岸見一郎の『嫌われる勇気』(6)今を生きる

(5)のつづき

普通であることの勇気

人間には本質的に優越性への欲求があり、それは社会貢献の中でのみ満たされるものであると述べました。
優越性といってもその実際は、基本的にいたって「普通」の様相を呈します。
なぜなら自立した人間、自分に対しての信頼を持つ者は、ことさら自分が特別な人間であることを誇示する必要はないからです。

劣等感の項でも挙げたように、自分を特別な存在として誇示しようとする人は、自分に自信のない人であり、外見を飾ろうとするのは中身のないお人形さんであることの証示です。
優越性への欲求が、自分を特別な存在にしようと駆り立てるものである場合は注意しなければなりません。
それは自分が本質的なものを離れ、副次的なものに疎外されてしまっている状態です。
例えば、私がボランティア活動をするのは社会貢献が目的であって、それに贈られる賞ではありません。

劣等コンプレックスによって誤ったライフスタイルを選ぶ時、人は他より秀でた特別な存在であろうとし、自分に対しても他人に対しても非常に乱暴な生き方になります。
そして特別な存在になる可能性を絶たれれば、今度は逆に特別に悪くなることによって他との差別化を図ろうとします。
問題行動によって他者の注目を集めようとし、どんな形であれ特別な存在であることにしがみつこうとします。

戦略的に自己を宣伝し偉人に名を連ねた者を除けば、大抵の偉人は普通に自分の課題を日々淡々とこなしていただけです。
その道程と時代のタイミングがかみ合って、結果的に偉人となっただけで、別にアインシュタインもマザーテレサも偉人になろうとして社会貢献していたわけではありません。
マザーテレサ以上に社会に貢献しながら、名もなき人として普通に生涯を終えた人は星の数ほどいます。
別にそれで彼らが不幸だとか悔しいだとか思うわけではありません。
人間的に自立している人にとっては、自分の課題をこなすことが本質であり、名声などというものは付帯的なもの(オマケ)にすぎません。
ノーベル賞や文化勲章よりも、身近な他者の笑顔や、子供のありがとうの言葉に価値を感じる普通の人こそ、社会に貢献し、共同体を支えている人たちなのです。

ちなみに賞は縦の関係であり、与える者が与えられる者より優位に立つ権力構造をもちます。
例えば、サルトルがノーベル賞を辞退し、鈴木大拙が文化勲章を辞退した理由として、賞という権威の政治性と、その権力の下僕となることを嫌ってのことです。

今を生きる

ではこの普通である生き方とはどういうものでしょうか。
それは「今を生きる」ということに集約されます。

例えば、偉大な野球選手は、未来の結果や過去のことではなく、ただ今の状況にベストを尽くしているだけです。
その積み重ねとして、王選手やイチロー選手のような偉業が達成されるのであり、記録(結果)のことを考えながらバッタ-ボックッスに入っているわけではありません。
最近よく使われる「結果がすべて」という言葉は、当事者として生きていない第三者(例えば監督)の評価視点の言葉であり、リアルにこの瞬間に生きる選手にとっては、ボールをバットに当て運ぶ、今流れる「過程」がすべてなのです。
もちろん選手もインタビューなどで「結果がすべて」という言葉を使いますが、それはただ自己反省として批評家視点で自分を見ているだけです。

最初の目的論の項で、未来の目的が現在や過去の意味を決定すると述べましたが、それは現在からいくらでも変更可能な柔軟なものです。
「目玉焼きを作ろうという目的を立てたら、現在において卵の黄味を割ってしまった、失敗だろうか、いやそれなら未来の目的をスクランブルエッグに変更して、現在の意味を成功に変えよう!」そんな感じでしょうか。
軸はつねに現在にあり、そこから未来に目的を立て、その未来が現在と過去を意味付けます。

