スティーブン・コヴィーの『七つの習慣』(2)

(1)のつづき

第一の習慣、主体的である

人間の本質というものは、デカルトの「我思うゆえに我あり」という言葉に代表される自己反省(自覚)の能力です。
動物やそれに近い幼児などの場合その能力を持たないため、刺激とその反応が直結しており、ある環境因を与えられれば自動的にそれに従った行動が出力されるという、決定論的な世界の中にいます。
しかし、自覚の能力を持った人間には、刺激と反応の間に「選択の自由(意志)」というものが介在します。

例えば、大切にしていた犬が死ぬという刺激が与えられると、子どもは自動的に泣きます。
しかし、大人の場合そこに自己反省(自覚)が介入し、「大の大人が泣くなんて社会人として恥ずかしい」「悲しんでいれば周りのみんなの気分も落ち込ませる」などというように、自分の意志によって、泣かないという選択が可能になります。
この自覚によって行為選択をしていくというあり方が「主体的」であるということです。
条件反射的な衝動を抑え、意志に従って主体的に行動を制御していきます。

逆に、環境による条件付けに行動が支配される人は「反応的」であり、その感情や行動は自分の意志ではなく、環境や他者に隷属します。
褒められれば快活になり、貶されれば殻の中に閉じこもり、感情も行動も他者の出方次第でコロコロ変わり、自分でコントロールすることが出来ません。

「あなたの許可なく、誰もあなたを傷付ける事は出来ない(ルーズベルト夫人)」
「自分から捨てさえしなければ、誰も私の自尊心を奪うことはできない(ガンジー)」
これらの名言は、主体性と意志の自由を表現したものです。
私たちは一般に、辛い出来事(環境)のせいで傷付いていると思っています。
しかし、実際は、私自身がその出来事を容認するという選択をしたことによって傷付けているのです。
私がバカと他人に言われて傷付く時、傷付けているのはその言葉を容認する私自身なのです。
私への批判や罵倒が客観的な正当性を持つかどうかの自覚的な吟味もなしに、ただ反応的に受け容れる隷属的な生き方(姿勢)です。
私にとってはごくごく普通の役所のお姉さんの事務的な態度に傷付いて自殺する人もいれば、私なら辛くて死にたくなるような境遇にあってもポジティブに生きている人もいます。
私の感情や行動を決定するのは状況そのものではなく、それに対する私自身の自覚的な選択なのです。

主体的な人間は、与えられた状況に対する反応を選択できるだけでなく、状況そのものを作り、変えていくことができます。
状況を変えるためには、私とそれを取り巻く環境を鳥瞰的に把握し、他者の立場に立って物を見るという、反省(自覚)の能力が必須です。
反対に、環境による条件付けと行為が直結した反応的な人間は、環境から自分を引き剥がすことができないため、永遠に状況の奴隷なのです。
ため息、舌打ち、愚痴、陰口、私たちの周囲で見かけるこれらのものは、自分で状況を変えていけない反応的な人間の無力さ「思い通りに行かない」から出るものであり、「思い通りに行く」ようにしたければ、反応的な人間を卒業し、自覚的にならなければならないのです。

そうやって反応的な人間は決定論的な思考枠組(パラダイム)でものを見るため、いつも環境のせいにし、自分の行為決定の責任を負わず、誰かになすり付けます。
「私は生まれつきそういう人間なんだ」→私は悪くない、親や遺伝のせいだ。
「マジであいつは頭にくる奴だ」→自分の心や感情は、私ではなく他人が作る。
「あの人がもっと優秀なら・・・」→自分の状況は他人の状況に依存している。
「・・・しなければならない」→私の行為決定は、状況や他者に強要されている。
等々、反応的な人間の言葉は常に被害者意識の意味合いを持ち、それは自分の泣き声に苛立ってさらに泣く子どもの感情のように徐々に増幅し、コントロール不能なものとなります。

主体的な人間と反応的な人間では、そもそも関心を向ける対象が違います。
主体的な人間は、自分が影響を及ぼせる物事に働きかけ、徐々にその範囲を広げていきます。
逆に反応的な人間は、他者の行動や環境の問題などの、自己が直接コントロールできないものに対して関心を向け無駄な労力を消費するため、むしろ自分自身の力を弱め、自己の及ぼせる影響の範囲が狭まっていきます。
親が、学校内での子どもの待遇という自分にはコントロール不能なものに対してやきもきして無駄な時間を使うくらいなら、その時間を自分のコントロール内の家庭の教育にあて、子どもが学校でイジメにあったり落ちこぼれたりしないよう、人格や学力の向上に力を注ぐべきなのです。

まとめると、
1、直接的にコントロールできる問題(自分の行動に関する問題)
2、間接的にコントロールできる問題(他人の行動や環境に関する問題)
3、コントロールできない問題(動かすことの出来ないもの)

1、に関しては習慣を改めれば解決でき、それは本書第1・第2・第3の習慣で扱う「私的成功」の問題です。
2、に関しては、影響を及ぼす方法を考え実行することによって解決できます。
本書第4・第5・第6の習慣で扱う「公的成功」の問題です。
3、に関しては、変えることのできないもの(過去の出来事や自分の死など)を、ただその事実において受け容れ、その問題に対する態度を改めることが出来るだけです。
自分の死に面して、日々を真剣に生きるという態度で接し充実させることもできれば、毎日びくびく恐れながら無駄に過ごすという態度もとれます。

私は主体的に行動を選択できても、その結果に関しては選択できず、それは私のコントロール外のものであることを認識し、受け容れるしかありません。
私が良かれと思って決断した行動が、むしろ悪い結果をもたらした時、確かにその結果そのものに関しては私の影響力が及ばないにしても、その結果に対してどういう態度や姿勢をとるかの選択に関しては自由です。
過去の失敗を次の成功を導くためのステップやデータとしてポジティブにとらえ先へ進むか、その失敗を見てみぬフリをして嘘で取り繕ったり、前へ進むプレッシャーや努力から逃げるための言い訳にしたりして、ネガティブな鬱血状態を生み出すことも出来ます。

また、私の行動によって得られる現実の結果が予測不能だとしても、私がその行動を選択したことによって、私という人間が今後どういう人格としてあるかという結果は予測できます。
例えば、嘘をついて大きな商談を成立させるという行動をとった時、それがばれて降格するか、ばれずに出世するかは分からず、それはコントロール外のものです。
しかし、その選択によって、私は不誠実という人格を必然的に作り上げます。
行動が習慣に、習慣が人格に、人格が人生に成るように、私は行為選択の度に、自分の人生を主体的に作っていっているのです。

(3)へつづく