岸見一郎の『嫌われる勇気』(3)課題の分離

(2)のつづき

人生のタスク

では前項で述べた、自分の本当の問題とは何でしょうか。
一般的な心理学者と違い、アドラーは明確に目標となる人間のあり方を提示します。
個人的な行動面として「自立すること」、個人的な心理面として「自分の能力を信じること」。
社会的な行動面として「他者と調和し生きること」、社会的な心理面として「他者を仲間として信頼すること」です。
個として自立しながら、社会と調和し生きる、ということです。

そのために克服すべき課題として、「仕事の対人関係」「交友の対人関係関係」「愛の対人関係」の三つがあり、それらをまとめて「人生のタスク(課題)」と呼びます。
個が社会の中で生きるために乗り越えざるを得ないハードルです。

しかし、人生のタスクと向き合う勇気のない人間は、様々な口実を設けて、それを回避しようとします。
それをアドラーは「人生の嘘」と呼びました。
前項において挙げた、コンプレックスから生じる不健全なプロセスは、すべてこの課題からの逃避と言えます。
ここでもやはり重要なのは、問題と向き合う「勇気」なのです。

課題の分離

では、なぜここまで人生の課題というものが不安で重く苦しいものであるかというと、私のコントロール内にある課題と、私のコントロール外にある他者の課題を混同して、そもそも解決できない(コントロール不能の)課題に取り組んでしまっているからです。
あらゆる人生問題は、他人の課題に私が土足で踏み込んだり、私の課題に他人を踏み込ませたりすることから生ずるものなのです。
何らかの課題があるとき、「これは本質的に誰の課題なのか?」「その課題を解決しようとする行為においてもたらされる結果を最終的に引き受けるのは誰か」を問い、要は誰が責任主体かを明確にすることが重要なのです。

承認欲求の否定

多くの人が求めて止まないのが「承認欲求」です。
マズローのように承認欲求を人生の一段階における重要な課題と見る心理学者もいます。
しかし、承認欲求というものは、他者の課題を私が代わりに引き受けるということです。
他者がこうあって欲しいという状況を、私が代わりに作ることによって、他者は褒めてくれるわけです。

当然、他人の期待を満たすために生きていれば、他人の課題のために自分の課題を放棄せねばならず、私は自分の人生を生きることができません。
他者の評価ばかり気にしていれば、私は他人の人生を生きるピエロになるでしょう。
他者の期待はコロコロ変わり、私にはその過程(連続性)が見えず、非常に不安定です。
また、他者は無数におり、その期待は矛盾し、私はその間で引き裂かれます。
いわば私はコントロール不可能なはずの天気を必死でコントロールしようとするような、非常に苦しく、不毛な努力に、大切な一度きりの人生を消耗していくのです。

逆にいえば、私の期待通りに他者が動いてくれない時、私は自分の課題を他者に押し付けているのです。
「私は他者の期待を満たすために生きているのではない」と同時に、「他者は私の期待を満たすために生きているのではない」のです。
学校や家庭においても、「他者からの評価=私の価値」(裏を返せば「私からの評価=他者の価値」)というような教育が行われるので、自分自身でそれを自覚し、変えていくしかありません。
もちろん、会社のように課題を共有する利益団体などは別です。
それは課題の共有とその達成を約束として賃金と交換する自発的な雇用契約であり、雇い主は従業員に課題や期待の達成を要求するある程度の権利があり、従業員はそれに答えるある程度の義務があります。

具体的には

例えば、私が会社で行う私の課題とは、契約上結んだ会社の課題の達成です。
だからそれに則った会社の代理としての上司の命令(期待)は引き受ける必要がありますが、上司個人の期待に対しては課題の分離をして切り捨てなければなりません。
課題の分離のできていない人間的に未熟な上司は、会社の課題ではなく、自分個人の課題に答えてくれる部下を評価したりします。
会社の課題を的確にこなす成績のいい者より、自分をヨイショしてくれる者や、個人感情で好みのタイプを評価するのです。
しかし、上司に気に入られたいからといって、必要以上の仕事をしたり、仕事に直接関わりのないことに関しての期待に応えてはいけません。
最終的にそれは自分のためにも、他者(上司や会社)のためにもなりません。

自分を生きる

私がなすべきことは、自分の信じる最善の道を選び、自分の課題を引き受け、自分の人生を生きることです。
その選択に対し、他者がどのような評価を下すのかは他者自身の課題であり、私には何の関係もないコントロール外のことです。
他者の視線や評価が気になるのは、私自身が他者の課題であることまで自分の課題だと思い込んでいる無知、あるいは傲慢からくるものです。
他者が洋食と和食のどちらを評価するかなど他者の課題です。
私がそれを気にするのは、私が他者の領分にまで侵入しようとする不躾な行為です。

他者からの承認を求め、他者の課題をこなし、他者の人生を生きる。
主体性のない未熟な日本人にとっては、他人任せに生きること、他人のレールの上で生きることを安楽に感じるかもしれません。
しかし、いくら従順な奴隷も、主人(他者)の顔色を気にし、主人の望みどおりに自分を作り変えることにもやがて限界が訪れ、疲れきり、その不自由が耐え難い苦しみになります。
もちろん、自分の道を自分で選ぶこと(自由)には、責任と不安と困難がともないます。
しかし、根本的にその苦しみの質が異なっています。
他者の人生を生きる苦しみは、山の上に主人の荷物を運ぶ奴隷の苦しみです。
それに対し、自分の人生を生きる苦しみは、登山家が山を登るときに感じる心地よいポジティブな苦しみです。

嫌われる勇気

他者の期待に応えようと思えば、複数いる他者の矛盾した期待に順応しなければならず、それは周囲の人間すべてと自分自身に嘘をつき続ける人生です。
例えば、先輩に嫌われたくないから上司への悪口に付き合い、上司に嫌われたくないから先輩への悪口に付き合い、同時に自分の本心にも嘘をつくことにもなります。
これは従順どころか、非常に自己中心的な生き方です。
すべての他者の課題に手当たり次第に介入する、おせっかいの出たがりオバサンのようなものです。

皆に好かれようとすることは、皆に嘘をつくということです。
人によって仮面を使い分ける役者になることによって、自分は何者でもない空っぽの存在になります。
ここまでくれば分かりますが、自分として生きること、自由な主体として生きることは、同時に他者から嫌われるということです。
それが自由を得るために支払うものであり、自分の人生を生きるということの条件です。
そのために必要なものが、「嫌われる勇気」です。

(4)へつづく