岸見一郎の『嫌われる勇気』(4)共同体感覚

(3)のつづき

共同体感覚

では、課題の分離というものが目指す、あるいはもたらす社会というのはどういうものでしょうか。
まず、課題の分離によって個々人の責任の所在を明確にすることにより、各々がお互いを責任主体として認め合う関係が生じます。
自由と責任とは同じものの別表現であるため、互いを責任主体として認め合うことは、互いを自由な人間だと認め合う対等な社会と言えます(個性を伴う平等)。
そういう社会的関心を「共同体感覚」と名付け、目的とする社会の指標とします。
これに必要なことは、自己への執着から他者への関心に目を向けさせることであり、そのために課題の分離を行うのです。

ちなみに責任の伴わない自由はありません。
例えば、自己の行為の責任を親が引き受ける子供や、責任能力の認められない精神病患者などは、自由な主体とみなされません。
街で自由に振舞う賊(子分)の行為の責任は親分にあるため、子分はたんなる親分の手足(奴隷)であり、行為主体ではありません。

自己中心的な人たち

課題の分離のできない人は、二種の相対する特徴(利己的と利他的)をもっています。
利己的な人も利他的な人も課題の分離、いわば自己と他者の分離ができておらず、その実両者とも同種の人間であり、自立できない人、自己も他者も持たずに想像上の自己に固執している人と言えます。

利己的な人(いわゆる自己中)は、他者は自己の期待を満たしてくれる存在(自己の課題を代わりに達成してくれる人)だと見ており、非常に他者に依存的に生きています。
自己の課題と対峙することもなく、他者には他者の課題が存在するということも分からず、ただ、膨れ上がった幻想上の自己像で世界を覆いつくしています。
まさにおとぎ話の主人公のように、世界の事物はすべて私の物語のための素材なのです。

利他的な人も、その外観とは裏腹に、非常に強い自己中心性を隠し持っています。
勿論、それは見返り(例えば他人の承認)を求める利他性のことであり、課題の分離によって自他共に自立した者同士の協同関係をいうのではありません。
承認欲求の本質は、他者がどれだけ自分のことを見てくれ、評価してくれるか、いわばどれだけ他者が自分の欲求を満たしてくれるかです。
他者は私の欲求のための道具であり、他者のことを思っているように見せかけながら、その実自分のことにしか関心がないのです。
他者の課題に強引に割り込んで、他者の自立性を根こそぎにしつつ、なおかつ自分自身の課題からは永遠に逃げ続けます。
ここにおいても自己と他者は存在せず、その構造は利己的な人とまったく同じです。

当たり前のはなし、両者とも幻想の理想やありもしない他者像を思い描いているだけですので、必然的にそれは破れます。
それで自分の期待が満たされなかった時、憤慨し、絶望します。
自分の思い通りにいかない他者はすべて敵であり、裏切り者です。
自分の善意に他者が感謝を示されなければ、怒り、悲しみます。
彼らには、最終的に必ず裏切る仲間(他者)しかいないのです。
なぜなら彼らの頭の中には幻想の他者しかいないからです。

課題の分離によって、責任主体を分割することによってしか、自-他の個別性、自立した自己と他者の存在は生じえないのです。

世界の中心

課題の分離とは、いわば相互主観性の理解です。
この私が私という視点から私固有の世界を見ているように、あそこにいる他者も他者の視点から他者特有の世界を見ており、世界の中心は私にあるのではなく、無数の他者の存在の数だけ無数の中心が存在するという認識です。
例えば、三角帽子(円すい)を正面から見る自分にとっては三角形の物体であるそれも、上から見る人には丸に、斜めから見る人にはしずくの形に見えています。
それを理解できない人は、自分の視点から見えるもののみが世界の真の姿だと考え、他者の可能性を抹消します。
しかし、他者がいなければ、その対概念である私も存在できません。
赤色は青や黄色などの他の色が存在しなければ、ただのモノクロ(単色)である様に。
それは、共同体という大地のない場に思い描かれた空中楼閣のたんなる夢想としての自己です。

