岸見一郎の『嫌われる勇気』(5)勇気と信頼

(4)のつづき

勇気づけ

では、横の関係性において「誰かのため」という善意は、どういう形のものになるのでしょうか。
一般的な善意というものは、縦の関係です。
誰かに何かをしてあげる私は常に相手より上位にあり、「正しい(あるいは優位な)私が、間違った(あるいは劣った)あなたの課題に介入し、解決してあげましょう」ということです。
私自身は善意のつもりであっても、それが縦の関係であれば、必然的に他者を自分の意図する方向へ操作しようとしていることになります。

それに対して、横の関係性における善意は「勇気づけ」という形をとります。
相手の課題に介入するのではなく、自力で課題を解決できるように、前々項で取り上げた「自分の能力を信じ、自立すること」、いわば内在的な力(勇気)が発露するような働きかけをすることです。
その人の課題の解決を妨げるものはその人自身の能力ではなく、課題に立ち向かう「勇気」が挫かれていることです。
ちなみに課題の分離によって現実的に不可能な課題は除去されますので、能力の有無は関係ありません。

勿論それは既存の「褒めて伸ばす」心理操作などではありません。
「褒める」ことは上下間で行われる縦の関係性(操作)であり、褒められた人は自分の能力を信じるどころか、潜在的に自分の能力を減退させていきます。
人は褒められることによって、他者の期待に沿うことを自分の価値としてしまい、どんどん自立の力を失っていきます。
人に褒められて持つ自信など、人に貶されれば脆くも崩れ去る皮相的なものであり、本当の自信でも勇気でもありません。
偽物の自信を得ることに躍起になっているうちに、本当の自信を育む可能性を失ってしまうのです。

では、一体どうアプローチすればよいのでしょうか。
それは単純に、自分と横の関係の対等なパートナーが協同してくれた時などにどう対応するかを考えれば分かります。
ここで出るのは感謝の言葉「ありがとう」「助かった」などであって、褒め言葉ではありません。
マブダチが引越しの手伝いをしてくれて、「良くできたね、偉いね」などと褒めれば、キレられること間違いなしです。
相手の行為を評価せずに、ただその行為が他者(共同体)に貢献したという事実を伝えることです。
褒められるという事は、ある特定の他者の物差しに合致したという「よい」「わるい」の評価です。
それに対し、感謝の言葉というのは、特定の物差しなしに、あなたの力が役に立ったという表明であり、特定の課題を素通りして内在的な力のみに働きかけることになります。
他者からの良い悪いの評価ではなく、自分の内にある有能感が育まれて、はじめて本当の自己価値観や自信や勇気が持てるのです。

自己受容

以上のような共同体感覚を得るためには、重要な三つの要素があります。
「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」です。
まずひとつめの自己受容から説明していきます。

前にもあげたように、大切なのは「何が与えられたかではなく、与えられたものをどう使うか」です。
課題の分離にも直結する問題ですが、「変えられるもの」と「変えられないもの」を見極め、変えられないものに無益なエネルギーを使わず、変えられるもののみに集中するということです。
「今はできない自分」という現実を受容し、地に足をつけた上で、可能性に向かうのです。

それには現実を直視する勇気と、それを変えていく勇気が必要です。
それには根拠のない自己肯定や言い訳がましい自己の幻想を捨て、ありのままの自己を受容することです。
自分を無知だと自覚できる者のみが、賢くなろうと努力してゆけるのです。

他者信頼

次に重要なものが、無条件に他者を信じる「他者信頼」です。
例えば、勝ちまくっている投手に対し、「私は彼を信じている」と言う監督は、別に信じているのではなく、当然、次も勝つだろうという計算で登板させているだけのことです。
信じるということは、当然ではなく疑いの可能性が大きい時に、それでも私は彼に賭けるという時に生じるものです。
クレジットの信用貸は別に相手を信じているのではなく、あくまでもトータルとして損の出ない可能性を計算した上で、当然選ぶべき人達を選択しているだけです。
そういう打算や計算抜きに、裏切られることを覚悟で、他者を信じることです。
勿論、無条件に信じるとは質的な問題であって、万人すべてを信じるという量ではありません。
関係を築きたいという他者をどう選ぶかは、私自身の課題です。

なぜそれが必要かというと、他者を信じなければ、残るものは懐疑だけだからです。
他者は疑いのまなざしを直感的に感じ、逆に私のことも信頼してくれないでしょう。
また、懐疑というものは底無しであり、世界のあらゆるものが疑いの徴(しるし)として現れてきます。
恋人の浮気を疑う者は、何でもない行動(例えば、トイレがちょっと長かった)すら浮気の証拠だと感じてしまいます。
つねに裏切りのことだけが頭をめぐり続け、あらゆる事物も他者も敵対的なものとして私を脅かし続けます。
こんな状態では、誰とも関係を築くことはできません。
相手がどんな聖人君子であろうと、疑われてしまうでしょう(地球が丸いことすら疑う人達のように)。

