岸見一郎の『嫌われる勇気』(1)目的論

自由vs運命

私たちは一般的に、物事には必ず原因と結果があり、過去の原因が今の結果を生むと考えています。
しかし、それは人間が世界の成り立ちを秩序立てて整理し、合理的に把握するための、ひとつの決め事(定義)でしかありません。
円の面積はそのままでは測れないので、無限角の多角形<として>見ることで、計測が可能になります。
それと同様、事物のつながりも原因と結果<として>見ることにより、世界は人間にとって合理的で扱いやすいものとなります。

しかし、人間は「因果として」見る主体そのものであるため、この原因と結果の関係からはみ出してしまいます(私は私を直接見ることができないように)。
例えば、物であれば、原因と結果の法則にしたがい、必然的にその動きが予測可能です。
ある石コロを、この力と角度であの方向に発射すれば(原因)、この位置に落下する(結果)、というように。
それに対し、人間の場合はそこからはみ出すいわゆる「自由意志」というものが存在するため、過去が現在を作る「因果論」に対する、未来が現在を作る「目的論」によって運動(行動)を変えていくことができます。

仮にこの石コロに私が乗って飛んでいたとします(マンガみたいですが)。
私は「沼の真ん中のあの場所に落ちたくない、手前の芝生に落ちたい」という目的を持ち、服を脱いで帆を作って、空気抵抗によって石の軌道を変えて無事芝生に着地します。
これが、未来(目的)が現在を作る「目的論」です。
沼に落ちる因果論の運命を、目的論の自由意志が変えたのです。
おおむね人間の世界というものは、こういう因果論と目的論の絡み合いの中で動いています。

しかし、いつの時代も人間はズボラしたがる生き物です。
面倒な思考を避け、複雑を単純化する省エネ志向で、混沌を嫌い安定を好み、なんでも極論に持っていこうとします。
そして、人間の行動もすべて因果論に支配されていると主張する決定論(運命論)者と、人間はいかなるときも目的論に従う自由な主体だと主張する自由意志論者、の両極に別れ対立します。

本書の著者(共著ですが以後代表して岸見)は後者の自由意志論の立場をとり、それにアドラーのラベルを貼り、論敵としての決定論者側にフロイトやスキナーのラベルを貼り付けます。
そして、アドラーの名で決定論者をやっつけ、自由意志の素晴らしさを延々と語っていきます。

トラウマなんてない

決定論的な心理学の代名詞といえばトラウマの理論です。
人間の現在の行為を決定しているものは、過去のトラウマであり、その過去の苦い経験と対峙し克服することによって、現在の行為を変えていこうという理論です。

しかし、岸見はトラウマなんてないと断言します。
トラウマなどというものは行為決定の原因などではなく、未来の目的のための言い訳や手段として、事後的に要請されたものでしかないのです。
例えば、過去のイジメというトラウマによって、現在ひきこもりをしている人がいた場合、それはトラウマが原因でひきこもりをしているのではありません。
学校で勉強するのが嫌、自立して不安や責任を負いたくない、病気でいると皆が優しくしてくれる、などという様々な目的によって、引きこもりをしている方が利得(いわゆる疾病利得)があるからこそ、過去のトラウマを持ち出して利用しているだけなのです。

基本的に過去や現在の意味づけというものは、未来の目的が決定するものであるため、この考えには十分根拠があります(ハイデガーの項参照)。
しかし、岸見はかなりの程度の過去の経験や、現在の感情すべても、目的のための手段として見る極論の立場をとります(フロイトを決定論のニヒリズムと断罪するあたりも、かなり極端です)。
瞬間的な「怒り」の態度すら、何らかの目的(例えば相手を屈服させる)を達成するための手段として作り出されたものと見ます。
〔ちょっと問題ある箇所なので、最終項でその点考察します〕

不幸は自分で選んだもの

こう考えると、今現在の私の不幸な状況というものは、過去や環境や他者のせいではなく、私自身がそれを目的として選び取っているということになります。
今の私の不幸は外部(原因)から強制されたものではなく、私自身が選び取っているものであるとすれば、私は今まさに幸福を選び取ることも自由にできるということです。
人間は現状与えられているものは変えられません。
私は子供に戻ることも、白人になることも、貯金額を千倍にすることもできませんし、過去に起こした事実も変えられません。
しかし、目的を変更することで、その意味付けを変えることはできます。
原因論で考えると、世界(状況)は私にとって手も足も出ないものとなりますが、目的論で考えると、世界は私の目的にあわせてその様相を変える自在なものとなり、主導権を取り返すことができます。

人間は常に自分にとって善いと思う行為を選択しています。
犯罪者は法を守るより、快楽の方が自分にとって善いと思うから犯罪を犯し、受験勉強を放棄し遊びに行く人は、将来の快より今の刹那的な快の方が善いと思うから選択する訳です。
人間は人生におけるそういう行為選択の中で、不幸であることが自分にとって利得だと判断したからこそ、不幸になったのです。

意志が行為を生み、行為が習慣を生み、習慣が人格を生み、人格が人生を生みます。
そういう意志的な行為の連続の中で、人の人格や、ライフスタイルが生成されます。
私の人格も、ライフスタイル(生き方)も、人生も、すべて自分が選び取ったものなのです。

もし、本当に自分の状況や人格やライフスタイルが嫌なのなら、自分の理想や目的とするものに変えていけばいいだけの話なのです。
それでも変えられないとすれば、あなたは日々の生活において「変わらない」という決断をし続けているということです。
不安や責任を負うより、今のままの方が楽だからです。
希望を持たなければ、絶望せずにすむからです。
可能性のままでおいておけば、現実と向き合わなくてよいからです。

だから、変わるためには新しいことに挑戦する「勇気」が必要なのです。

いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショック(いわゆるトラウマ)に苦しむのではなく、経験の中から目的に適うものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって、自らを決定するのである。そこで、特定の経験を将来の人生のための基礎と考える時、おそらく、何らかの過ちをしているのである。意味は状況によって決定されるのではない。われわれが状況に与える意味によって、自らを決定するのである。(『人生の意味の心理学』アドラー著・岸見一郎訳より)

(2)へつづく