フーコーの『言葉と物』(3)近代のエピステーメー

(2)のつづき

近代のエピステーメー

言葉と物が混在していた中世「類似」のエピステーメー、言葉と物が分離した古典主義時代「表象」のエピステーメーにつづき、分離した言葉と物の間に入り込んできた近代「人間」のエピステーメーです。

この時代において、表象の自立性はもう信じられず、どうして表象が可能となるかの条件として、「人間」というものが現れてきます。
物そのものと表象の間に人間が媒介することによって経験が可能となる、というのが、18世紀末に出版されたカントの『純粋理性批判』の主旨です。
カントの試みは、この「人間」のエピステーメーを土台として成立しています。

前項において挙げた人文社会科学の中心である三つの学問(博物学、一般文法、富の理論)にも、この人間のエピステーメーなるものの要素が入り込み、それらは近代的な学問として刷新されます。
以下、それらのうちの生物学と経済学の成立について見ていきます。

生物学の誕生

生物を分類しタブロー(表)に記述する博物学が、生物学に発展する際に機能したものが「生命(生と死)」の概念です。
それまでは身体の表面に現れている形体的な特徴を観察することによって、自然はカテゴライズされていました。
しかし、生命という概念が導入されると、生と死という基準によって自然は分類されるようになります。
ちなみに生物学という意味でバイオロジー(biology)という言葉が使われ始めたのが19世紀のはじめです。
バイオ、ビオ(bio)とは、生命や有機の意で、今と違い有機物と無機物のカテゴリーが生まれた当初は生命の働きの有無を基準として分けられていました。

これは人間の身体についても同様で、古典主義時代においては身体器官の可視的な(見える)構造をもとに分析されていましたが、「生命」という概念が導入されることによって、身体器官は見ることのできない生命というはたらきを統一的に構成する機能として、分析、カテゴライズされることになります(『臨床医学の誕生』の項を参照)。

キュヴィエ以降、分類の外的な可能性を基礎づけるのは…生命である。秩序の大きな広がりの中にはもはや、〈生きることのできるもの〉という分類はない。分類の可能性は、生命の深層から、まなざしにもっとも遠い場所から訪れる。生物は、かつては自然の分類の一区画だった。しかしいまや分類しただけでは、生物のすべての特徴を明らかにすることはできなくなった。…かくて自然に関する一般的な学問の基盤と基礎としての秩序の探求は消滅する―「自然」が消滅するのである。

経済学の誕生

交換の体系を基盤としていた富の理論を刷新し、近代的な経済学を成立させたのが「労働」の概念です。
アダム・スミスやリカードにみられる人間の生身の労働、限りある生命の時間を消費する具体的な労働です。
商品の価値を決定するのは必要とされた労働量であり、経済を担っていくのは、この限られた有限性(自然資源や時間)の中で必死で生きようとするホモエコノミクス「人間」という概念なのです。

古典主義時代においては、富の価値が市場という交換の表象体系の枠内において決定されていましたが、近代においては、事物と価値の間に人間的な労働の概念が割って入り、それらを媒介します。
物品相互の平面的な関係性によって決定される価値の秩序の中に、人間の時間や労力や生死などの時間と歴史の厚みが生じます。

富に秩序があり、これであれを買うことができ、金が銀の二倍の価値があるとすれば、それはもはや人間の欲望が比較できるからではない。身体をもつ人間が同じ飢えを感じるからでも、人間の心が同じ魅惑のとりこになるからでもない。人間が時間、労力、疲労、さらに究極において、死そのものに支配されているからである。

人間の誕生

古典主義時代において人間は常に観察者の位置にあり、世界はその人間のまなざしによってタブロー(表)にマッピングされた表象の体系でした。
そこで描かれる人間は抽象的な種としての人間であり、生活し生きる人間はいません。
しかし、近代になるとこの平面的な空間が崩れ、観察者であった生身の人間が世界に参入してきます。
近代以降、主役となってくる「人間」というものは、この自己言及的な二重性、観察する者であると同時に観察されるものという構造が生じさせるたんなる概念でしかありません。

ここでいうのはデカルト的な経験的な反省ではなく、カント的な先験的反省です。
デカルト的なコギトは、「私が思う」から即「私は存在する」が導かれ、いわば観察者である人間のまなざしが特権化され、世界(タブローの表象空間)を創造する至高の主体として描かれています。
しかし、カントになると人間の有限性(人間は世界-物そのもの-を認識することなどできない)や、その存在の不安定な二重性(実存主義や現象学を可能にした存在の無の間隙)を主題として考察しはじめます。

18世紀末以前には、「人間」というものは存在しなかったのである。…「人間」こそ、知という造物主がわずか二百年たらず前にみずからの手でこしらえあげた、まったく最近の被造物に過ぎない。

人間の終焉

しかし、この近代的な「人間」のエピステーメーも終わりを迎えようとしています。
現代の構造言語学や精神分析や文化人類学が、人間という概念や主体という幻想の解体を目指すものであり、そこに新たな知の枠組み(エピステーメー)の可能性が予感されています。
近代に発明された「人間」という概念は、やがて「波打ち際の砂に描かれた顔のように消え去る」のでしょう。

この有名な言葉は別に「人間は死んだ」などと吹聴するニヒリズムのキャッチコピーなどではありません。
フーコーが言いたいのは、16世紀に生じたヒューマニズムが暗黒の時代を払拭し人間の歴史を飛躍的に発展させた、という歴史の記述が嘘であり、ヒューマニズムなどというものはそもそも現代に隣接する発明品であり、16世紀から18世紀までは全く問題にされていなかったという事実です。
20世紀人類の野蛮に対し、ヒューマニズムは政治や経済や科学を糾弾することによって変革しようとしたわけですが、実はその人間主義の裏で隠れた前提となり反省されることのない「人間」という概念が、そもそも本質的な問題であるということを提起するのです。