岸見一郎の『嫌われる勇気』(2)劣等感

(1)のつづき

劣等感

アドラー心理学の根幹となるものに、「劣等感」という概念があります。
簡単に説明すると、人間には生得的に生きる力を志向する「力への意志」があり、それは生命の維持に役立つような優越性や成長などを目指すものです。
当然、力のない状態では欠乏感「劣等感」を感じ、何とかしてこの劣等感を埋めようとします。
そしてこの劣等感を成長への刺激として、人間の努力が促進され、より充足した優越性の状態へ移行していきます。
「自分は周りより学力が劣っている。よし、一生懸命勉強して劣等感を克服するぞ」という感じでしょうか。
これがアドラーの描く健全な人間のあり方です。

劣等コンプレックス

しかし、この健全な劣等感解消のプロセスが、何らかの要因によって捻じ曲がり、精神的に不健康なプロセスを生み出す場合、それを「劣等コンプレックス」と呼びます(劣等感と劣等コンプレックスの違いを明確に把握しておかねばなりません)。
ちなみに、コンプレックスとは複合した観念の絡み合いを指す言葉ですが、日本ではアドラーの「劣等コンプレックス」の影響が強く、一般的に「コンプレックス(観念連合)=劣等感」と捉えられてしまっています。

例えば、「私の両親は中卒だから、その遺伝のせいで私は勉強できない」と思えば、自分の無能は両親のせいであり、劣等感を無効にしつつ、勉強もせずにいられて一石二鳥です。
「私の家は貧乏で塾に通えないから、他より成績悪くて当然だ」と思えば、同様に劣等感の穴埋めが可能です。
「昔、テストで一番を取ったら、嫉妬で友達にイジメられた。だからそれがトラウマで、もう勉強ができない」と思えば、自分は本当は優等な悲劇のヒロインでいられます。

こういうものを「見かけの因果律」といい、本当の原因を隠蔽するための口実になっています。
当たり前のはなし、勉強できない直接の原因は勉強しないからであって、ほとんど影響のない瑣末な因果関係を全面に押し出してそれを隠せば、劣等感を生じさせる現状のままに(勉強しないままで)、劣等感を補償することができます。
このような異様な劣等感解消のあり方が「劣等コンプレックス」です。

優越コンプレックス

この劣等コンプレックスの裏返ったものが優越コンプレックスです。
劣等感を補償するために、虚構の優越感で覆い隠すことです。
無能な人間に限って、根拠のない自信を持ち、他者を蔑みます。
中身のないちっぽけな自分を覆い隠すために、自ら大きく見せようと必死になっている人です。
自己の自慢や、他者への蔑みは、劣等感のあらわれです。
実力のあり自信をもっている人は、自慢する必要も他人を蔑む必要もありません。
中には自分の劣等性そのものまで誇る人がいます。
いわゆる不幸自慢です。
不幸であることによって他者と違う特別な者であろうとし、悲劇の主人公のような選民意識をもちます。
自らの不幸を武器にし、他者を支配しようとします。
社会は弱者を大切にすることによって成立する共同体であることを、巧妙に利用するのです。

優越感

先ほど、劣等感と劣等コンプレックスの違いを述べましたが、今度は優越感と優越コンプレックスの違いを考えます。
劣等感というものは健全な欠乏感です。
生命の維持や成長のための刺激のようなものです。
お腹がすいたとか寒いとか眠たいという欠乏の刺激によって、人間は生きることができるように。
優越感というものも、それが満たされた健全な充足感のです。
あくまでそれは私自身の生命や成長の問題です。
それは、テストの点数が悪かったり、解けない問題があって劣等感を感じる時、一生懸命勉強してそれを克服した時の達成(成長)感のようなものです。
あくまでもそれは自分自身のタスクです。
あくまでも以前の自分より早いタイムを目指し、ゴール(自分の理想)のみを見据え前を向くランナーです。

しかし、優越コンプレックス(劣等コンプレックスの一種)というものは自分自身のタスクからの逃避であり、まなざしは他者との関係性に向きます。
いわば自分の価値評価が自分自身から疎外され、他者に篭絡された状態です。
他者より上にいることが優越、下にいることが劣等であり、自分の価値は他者の中にあり、それは常に他人を横目でチラチラ見やりながら走る卑屈なランナーです。
このランナーの自己肯定感は、自分の後ろを振り向いて、自分より遅い者の数を数えることの中にあります。
自分が強くなることではなく、いかに前を走る者を引きずり降ろすかを考え、相手の飲料に下剤を盛ったり、相手の評判を落とす言説を流布したりします。

権力争いが不幸を生む

この競争心による誤った優越感は人を不健全にし、不幸にします。
足の引っ張りあいの競争に終始していれば、自分自身が成長するというタスクはなおざりにされ、自分は弱いままです。
他人は敵であり、仲間と力を合わせ建設的に作業する可能性は潰えます。
日々、対人関係に悩み、裏切りや嘲りや策略を恐れ心休まる時はありません。
勝てば勝つほど、敵が増え、敗者になることへのプレッシャーが増大します。
他人の幸福を自分の劣等ととらえ、他人の不幸を喜ぶ性根が根付き、卑屈な精神は怨恨感情(ルサンチマン)を生み出します。

負けた者は勝者に対し、必ず復讐を画策します。
例えば、犯罪であれ、不登校であれ、自傷行為であれ、その裏の目的として自分を負け犬にした周囲の人々への復讐というものが隠れています。
社会や、学校や、親に対して、「ざまぁ見やがれ、お前らのおかげで俺はこんな風になったんだぜ。お前らのしたことをよーく見ろ、全部無茶苦茶にしてやっから!」というように。
漠然とした社会への怨恨感情が、不特定の人への無差別殺人として爆発したり、多くの人の衆目を集める場所で自殺したりすることなどは、よくある話です。

権力のゲームにのらない

自分のタスクから疎外された人間の多いこの社会の中では、つねに権力争いの競争をけしかけられます。
しかし、それにのってしまえば、もう幸せへの道は閉ざされてしまいます。
優越コンプレックスを持つ人間に、見下されたり、負け犬だ逃げ虫だなど罵倒されたとしても、その挑発に乗ってはいけません。
それは我慢するということでもありません。
我慢するということは、もう競争に囚われはじめている証拠です。

端的にそれはどうでもいいものとして扱えばよいのです。
「自分はハイキングが好きなので、陸上競技はやりません」と言うのと同じです。
どちらが正しいとか、勝ち負けだとか、そんなことを考えていれば、自分の本当の問題が見えなくなってしまいます。

(3)へつづく