バークリーの『人知原理論』序論

哲学/思想

※訳語は主に『人知原理論』宮武昭訳 ちくま学芸文庫 によります。

 

序論(1~25節)

1、人は哲学的に深く思惟すればするほど、困難と矛盾に引きこまれ、懐疑主義におちいる。

2、有限な人間精神で無限な世界を理解しようとすれば、不合理や矛盾におちいることは当然である。人間の能力は実生活の維持のために鍛えられたものであり、事物の内的な本質や構造を知ることは難しい。

3、巷ではこのように人間の能力のせいにする(ジョン・ロックなど)が、神が与えてくれた能力である以上、正しく使えば必ず道は開けるはずである。

4、それらの問題は対象が無限で人間の理解力に欠陥があるからではなく、利用する原理そのものが誤っているために起こるのである。私の目的はそれに代わる人間知性の第一原理を厳密に探究することである。

5、この道は困難であるが、近視眼的に近いものから地道に調べていけば、目のよい先人たちが見落としたものを発見することが出来るかもしれない。

6、目のよい先人たちを誤謬に陥れた元凶は、「精神には事物の抽象的な観念あるいは概念を形成する力がある」という考えである。抽象的観念が精神の中に存在しているという想定である。

7、それはこういう想定である。事物の様々な性質(例えばリンゴなら、赤い、丸い、甘い、重い、など)は、現実には互いに混合しあって存在しており、切り離すことはできない。しかし、人間精神はこの複合したものを単純な構成部分に解体し、それ自体の観念のみを抽出(抽象)することができる。色の抽象観念、空間の抽象観念、味の抽象観念、運動の抽象観念、など。

8、さらに人間精神は、個々のものから抽象された観念(例えばリンゴの赤、レモンの黄、キウイの緑)から、さらにそれらに共通するものを切り離して抽象し、何の色も持たない「色一般」なる極めて抽象的な観念を形成する。何の形も持たない空間一般の観念や、運動の軌跡や速度も持たない運動一般の観念、など。

9、これは人間自体にも適用され、人間の個別的な状況や差異を捨象し、人間の抽象観念(人間本性)を手に入れる。高くも低くもない身長一般や、黒くも白くもない肌の色一般をもつ、得体の知れない人間(一般)の抽象観念。私たちは皆、この人間の抽象観念を等しく分有(プラトン)し、人間たりえる。この人間の複合的な観念から、人間特有のものを除外したものが、動物(一般)の観念である。動物の観念の構成部分は、身体、生命、感官、運動(自発的)などである。

10、確かに私は手の観念や目の観念や熱の観念などを思い描くことができる。しかし、それは全体との結合においてある個別的な部分や性質が、現実においても分離することが可能なものに限る(ホルマリン漬けの身体部位など)。要するに私は手や目や熱さの観念を想像する時、必ず何らかの形や温度を思い描いている。それに対して、先ほど述べた本当の意味での抽象、色も形もない人間の観念や、軌跡も速度もない運動の観念など、そんなものを思い描くことも持つことも不可能である。

11、ロックは一般的観念を生み出す抽象の能力を、人間と動物を分かつ人間の本質と見る。言語の基盤は、観念を一般化できる抽象の能力であり、動物が言語を使用しない所以である。現実のものは全て個物である(全てのリンゴは大きさ、色、形、味、香り、等あり、世界に同じものはひとつも存在しない)にもかかわらず、いかにして一般的名辞「リンゴ」を手に入れるのか。ロックはこう答える。「言語が一般的になるのは、一般的観念を表示する記号とみなされるからである」。しかし、先ほど述べたように、味も形も色もないリンゴの一般的観念など持ちようがない。そうではなく、言葉が一般的でありうるのは、ある言葉が無差別にすべての個別的観念を表示する記号とみなされるからである。リンゴ一般とは、大きさも形も持たない得体の知れない観念などではなく、それはすべての個別的なリンゴ(私が今までに見た、あるいは想像可能な全ての個別的なリンゴ)を示す観念である。

12、このように、一般的観念とは非常に具体的なものであり、私が否定するのは抽象的な一般的観念である。それ自体では個別的な観念が、一般的になりうるのは、それが同じ種類の他の個別的観念の全てを代理(代表)するからである。例えば、わたしが円の一般的観念を、直径20cmほどで紙や頭の中に描いたとしても、それは直径20cmという個別性をもちながら、同時に他の個別的な全ての円を代理して示しているのである。

