パスカルの『パンセ』(3)気ばらしと逃避

2)のつづき

逃避

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仕事も娯楽もなく、情熱も精神の集中もない完全な休息状態ほど、人間にとって耐えられないものはない。その時人間は、自分の空虚と寄る辺なさと無力に直面し、心の奥から、憂い、絶望、恨み、悲しみ、苦悩がわき出してくる。
129
人間の本性は、活動にある。完全な休息は死である。
169
人間は自己の悲惨が回避されえないものだと知った時、もうそれ(悲惨)については考えずにいることが得策だと思いついた。
139
およそ人間の不幸というものは、退屈が生み出す。満ち足りた有閑人にやる事がなくなり、じっくり考える時間が与えられれば、老いや病気や事故や死や没落、そして自分の存在の無を想像し、怯え不安になる。
そこで孤独の中で考える時間を与えないよう、気晴らしというものが必要になる。賭け事、スポーツ、社交界、戦争といったものが求められる。別にお金が欲しくて賭けをするのでも、獲物が欲しくて狩猟するのでも、彼女が好きで恋をするのでもなく、ましてそれに幸福を感じるためでもない。ただ、考えを逸らせ気をまぎらわせる「せわしさ」を求めているのである。人間が騒がしさや飛びまわることを好み、独房が恐ろしい責苦となるのは、そういう理由からだ。しかし、彼ら自身は、自分達が求めているものが獲物ではなく、狩猟そのものだということを知らない。
自己の悲惨や虚無を垣間見た時に生まれた、気晴らしや熱中を志向するひとつの本能。それとは逆に、静かな安らぎの中にある本質的な幸福を求める本能。しかし、安らぎを成就しても、今度はそれに耐えられなくなり、気晴らしを求める。人間はこれら二つの間を揺れ動いているうちに、人生は終わる。人間はとにかく自分を騙すことが必要なのだ。自分で熱を上げる理由を勝手に作り出し、自分ででっちあげた対象に向かい、自分の欲望や感情を掻き立てる。
143
人は子供の頃から、将来の名誉や財産や人脈を大事にするよう教えられ、様々な仕事と勉強に追われ生きる。何かひとつでも欠ければもう幸福になれないと言い聞かせられ、休む間もない。しかし、時に、「それは人間にとって本当に幸福なことだろうか」と疑問に持つ人がいる。ならば彼らからその仕事を奪ってみればよい。そうすれば彼らには自己の存在の虚無と向き合うという、さらなる不幸が待ち構えているということに気付くだろう。
464
人間は、幸福は自己の外に求めなければならないものだと、直感的に感じている。別に外の対象が情念を煽り立てるわけでもなく、ただ、自己の内の情念によって外へと押し出される。
465
ストア哲学は「自己の内に帰りなさい。そこにこそあなたの本当の安らぎがあるだろう」と言い、世俗の成功者は「外へ出なさい。気晴らしによって幸福になりなさい」と言う。しかし、このどちらも人を病ます事になるだろう。幸福は私たちの外側にも内側にもない。私たちの外側でも内側でもある所にある。
425
人間だれしもが幸福になりたいという願いを持っている。戦争に賛成する人も反対する人も、一生懸命生きようとする人も、首をくくろうとする人も、その目的は変わらない。しかし、金や名誉や権力や時間や快楽や知識や健康や友人など、様々なものを手にいれ、人は幸せになろうとしたが、夢は手にした瞬間夢でなくなり、結局はすべて悲嘆に終わった。逃げ続けるオアシスの蜃気楼を追い続け尽き果てる旅人のように。
人間には幸福を願いながらも、それを果たす力がないという事実は、一体何を示すのだろうか。それは、かつて人間には真実の幸福があったが、今はもうその跡(しるし)しか残っていないという事実である(上記断章409参照)。今あるものからは得られないはずの幸福を、手当たり次第に自分の周りにあるもので代用し、必死に満たそうとする。失った真の幸福の変わりに、様々な奇妙なもの(昆虫、野良猫、元素記号、性体験、金塊、病気、戦争、自殺、等々)を神格化し、人はそこに賭けるのだ。
しかし、勘のいい人は、真の幸福が個人にしか所有できないような個別的なものの中にあるはずはないということに気付く。なぜなら、個別の外に不足が存在している以上、満たされる事はないからだ。真の幸福は減少することも失うこともなく、誰かと取り合うこともなく同時に所有でき、手に入ったとたん更なる欲望が生じるような不完全なものではない。
この自覚から、神にいたる信仰の道が開かれる。
430
これら人間の悲惨を癒す道は、人間の中にはない。哲学者たちは空約束だけして、結局、実現はできなかった。傲慢が神を見る目を曇らせ、欲望が人間を地上に縛りつけた。至福と人間を結びつけるのは、人間の本性によってではなく、悔い改めと恩寵によってである。神はつねに開かれている。心を尽くして求める者には十分な光が与えられ、そうでない者にはただ暗闇がある。

(4)へつづく