スティーブン・コヴィーの『七つの習慣』(3)

(2)のつづき

第二の習慣、終りを思うことからはじめる

何かものを作ろうとするとき、完成のイメージをしっかり持っていなければ、良いものは作れません。
プロの料理人は完成形のイメージをしっかり描いた上で料理を作るので、その動きに迷いなく、流れるような行為の連鎖で美味しい料理という完成へ導きます。
しかし、下手な素人は、ろくに完成のイメージも練らずに場当たり的に作ってしまうため、非常に不味い料理になります。
野菜を炒めはじめてから味付けを考え、ぐずぐず調味料を迷っているうちに野菜炒めはふにゃふにゃのおひたしのようになり、味のイメージも持たずに迷いながらあれやこれやの調味料を入れていくうちに、ドブ川のような見た目と味の煮物が完成します。

人生という旅も同様に、終着点(目的地)を常に意識しながら地図によって全体を見据え、着実に前へ進むことによって良いものになります。
もし、目的地を意識せず地図も持たずに、場当たり的に前へ進めば、ただ右往左往するだけで、結局どこへもたどり着くことは出来ません。
いま、わたしは目的地へ向かって前へ進んでいると思い込んでいても、むしろ目的地から遠ざかっていたりします。

人生における終着点、私の人生の全体をまとめる締めくくりが何かといえば、それは私の「死」です。
私が死ぬ時、私の人生の物語が完結します。
私が死に際して私の物語を振り返った時、それはどんなものであって欲しいでしょうか。
また、周囲の人々に私の物語をどう語りたいでしょうか。
その「こうでありたい私の物語(人生)」が私にとって私の理想であり、人生の本質的な目的です。
私は私の終わり「死」を意識することによって、そこにいたる全体を鳥瞰的に見ることができ、人生の地図が思い描けるのです。

そういう地図を持たない人の人生は、目的は場当たり的で一時的な感情や他人に依存し流される刹那的なものとなり、あっちへ行ったりこっちへ行ったり結局どこにもたどり着くことなく、私は私固有の一回きりの人生を空しく終えてしまいます。
私は死ぬ間際に自分の人生を振り返って、なんて無駄なことばかりに時間を使い、終わったのかと後悔するのみです。
例えば、人は多くの場合、大きな病を患ったりして自分の死を意識した時、ようやく本当の自分の人生をかけがえのない一回限りのものと自覚し、日々を真剣に生きはじめます。
今までいかにどうでもいいものに振り回され、本当の自分の目的を自覚せずに生きてきたかに気付かされることによって、そこから本当の人生がはじまります。
あるがん患者の言うように、それまで生きた何十年より、余命宣告を受けた後の一年の方が、はるかに有意義で本当の人生であったと。

私はこうでありたいという人生の最後を思い描き、そのビジョンを日々の行為決定の尺度にして、今日の生き方、明日の生き方、来週の生き方、来月の生き方を計画していくことによって、私にとって本当に大切なものにのみ焦点を当て生きることができます。
自分にとって本当に大切なものを知り、そのイメージをもちながら日々を生きれば、私たちの人生は驚くほど新鮮なものになります。
金、娯楽、物欲、仕事、名誉、異性、家族、国家、友人、敵対心、プライド、等々、いまの私が目先の目的としているそれらのものは、私のたった一度きりのかけがえのない人生においてどれほどの価値を持つものなのか、最後を思い描くことからはじめて考え直す必要があります。
自分の限られた人生を自覚した時、虚栄心や敵対心や嫉妬や責任の擦り付け合いなど、私たちが振り回される日常のネガティブな些事がいかに虚しいものであるかを知り、自己の内面にあるもっと深い価値観に触れることが出来ます。
自分の人生にとって本当に大切なことは何であり、本当にやりたいことや、こうありたいという理想を思うとき、人は非常に純粋で生産的になります。