この懐疑を断つには、いずれにせよどこかで「信じる」しかないのです。
「信じる」ことを怖れていれば、人は表面的な部分でしかつながる事ができません。
浅い関係であれば壊れた時の痛みも小さいですが、喜びもまた小さい。
他人を「信じる」ことによってもっと深い関係に踏み込む勇気は、もっと深い所にある人生の喜びの可能性を開いてくれます。
それによって悲しみもまた深くなるでしょうが、それもまた自己受容(現実の直視)でもあるのです。

いつパンクするかと常に怖れながらするサイクリングが楽しいでしょうか。
いつ嫌われるかと怖れながらするデートが楽しいでしょうか。
たった一度のかけがえのない人生です。
疑いながら生き、人生という表層をすべるだけで終わるのは、勿体なくはないでしょうか。

他者貢献

ありのままの自己を受容し、他者を信頼すれば、必然的にそこには「仲間あるいは共同体」という意識が芽生えてきます。
先にも述べたように、共同体という地図に私の居場所を描くことによって、私の中に所属感というものが生まれます。
そこは根こぎにされ漂う不安な世界ではなく、世界への安定した根付きによって与えられる安心の場所です。
自己受容と他者信頼のどちらかが欠ければ、世界は私に敵対し、安心ならざるものとなります。

私の居場所を共同体という地図に描くということは、社会に参画していくということです。
どんな形であれ、それは共同体(他者)への貢献となります。
私が毎日工場で作った電球は、学校のトイレや家の玄関の安全のために貢献します。
他者貢献というのは、自分を捨てて他者に尽くすという自己犠牲的のように、課題の分離のできない非自立的で未熟なものではありません。
あくまでも自分の存在価値の実践を通して、他者に貢献するということです。
どちらかの不幸がもう一方の幸せになるような縦の利益関係ではなく、お互いが対等に貢献しあう横の関係が他者貢献です。

「私は自分のために他者に貢献する」というのが自然な善意です。
見返りのない無償の貢献が本当の善意で、それ以外は偽善だと言う人は、ただ、自分自身が他者を一方通行的な利己利益の道具として見る未熟な「主人-奴隷」の世界観をもっていることを表明しているだけの話です。

三つの円環

これら三つの要素は、円環的に強化されていきます。
あるがままの現実を受け容れる「自己受容」が裏切りへのを恐れを払拭し、「他者信頼」を可能にします。
そして「他者信頼」することによって、共同体の関係の中へ入っていくことができ、仲間への貢献「他者貢献」というものが結実します。
この「他者貢献」が自己能力感へとつながり、より強い自己受容と変化への勇気が湧いてきます。
このサイクルによって、根本目標である「自分の能力を信じ自立すること」および「他者を仲間として信頼し社会と調和し生きること」が達成されます。

一般化の罠

自己受容や他者信頼の問題に関わってくることですが、人を信じる勇気以前に、認識の問題もあります。
人間というものは個別的なものを一般化する傾向にあり、特に神経症的な性向を持つ人においてそれは顕著です。
常に極論であり、「みんな」「いつも」「すべて」という語彙を多用します。

一人の男に騙されれば「男なんてみんな嘘つきだ」、ひとつの不運に当たれば「自分はいつもツイテいない」、意地悪な人間一人に嫌われただけで「私は皆に嫌われている」と嘆きます。
対人関係において一人の問題ある人に嫌な思いをさせられたからといって、全部そうだと決め付けてしまう怖さが人間にはあります。
例えば、一人の男に騙された女性が、男全員をそういう目で見ると、先述の懐疑のように、男性のすべての行為が嘘の徴(しるし)となり、悪循環から抜け出せなくなります。
この一般化は偏見や差別の元凶でもあります。

また、これはそう思ったほうが利得になるという目的論であると同時に、単純に認知のバイアスの問題でもあります。
一般的な事故や事件に巻き込まれる確率は、餅を喉につめて死ぬ確立よりはるかに低いわけですが、私たちは少年犯罪のニュースを見て街の少年に脅えたり、飛行機事故のニュースを見て旅行先を変えたりします。
餅は平気で食べるのに、事故や事件などの嫌な印象は全体化してしまうわけです。
だから、他人が信用できないと嘆く前に、まず自分の認知に偏りがないかどうか反省する必要があります。

(6)へつづく