フーコーの『言葉と物』(2)古典主義時代のエピステーメー

哲学/思想

 

(1)のつづき

 

古典主義時代のエピステーメー

古典主義時代のエピステーメーは、同一性と相違性をベースとした比較によって、事物の秩序を形成することです。
類似のエピステーメーは事物が他の事物と連結する入れ子状の立体網空間でしたが、同一性と相違性によって合理的に作られた秩序においては、表のような平面的な空間に理路整然と並べられることになります。
これをフーコーはタブロー(表)の空間と呼びます。

このエピステーメーを解明するに当たって、重要になってくる三つの学問があります。
博物学(近代でいう生物学)、一般文法(近代でいう言語学)、富の学問(近代でいう経済学)です。
これらの学の基本的な前提となっているものが「表象」のエピステーメーです。
事物そのものについての分析ではなく、人間の浮かべる表象や記号を中心にした「タブロー(表)の学」です。
言葉と物が同次元にあった類似のエピステーメーと違い、それらの分離によって生じた表象や記号によって世界を秩序づける表を作っていくということです。

 

博物学

前項で挙げた『蛇と龍の話』のように、類似のエピステーメーにおいて生物を記述するということは、その生き物にまつわる(類似によって関係する)物語を著すことでした。
そこにおいては物と言葉が分離されておらず、物の世界と記号の世界が類似によって互いを示しあい結びつき、観察と伝聞、リアルとファンタジーが混在したものとなっていました。

しかし、古典主義時代の博物学者ヨンストンの『四足獣の博物誌』になると、神話やおとぎ話は排除され、観察に基づく生物学的な記述が中心となります。
言葉と物の分離によって可能となった「表象」のみを忠実に描くことが目的となるのです。
伝聞を記述するのではなく、精細な観察によって得られた表象を蓄集し、まるで標本の陳列室のように、それをタブロー(表)の空間に配することです。

博物学とは観察するまなざしを特権化し、可視的な物に名前を与え、比較分類し、表の中に配置することです。
これによって事物は重箱の桝目に詰められたように、混在することなく、同一性と差異性を獲得し、世界(表)における自分の位置と地位を与えられます。
博物学の目的は、自然の解明というよりも、普遍的なタブロー(表)空間の上に、同一性と差異性の体系にしたがって事物を配置し、世界を秩序づけることです。
ある固体が認識されるのは、この分類表に照らしてはじめて可能になるのであり、同一性とは差異性を前提として存在するものでしかありません。

このタブロー空間において、言葉と物は一対一で対応し、物の秩序は言葉(名前)の秩序に同期するように生じます。
自然という物の存在は、分類表において配されている名前を通してしか存在できない二次的なものに堕ちるのです。

 

一般文法

中世のエピステーメーにおいては、言葉と物が混在していました。
しかし、言葉と物がそれぞれ独立し分離した古典主義の時代になると、言語のみを対象とした学が可能となります。
この言語表現のみを対象とする学が一般文法(言語学の先駆である17世紀仏のポールロワイヤル文法)です。

その内容を大まかに見ると、まず、語とは、同一性と相違性によって世界の事物を明確に区別、分節し、それによって人間の精神に生起することをあますことなく表現するものであることです。
これを生み出す人間の精神作用が、認識すること(名指しによる概念化)と、判断すること(語をつなぐこと)です。
例えば私が「地球は丸い」と言う時、主部である「地球」と述部である「丸い」は共に、世界の事物を分節し名を与えたものです(これが認識)。
そして認識されたその語をつなぐものとして、「~である(英語でいうis)」が存在します(これが判断)。
この判断は認識によってえた語を秩序づける精神固有の作用であり、人間の思考の形式なのです。

まず、世界の事物に名前を与えることによって、事物は認識されます。
その際、その個物に存在(名前)を与えるものが、同一性と差異を基にしたタブローの空間です。
そしてこの語によって組み立てられる表象の空間が、どのようにしてつなぎ合わされ、体系化されているかを解明しようとしたものが、この一般文法と言えます。

 

富の理論

近代的な経済学というものがまだ成立していない古典主義時代においては、経済活動の仕組みを探ることではなく、「富の分析」に焦点が当てられていました。
そしてこの富である貨幣の価値を生み出すものが、交換という機能です。

中性・ルネサンス時代までの貨幣の価値は貨幣そのものに内在していました。
例えば、金貨の価値は金の希少性や有用性や美しさが生じさせるものであり、その金という実在的な価値が交換を媒介する役目をもっていました。
貴金属の美しさは、「あらゆる富の可視的外徴」としてあらわれていたのです。

しかし、古典主義時代になると、貨幣の価値は実在から分離し表象となり、それ自体の有用性に基づき決定されていたはずの価値が、市場における交換というものを通してはじめて決定するものと考えられるようになります。

金が貴重なのはそれが貨幣だからで、その逆ではない。…貨幣はその純然たる記号と機能からその価値を受けとることとなる。…重商主義にとっては、貨幣が、可能なかぎりあらゆる富を表象する力をもち、それを分析し表象する際の普遍的道具であり、富の全領域をくまなく覆っていた…。あらゆる富は〈貨幣〉となることができ、こうしてそれは流通の場におかれる。

貨幣は金という実在を離れ、富を分析するための表象となり、流通と交換という体系の上に設定されたものとなります。
これは金の内在的価値という「類似」のエピステーメーから、「表象」のエピステーメーへ変化したことを告げます。

 

古典主義的エピステーメーの崩壊、サドの欲望

18世紀末にもなると、これらのエピステーメーに変化が生じはじめます。
それを象徴的に表すものがマルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』です。
この書において逆説的に神の存在証明を試みたサドは、世のあらゆる悪徳を博物学的にあげつらい記述していきます。
これらは一見、言語で物を表象し、タブロー空間の一覧表に事物を秩序付ける古典主義時代のエピステーメーに則っているかに思えます。
しかし、その記述の動因は人間という主体の欲望であり、描かれるものも生々しい人間のあり様です。

合理的秩序にしたがって整然と並べられていた標本棚とは違う、能動的な「何か」が入り込んでいます。
それが近代的な「人間」のエピステーメーです。
人間という主体が登場したことによって、表象が自立的に存立し世界を秩序付けていたタブローの空間は崩れはじめます。

 

 

(3)へつづく