しかし、今を生きない人は、固定した未来の「目的」や過去の「原因」に閉じ込められ、人生の柔軟性を失い、劣化したゴムのように脆く崩れていきます。
ありもしない未来や過去の幻想の中に生きるうち、現実(現在)の私はどんどん弱っていくのです。

今を真剣に生き続けることの積み重ねの中で、描かれていく軌跡が私の人生です。
あらかじめ立てた計画やレール(軌道)に沿って生きるのは、設計図に従うロボットだけです(偶然性の要素が入る人間の人生において、それは原理的に不可能です)。
あらかじめ決まったレールがないという事は、そもそも人生に決まった意味などないということです。
私の「今」が人生をつむいでいくという事は、人生の意味は私が作るものだということです。
「世界は酷い所であり、他者は敵である」というライフスタイルを選ぶことは、世界をバッドなものとして意味付け現前させることであり、「世界は結構いい所であり、他者は仲間である」というライフスタイルを選べば、世界はグッドなものとして存在します。

私の力は計り知れないほど大きいと知るべきなのです。
私が変われば、世界も変わります。
世界は誰かが変えてくれるものではなく、自分自身によって変えていくものなのです。

おわり

補足

本書は自己啓発本としてはとても優れた本です。
ただ、タイトルにアドラーの名を冠していますが、アドラーの理論について正確に書かれた本ではありません。
著者のアドラー愛の強さから、古今東西の様々な思想家の考えまで一切合切アドラーが言ったことにしてしまっているので、アドラーの理論に矛盾するものまで引っ付いたキメラのようなものになっています。
ですので本書はアドラーの入門書ではなく、あくまでも優れたハウツー本として読まれることをお勧めします。

「トラウマの有無の問題」

(1)の目的論の項で注をいれましたが、特にトラウマに関する記述について少し問題を感じたので軽く触れておきます。
少し考えれば分かることなのですが、トラウマがないというのは明確な誤りです。
人間の意識的な行為というのは氷山の一角のようにほんの少しの部分です。
例えば初めてハミガキをする時は、明確な目的と意志を持って、意識的に行動せねばなりません。
しかし慣れてくると、それは無意識的な行動となり、テレビを見ながらでもできるようになります。
そして、その無意識化した行動の上に、さらに意識的な行動を継ぎ足していくことで、人間は複雑なことをできるようになり成長して行きます。
私たちの何気ない普段の行動も、そういう無意識(習慣)化の積み重ねによって成立しているのです。
人間が意識的に扱えるデータ量はたかが知れていますので、無意識のメモリ無しには何事もできません。
もし、岸見の言うように、人間の行動の大半が、無意識に沈殿した過去の経験ではなく目的論の自由意志によって成立しているというなら、私は近所のコンビニへジュースを買いに行くのにも丸一日かかるか、その複雑な手続きに発狂するでしょう。
幼児がはじめてのおつかいに難儀するように。
私たちは無意識の行為や過去の経験によって支えられ生きていることを忘れてはなりません。

だから、もし、今現在の行為を変えたいのなら、そんな表層の意識だけ変えても、人間はそんな急に変われるものではありません。
過去において習慣づけられた無意識の意味付けやライフスタイルを、今現在の意識の目的によって少しずつ変えていくしかありません。
右手で持っていた箸を、左手に持ちかえ訓練するように。
アドラーがライフスタイルの概念で言っていたのはそういうことです。
過去の経験と対峙することがいかに大切かはアドラー自身が言い続けていたことです。
過去の自分が一体どういう目的で行動を規定していたかを知り、それによって作られてきた今現在の状況を反省し、新たな目的の中で行動を規定し直し、徐々に生き方を変えていくということです。
手続きとしては非常にフロイトに似ています。
ニヒリストの決定論者フロイト、ヒューマニストの自由意志論者アドラーの二項対立で描写するのは、あまりに幼稚すぎるでしょう。
フロイトの言うように、人間は変われる、しかし、かなりの努力が必要である、というのが現実でしょう。