所属感

共同体感覚によって生ずる社会という土台の上に、個人が具体的な他者とのかかわりの中で自分を規定することによって、所属感やアイデンティティー(自己の同一性と他者との差異性)が生じます。
自分の居場所(所属感)とは、生まれながらに与えられるものではなく、自分自身が主体的に共同体にコミットしていくことにおいて、自らの手で獲得していくものなのです。
具体的に言えば、前項の冒頭で挙げた「人生のタスク」です。

ようするに社会(共同体)という地図の上に、具体的に自分のあり方を描くことによってのみ所属感は生ずるのであり、他者との関わりあいなしに自分の存在を肯定することは、妄想の力でも借りない限り不可能です。

もちろん、共同体感覚といっても、それは閉鎖的なムラ意識ではなく、もっと普遍的なものです。
例えば、定年で会社という共同体から外れた人が、元気をなくし急に老け込むことがよくあります。
しかし、この人は共同体感覚というものを本質的に理解していません。
彼は会社の視点からしか物事を見られない人で、別の視点の可能性というものを排除しており、課題の分離に失敗しています。
家族としての私、趣味人としての私、日本人としての私、人間(地球人)としての私、等、共同体の可能性というものは無限にあるわけです。
会社という共同体をベースにする生活を終えれば、地域社会や人間(地球人)という共同体をベースにし、ボランティア活動を通して自分の居場所を確立することも可能です。
学校や家庭という共同体に居場所を見つけられない若者が、なぜ暴走族集団や新興宗教に属したり、擬似的共同体の体験であるテレビゲームなどに没頭するかは、その辺りの問題です。

共同体(対人関係)の中で自分の居場所がなく、所属感を感じられないからといって、引きこもっって関係そのものを断絶したり、身近に転がっている共同体の誘いに安易に乗るのではなく、もっと大きな視点に立って、様々な共同体の可能性を鳥瞰し、よく検討することです。
学校や家庭や会社にいる暴君的な権力者も、他の共同体の視点から見れば、単なるひとりの人間ですので、同じひとりの人間として対等に接すればよいのです。
勿論それは、あくまでも社会役割の規範を守った上でのはなしです。
上司に敬語を使わないとかではなく、お互い人間として同等であるという自立した姿勢です。
それで関係が壊れるのであれば、そもそも結ぶ必要すらないどうでもいい関係性だったのです。

横の関係性

これらの関係性を構造的に見ればそれは「横の関係性」として記述できます。
課題の分離ができた自立する者同士の関係性では明確に各々が分節されているため、どちらが上だとか下だとかは意味のない軸であり、すべては横の関係性として成立します。
しかし、課題の分離のできない者は自己の境界が曖昧であり、自己を他者の上に拡張したり、他者を自己の上に伸張させたりするためお互いが重なり合い、必然的にその関係は常に上下の関係性になります。

この上下方向の縦の関係性で使われるものが「評価」というツールです。
評価というものは常に、上にいる評価する者が下にいる評価される者を裁くという権力の構造を持ちます。
それは褒め言葉であろうが貶し言葉であろうが同じ事です。
私が誰かを「偉いね」と褒める時、私は相手を見下ろし品定めする立場に立っており、「偉いね」と言いながら同時に「(あなたは私より)偉くない」と暗に示しています。
自己の期待を満たしてくれる人間を「良い」、そうでない人間に「悪い」の評価を下し、自分の期待に沿ったものへと他者を操作するために「評価」が使用されます。

元来、人が人の上に立つという出来事は、他者を管理しより合理的に人間が協同し生産力を上げるために生じたものです。
だから社会役割の上下関係というものが存在しなければ、人間の管理というものが成立しえず、社会は機能しません(例えば親-子供、先生-生徒、上司-部下、キャプテン-部員など)。
しかし、課題の分離のできない非自立的な人間は、社会役割の上下関係の正当性以外の面でも、人間を常に自分の希望をかなえるための操作的な部品や手段として見るため、評価対象としてのみ他者を見ます。
いつも、「あいつは駄目な奴だ、あの人はいい人だ」という良い悪いの縦の価値基準で他者を見、お追従や蔑みや褒め言葉や罵倒によって、他者を操作しようとします。
この縦の構造が先に挙げた「劣等コンプレックス」を無限に生み出す温床となっています。

(5)へつづく