ディオゲネスのシニシズム

人生/一般

キュニコス学派

ソクラテスの弟子のうち、有名なプラトンとクセノフォンを除いた一派を小ソクラテス派といい、その中のひとつがキュニコス派です。
キュニコスとは「犬のような人」という意味で、その野良犬のような生き方に由来し、キュニコスの英語cynicから、英語読みで「シニシズム(cynicism)」となります。
ただ、現在一般で使われているシニシズム(冷笑主義)とは語義的に相当ことなっているため、この項では本来的な意味でのシニシズムを扱います。

キュニコス派で最も有名な哲学者が、樽の中に住んだ異様な哲学者シノペのディオゲネスです。
哲学史的な系譜として、キュニコス派というものはソクラテスとストア派を結ぶものとして考えられ、その哲学の内容もソクラテス哲学とストア哲学を足した様なものとなっています。
プラトンがディオゲネスを、「ソクラテス(狂ってはいるが)」と呼ぶ所以です。
残された彼の言動の記録から、その哲学が一体どういうものであるのかを見ていきたいと思います。

 

ミニマリズム

とにかく無駄なものは徹底的に削ぎ落とし、人間の自然な生き方に必要なもののみを所有します。
粗末な二重折りの上衣(寝具にもなる)と大きな頭陀袋ひとつのみが彼の所有物であり(老いると杖も所有)、寝食はあちこちの公共の施設や場で行い、市民に大きな酒樽を贈られてからは、その樽の中で生活しました。
粗食に甘んじ、水を飲んですますよう訓練します。
やわらかいベッドも、明るい部屋も、美食も求めず、自分の置かれた状況に対し自由でありかつ自足したネズミの姿に、普遍的な生のあり方、幸福のあり方へのヒントを見出します(ストア派の言う世界市民-コスモポリタン)。

これはただ貧しいからそうするというのではなく、自ら進んでそういう鍛錬を積むことです。
社会的に成功する能力はいくらでもあったわけですが、貧しさを通して哲学的な真理を実践的に演示することを目的としていたわけです。
例えば、ある日、少年が両手で水をすくって飲んでいるのを目にして、自分の甘さを反省し、頭陀袋のなかからコップを取り出し投げ捨てます。

 

逆説とお道化

ソクラテスの孫弟子にあたるディオゲネスの方法は、かなり師に似たものとなっています。
哲学の場は学校ではなく市場であり、その言説は非常に逆説的でお道化たものです。
逆説によって社会通念や支配的な価値観に対し反省を促すわけですが、同時にお道化ることによって既成の価値観を信奉する者からの迫害を回避します。
この社会通念を無価値とする態度が、現代に使われる「冷笑主義(シニシズム)」という語の意味として転用されます。

以下、彼のお道化た言動を要訳的に挙げてみます。

・彼を豪邸に招待した家主が、ここでは唾を吐かないようにと注意すると、家主に痰を吐き掛け、「他に汚い場所が見付からないので」と答えた。

・性質の悪い男が玄関に「悪人は入るべからず」と書くと、「家主はどうやって入るのだ」と問うた。

・運動は存在しないと言う哲学者の前で、彼は立ち上がり歩き回った。

・プラトンが「人間とは羽のない二足歩行の動物である」と講じると、羽をむしった鶏をひっさげ教室に入り、「これが人間だ」と見せつけた。

・真昼間にランプを灯して、「私は人間を探しているのだ」と言って、人々の中を歩き回った。

・祈願する人に向かって、「自分にとって都合の善いことを願っているのであって、真実に善いことではない」と非難した。

・悪夢に脅える人に対し、「目覚めている時の行動については何も考えないくせに、眠りの中の幻には大騒ぎする」と言った。

・下僕に靴を履かせている主人に対し、「あなたは鼻まで拭ってもらわなければ幸せでないらしい。しかしそれは手足が不自由になった時だろうに」

・逃亡した奴隷を捜索する者に対し、「奴隷は主人なしに生きていけるのに、主人は奴隷なしでは生きられないとは」と言った。

・神殿の役人がコップを盗んだ泥棒を引きたてて行く時、「大泥棒たちがこそ泥を引き立てて行く」と叫んだ。

・彼の著書を借りに来た人間に、「本物の果物ではなく、絵に描かれた果物を選ぶのか」と言った。

・彼を嘲笑する人々に対し、「ロバのいななきなど別に気にしていない」と言った。

・広場で朝食をとっていた彼を「犬」と罵る人々に対し、「私の食べ物に群がる君たちの方が犬みたいだろう」と返した。

・ある遊女の悪ガキが群集に向かって石を投げつけている時、「お前の父親にぶつけないように気をつけなさい」と言った。

・彼への贈り物が褒められた時、「それを受け取るだけの価値のある私のほうは褒めないのかね」と言った。

・「君は哲学をしているくせに何も知らない」と言われると、「たとえ私が知恵あるふりをしているだけだとしても、それもまた哲学なのだ」と答えた。

 

社会批判

これらの言動は、一見ひじょうに意地の悪いものに感じますが、しかし、これはただ彼の理想とする人間のあり方が社会通念と両立しえないものであるため、必然的にそうなるだけです。
よくその言葉の意味するところを吟味すると、事物に疎外され本質を見失った人間のあり様を叱っているのが分かります。
最近流行りのテレビの毒舌タレントのように、常に批判する立場に自己を置いて他人より優位に立ち続けようとする、せこい逆説(自己目的化した逆説)などではありません。
ソクラテス同様、あくまでもフィロソフィア(愛知)へいたる過程としての逆説です。

逆説によって社会の虚構性を暴き、彼の理想とする自然な人間の本性に則った幸福な生というものを、実践を通して提示しようとするのです。

以下、彼の社会批判の言動を要訳的に挙げてみます。

・太陽や月は熱心に見ても足下の事は見過ごす学者、正義について論ずるくせにまったく実行しない弁論家、清貧の善人を賞賛しながら資産家を羨望している俗人、健康を願う儀式で健康を害するほどの馳走を食べる人々、そういうものを彼は非難した。

・役に立たない彫像は銀貨3000枚もするのに、命に関わる一日分の主食が銅貨2枚で買える事を、彼は不思議がっていた。

・神の彫像の前でみっともない姿でひれ伏している女性に対し、「本当の神はいつもあなたの後ろから見ていてくれるのだから、そんなみっともない格好はしないように」と忠告した。

・王の下で贅沢な生活をする果報者を羨む人に対して言った。「あれは不幸な男だよ。昼食も夕食も王の望む時間にしか食べられないのだから」

・自分を悩ませる人達が多くて困ると言う若者に対し、「人の気をそそるような素振りを見せるのをやめることだな」と言った。

・「お世辞とは、蜂蜜で人を窒息させるようなものだ」と言っていた。

・祭事から帰ってきた彼が、群集は大勢いたかと尋ねられて、「群衆は沢山いたが、人間はわずかだった」と答えた。

・アポロンの神殿に赴いて伺いを立てた彼に、神は国で広く通用している制度習慣を変えるよう告げた。彼は自然(ピュシス)に基づく自由のために法-習慣(ノモス)に基づく通貨を改鋳し、追放された。