これら行きつく先は、ネグレクトと虐待です。
管理者自身がそれを自覚し、まずは自分自身が自律的であらねば、他人の自律性を支援することなどできないのです。

第八章、社会の中の自己

自己に統合されない規範「取り込み」が過度になると、人は「~すべき、~あるべき」に縛られて、本当の自己というものが見えなくなってしまいます。
周囲が非自律的(統制的)な人であればあるほど、自分を主張しない偽りの自己であることを評価し受け容れてくれるため、私は常に不安を感じながら他社の思惑を推測し振舞わねばなりません。
事実上、この状態において本来の自己との接触は皆無です。
ここにおいて内発的自己は発達せず、その事実を直視することさえできなくなります。

統制的な人達は、人間には将来的に他者と関わっていこうとする欲求があることにつけ込み、他者を操作し利己利益の道具にしようとします。
自分の意に沿った時は愛情を注ぎ、意に沿わない時は冷遇する親は、親の愛情を得ようとする子の行動随伴性を巧みに利用するうち、子供は規範をなんら統合しないまま取り込み、延々と親の顔色に合わせて仮面を付け替える自己なき存在となります。
不安と葛藤と抑圧の中で、自律性、好奇心、決断力、活力というものを徐々に失っていき、のびきったバネのように無表情で無気力な人間になります。

行動随伴的な愛情や敬意を統制の手段として用いていると、やがてその方法まで取り込んでしまい、自分が自分自身を随伴的に評価するようになります。
自分の行為に対して、反省的に賞罰を与える厳格な自分が発生し、外的だけでなく内的にも、自分の価値を感じるには、統制的な規範に従わなければならなくなります。
ここまでくると自分の自律的行動によって有能感を感じることは、極めて難しくなります。

心理学用語として「自我関与」というものがあります。
ある特定の事物やそれに関わる行為が、自己にとって価値あるものとされる関係や態度を指します。
外発的動機づけは何らかの外的な事物に価値を見出すため、自我関与的です。
自我関与は外部や他者に依存するため、当然内的な自律的自己の発達が抑制されます。
自尊感情が行為の外的な結果に依存する時、人は上辺だけの自己を取り繕い、偽りの自己を形成していきます。
自律的で生産的であるためには、自己関与から距離を置く必要があります。

ある優秀なプロ野球選手が、他球団に移籍した時、誰もが彼に期待し、彼もファンに対し大活躍を公言しました。
しかし、成績は惨憺たるもので、スランプに陥ります。
トンネルは長く続き、あるとき彼は諦めます。
「成績にしがみついて、強打者であるという自分の価値を保とうとするのはもういい、ただボールをしっかりとらえることだけに懸命になろう」と。
それを機に成績は好転し、自己の能力をまた発揮することができるようになりました。

元々、内発的に野球そのものに興味を持ち有能感を獲得していった人間が、地位や名声を得るにつれて、その目的が外部の評価や報酬に向き、自己関与的になり、自己の能力の自然な発動を抑圧したと言えます。
それをある種の開き直り(いわゆる仏教的な諦念、悟り)によって、自我関与を捨て、本来の面目躍如とした自分を取り戻したのです。
非常に逆説的ですが、結果を出したければ、結果を意識しない(過程に集中する)ということが重要なのです。

「太ったままでいる勇気があれば、やせることができます」とは、あるセラピストの言葉です。
痩せようと強制する自我関与と、それに抵抗しようとする自己との葛藤に目を向けさせます。
自分自身に圧力をかけ強要し、同時に自分自身で反抗し妨害するというパワーゲームの中で消耗してしまい、何ら実りある行為は実現されません。
減量に成功したければ、まず自我関与をやめ、取り込まれた規範との闘争から抜け出し、無益な自己嫌悪に苛まれている心を解放した時、はじめて痩せることができるのです。

(5)へつづく