人間の社会においてあるものは、基本的に二度つくられます。
一度目は、理念や理想において創られる、いわゆる設計図の段階。
二度目は、それを現実において作っていく、いわゆる製作の段階です。
建築のような莫大な費用のかかる製作物においてはほんの些細なロスも大きな損失につながるため、第一の創造である建築計画が徹底的に練られます。
料理のようなものならいざしらず、私の人生そのものは家の建築などよりもっと重要なもののはずです。
なのに、多くの人はこの第一の創造をほとんど無視しながら、自分の人生を作っています。
そういう人は自分の人生の設計図を持たないため、それを他人に借り受け、親や学校や会社に与えられた脚本(物語)どうりに演技をするだけの仮面の人生を送ることになります。
本当の自分を抑圧し(というより気付けず)、ただ他者のプレッシャーに反応するだけのロボットのような生き方です。
そして、この「一度目の創造をする」習慣こそが、本項の第二の習慣の本質です。

前項の第一の習慣「主体性を持つ」とは「創造主であれ」ということであり、それを基盤にしてはじめて、「自分の人生の脚本は自分で書くことができる」のです。
ビジネスに即して言えば、一度目の創造がリーダーシップであり、二度目のものがマネジメントです。
リーダーシップは目標にフォーカスし、何を達成したいかを考え、正しさの判断をします。
マネジメントはその目標や理念を達成するための手段を考え、体系を作ります(これについては第三の習慣で述べます)。

市場がめまぐるしく変化するビジネスの世界では、主体的で強力なリーダーシップによって正しい方向へ舵を取り、目的を定めなければなりません。
リーダーシップのないマネジメントは、漕ぎ手は優秀だが航路を読む船長のいない船のようなもので、難破は必至です。
あまりにも多くの人が、マネジメントの視点のみに囚われ、リーダーシップを忘れています。
目的や方向性も定めないで、能率や効率を追求するという空中楼閣を築き、後になって崩れてから嘆くのです。

終わりを意識し、自分の本当の価値観を自覚し一日をはじめれば、どんな困難や問題にぶつかっても、うろたえることなく、流されることなく、主体的で誠実なブレない人生を作っていくことができます。
それはスポーツや演奏などのパフォーマンスにおけるイメージトレーニングにも似ています。
完成形という終わりを思い描き、そこへ到る筋書きを反復的にイメージすることによって、現実のパフォーマンスの中で迷いのない平常心で理想の結果を生み出すことが出来ます。
「思考は現実化する」わけです。

しかし、どれだけ立派な理念や理想や目的を持ったとしても、それを具体的な形で明文化しなければ、何の力にもなりません。
例えば、国を創る際に民主主義という理念を掲げた場合、憲法のような形でそれを明確にすることによって、はじめて具体的なアクションが可能になります。
それと同じように、私たちは自分の理念を立てれば、つぎにそれを原則のような形で具体的に描く必要があります。
この自分を律する心の憲法のようなものを「ミッションステートメント」と呼びます。
分かりやすく言えば会社に貼ってある社訓のようなもので、ミッション(使命)を具体的な行動方針としてステートメント(声明書)にする、ということです。

内面に軸になるものを持っていなければ、人は変化に耐えられません。
自分の自己同一性や行動の指針となる支えがあれば、変化に適応しながらも自己を見失うことがありません。
現代において多くの人は、その時代の変化の速さについていけず、ただ流されるがままに自己を諦めています。
死の先駆によって自分にとっての人生の意味を見出し、そのミッション(使命)を成文憲法のようなステートメントとして自分の中に定めることで、自分の世界における立場を確固としたものとし、自分の行為の有効性をそれに照らして判断することが出来ます。
この憲法によって、自己のビジョンと価値観を明確に表現し、人生におけるあらゆる事物を測る基準になります。

生きる意味というものは常に自分の中にあります。
それを自己の外部(直接的にコントロールできないもの)に求めることは、主体(自分)というものの責任を放棄し、それを他者に擦りつける逃避であり、実は探すフリをしながら自己と向き合うことから逃げ続けているのです。
「究極的に、我々が人生の意味を問うのではなく、我々自身が人生に問われているのだと理解すべきである。~すべての人は人生に問われている。自分の人生に答えることで答えを見出し、人生の責任を引き受けることで責任を果たすことしかできない」(V・E・フランクル)

(4)へつづく