13、読者は一度、ロックの言うような抽象的な一般的観念を心の中にもてるかどうか試して欲しい。「斜角でも直角でもなく、等辺でも二等辺でも不等辺でもなく、これらの全てであると同時にこれらのどれでもない」、三角形の一般的観念。

14、ロックは抽象観念形成の困難さや労苦を語るが、普通の人々や子どもが会話や普通名詞を使う時などにおいて、いちいち精神の中に抽象的で一般的な観念を形成するという高度な知的操作をしているとは考えにくい。

15、一般的観念とは、ロックのいうように抽象化(何らかの事物のそれだけ切り離された絶対的な本性)によって形成されるものではない。先ほど述べたように、一般性とは、そうした個別的な事物によって、代理として表示される諸々の個物と取り結ぶ関係にあるのであり、だからこそ事物や名前や概念は、それ自身においては個別的でありながら、かつ一般的にもなる。

16、三角形一般の観念を形成する時、私たちは個別的な三角形からわざわざ抽象化の作業によって三角形の本質(三角形の定理)などを取り出しているわけではない。私たちは人間の個別的なものを無視し、人間を動物の一種として見ることができるように、個別的な三角形「直角-二等辺-三角形」の個別的な特徴「直角-二等辺-」を無視し、ただの「三角形」と見ることが普通にできる。

17、この「抽象的で一般的な観念の原理」が、哲学を不毛な論争とおびただしい誤謬に陥れた。実質的な利益も努力も実らないその不確実性の中で、人は学問に対する絶望と軽蔑、無力感をもつこととなる。

18、抽象の原理の根拠となっているのが、言語の構造である。人は言語や一般的記号というものがなければ、そもそも抽象などというものは考えつかなかっただろう。彼らの言語観というものはこうである。名前というものは、他から隔離され固定したひとつのものだけを表示する。だから普通名詞というものは、あれやこれやの個別的なものを同時に表示することができないため、何らかの抽象的で確定した観念が存在し、これのみを表示している。要するに普通名詞は抽象観念を媒介として、個別的な事物すべてを表示することができる。「三角形」という名前は、三角形の抽象観念を通して、個別的な三角形を示すということである。しかし、これについては第16節で述べたように、そんな媒介物などなく、普通名詞はすべての個別的観念を無差別に表示する。

19、名前は何らかの観念を表示するものであるにもかかわらず、思い浮かべられるはずの個別的観念をいつも表示しているわけではない。だから名前は抽象的観念を代表していると、彼らは結論付ける。しかし、当たり前に考えて、名前が観念を表示するからといって、使用の度に当の観念を知性の中に引き起こす必要はない。

20、人はある名前や言葉を知覚した時、精神の中に情念が湧き起こる。最初のうちはこの言葉が引き起こした観念によって、ある感情が生じるのかもしれない。しかし、言葉が繰り返し使用され、いったん馴染みのものになると、その語の音声や文字に接しただけで、観念など介さずに、じかに情念が湧いてくる。たとえば「危ない」という警告によって即時恐怖の感情が引き起こされるが、その瞬間わたしは個別的な害悪の観念や、危険の抽象観念を作り出しているわけではない。普通名詞であれ固有名詞であれ、私たちはその語の使用によって常にその観念を見て取るように意図して使用しているのではない。

21、以上、抽象的観念というものがそもそも不可能であり、また彼らが目的とするものに対しても、その原理が何の役にも立たないことを見てきた。

22、抽象的観念の巧妙な罠から抜け出すために、ありのままの裸の姿の観念を見つめなければならない。それにはただ、私自身の知性の中で実際に生じていることに注意深く目を配ればよい。

23、先にも述べたように彼らの陥った罠とは、「言葉の本質的な使い道は観念を表示することにあり、どの普通名詞も確定した抽象的な観念を直接に表示するもの」という考えである。

24、この考えの誤りに気付き、人間は個別的な観念しかもっていないという事を知り、名前はつねに観念を代表するわけではないという事を知れば、ありもしない観念を探すという徒労から解放されるだろう。

25、以下、本論では、私の言葉を自分自身で考えるきっかけとして利用し、私の思考の流れを読者の中で実際に再現しながら精査して読んで欲しい。

 

本論へつづく