フーコーの『知への意志(性の歴史)』(2)

(1)のつづき

セクシュアリテの装置

セクシュアリテというのは性的衝動、性的欲望と訳される語です。
それは元々人間に備わっている身体-生物学的なニュアンスのものではなく、告白される性的言説の内的な源泉として措定される概念的な起源を指します。
人間の内にある実在的な性的欲望が性的言説を産むのではなく、性的言説の展開が性的欲望を遡及、事後的に発生させるということです。
そのセクシュアリテを中心としてめぐる権力構造とシステムを、「セクシュアリテの装置」と名付け、とらえます。

一般的に権力というものは法的な力関係としてとらえられます。
それは、規則、排除、検閲、禁止、処罰、統一性、などの特長によって表されるものでした。
規則を立て、禁止し、処罰し、統制する法的権力があり、それに服従し抑圧される主体がいる、というような構造の権力関係です。

しかし、こうした法的な権力の表象というものは、実はもっと本質的な権力関係を偽装するために生じたものであり、権力というものを単純に自由に対する制限ととらえさせておくことが、権力を受容させるための条件として機能していたということです。
この既存の法的な権力の表象ではとらえられない権力のメカニズムを炙り出すことが必要です。

では、セクシュアリテの装置に見られるような、この新しい権力の特徴とは、一体どういうものでしょうか。
この権力は一点ではなく局地的な無数の点(個々人の今此処にある関係)から発生する、不安定で不規則な力関係の網として機能しています。
それは法的権力のように保持したり手放したりできるものではなく、錯綜する個々人の力関係そのものの中に存在するものです(法のみならず、あらゆる社会現象の中に権力は内在しています)。
この権力は支柱としてある上部から下部に対し行使されるようなものではなく、個別的で多様な無数の力関係が下支えして成立しています。
要は権力は下部から来る、ということです。
国家というものはこれら諸権力関係の制度的な統合ともいえます。

だとすれば、権力に対しての抵抗というものは、権力の外部から行うのではなく、内部から変えていくしかないということです。
ひとつの固定した拠点から抵抗するのではなく、不規則に発生する無数の局地的な抵抗の点を、戦略的に結びつけることによって、はじめて革命が可能になります。

死に対しての権利と生に対しての権利

次に、このセクシュアリテの装置というものが現実の政治や経済的状況においてどのように機能してきたかを見ていきます。

君主制に見られるようなかつての権力というものは、人々の身体を自由に拘束し、自由に命を奪うことのできる、死に対しての権利でした。
しかし、近代になると、君主の名ではなく国民の名において人々の身体はソフトに拘束(管理)されることになります。
それは死に対しての権力ではなく、生に対しての権力「生-権力」です。
生命の経営・管理運営を通して、人々を権力の糸で数珠つなぎに拘束し統御するものです。
そのために、人間の生に対する根源的な衝動としてのセクシュアリテというものが活用されます。

主にこの生-権力というものは、人口の調整や身体の規律というものとして現れます。
生命の保護という大義によって、住民の生活を管理し、身体を規律化することです。
住民の健康管理、衛生管理、出産・死亡の管理、および身体の規律、調整、訓育、社会化、などです。

これは資本主義というシステムの成立条件でもあります。
その成立には、人口現象を経済的プロセスにはめ込み、人々の身体を生産機械の部品として組み込む管理体制が必要だったからです。
ここにおいて法はもはや権力そのものではなく、これらのシステムを正常に稼動させるための調整機関(正常化するもの)として機能しているのです。
人々を生-権力によって管理することにおいては、「普通(基準的)であること」が重視されるわけです。

はじめに述べた「抑圧の仮説」は、性を肯定し欲望を解放することが権力からの解放の道であると説くわけですが、それはただ自分達がセクシュアリテ(性欲望)の装置の奴隷であることを声高に宣言しているにすぎません。

おわり