ニーチェの系譜学

真理と歴史の正統性

普通、事物には正しい起源(はじまり・出自)や本質(何であるか・本性)が存在し、それを理性により探究するのが学問の使命であり、そこで発見されるものが真理であると考えられています。
あらゆる事物が私たちの前に現れる姿は、起源や本質という光源から一方通行的にやってくるという直線的な連続性のモデルです。
まさにプラトンにはじまる西洋思想の根幹ともいえる考え方です。
この起源を持つ直線的な歴史というものが、非常に厄介なもので、そのありもしない時間の重みが、ある観念を当然、自明のものとし、動かしがたい真理とします。

歴史を解毒する

しかし、ニーチェはこれを真っ向から批判し、系譜学なるものを提示します。
系譜学と言っても、歴史学のような「正しい起源(真理・本質)」への問いではなく、そういう「真理」や「本質」などというものがいかにして捏造され、同時にその捏造の経緯を隠蔽してきたかという、詐術の歴史(系譜)を暴くことです。
虚構された歴史の重みがなかば自動的に私たちの思考と行動を支配するなら、それを対抗的に打ち消すように、いま現在からその自明なるものの由来をたどり、発生の現場をとらえることで、歴史を解毒することです。

真理の暴力性

ニーチェにとって正しい真理など存在せず、それは人間同士の力のぶつかり合い、対立と闘争の帰結として生ずるものでしかありません。
俗っぽく言えば、「正しい者が勝つのではなく、勝った者が正しくなる」ということです。
闘争を通して、勝者にとって有利な価値体系が真理として採用され、その恣意性や暴力性は周到に隠蔽されます。
それはまるで有史以来からあった自明の起源、正統な歴史であるかのように書き換えられることになります。

生存闘争としての真理

このように、力と真理というものは、ハイフンでつながれており(真理-力)、「真理への意志」というものは「力への意志」の姿を変えた同じものでしかないわけです。
人が生きよう成長しようと力を求める動物である限り、真理への意志も尽きることはありません。
「真理」とは闘争相手を打ち負かし、支配するための知的な武器であり、強者はこの武器によって弱者の支配を恒常化し(イデオロギー)、弱者も虎視眈々とこの武器によって逆転(価値転倒)を狙っています。
真理とはこういう力動的な場で生ずる動的なものであり、決して客観的でスタティックなものなどではありません。
ニーチェの系譜学は、この暴力的で生々しい真理発生の現場を描くことを目的とします。

客観的な視点(神)の不在

それは神のような鳥瞰図的な視点(誰のものでもない)から描かれる全的で客観的な歴史ではなく、実際的な歴史を描くことです。
当たり前の話、歴史は必ず誰かの視点から描かれています。
歴史の教科書問題のように、国ごと、宗教ごと、人種ごと、政党ごとに、描かれる歴史がそれぞれ違うわけで、みな自分こそが正しい(真理である)ことを主張します。
しかし、実際的には、ここで行われていることは真理の主張ではなく、力の誇示です。
自己の力を拡張するために、我こそが真理である事を相手に受け容れさせ、優位に立とうとする試みです。

真理を語る主体の分析

形而上学的な視点が「真理とは何か」を問うのに対し、ニーチェは「真理を語る者が誰か」を問います。
ただ与えられた真-偽や善-悪などの価値判断そのものの正否を分析しているだけでは意味がありません。
真理を語る者の分析を通して、真理なるものの発生の現場を取り押さえ、その恣意性と虚構を暴露し、その隠れた前提となっているもっと根本的なものを明るみに出さねばなりません。
真理というものは政治学的な人間間の権力闘争のゲームの中でしか生じえない概念であり、決してアリストテレス的な純学問的な観想の中にあるのではありません。

真理の政治性

これこそ、ニーチェの名言としてよく知られる「真理とはある種族が生きるために必要とする誤謬」です。
例えば私が挽回不能の貧困状態にあるとき、その惨めさから自死を望むようなネガティブな感情を一掃し生きるためには、自分の立場を肯定し価値あるものとする「清貧」という概念を真理として採用せざるを得ません。
「欲はなく貧しいことは美しく、強欲で金持ちであることは醜い」、というような価値体系です。
そうやって人は自分にとって都合のよい(利益や生の維持に役立つ)価値観を真理として採用しかつ主張し、各々の立場によって変わる都合(価値観)同士の対立として真理の押し付け合いのゲームがはじまるわけです。

我こそが真理と主張する哲学同士の対立はいわば真理(利権)の陣取りゲームであり、それを批判する批判哲学は、その主張せる主体の裏に隠れた政治・経済・生物学的な生々しい社会関係性を暴きださねばなりません。
必然的にそれら哲学は「真理の政治学」という様相を帯びてきます。

人は真理なしには生きられない

人は生きる上で「真理」なるものをどうしても信じざるを得ません。
その人が人として生きる価値体系を支える「真理」を失えば、人は生物学的(身体の維持)にも精神医学的(自己同一性の維持)にも死んでしまいます。
永い歴史において、多くの人々が「(自分にとっての)真理」を守るために、自分の命を賭けてきました。
真理とは、人を生かす力、駆り立てる力であり、同時に騙す力です。
リアルな社会の権力関係において「真理」は最も重要な戦略的機能をもつものとなっています。

系譜学という新たな武器

ニーチェが『道徳の系譜』や『善悪の彼岸』で行ったことは、真理の名の下にキリスト教によって奪われた、ディオニソス的な価値体系を奪還することです。
もちろん奪還するそれは、ただニーチェにとって都合のよい(利益になる)真理でしかありません。
重要なことはディオニソス的な価値の礼賛などではなく、キリスト教の欺瞞を暴露する時に使用した、「系譜学」という分析の方法です。

ニーチェのキリスト教批判を読み、手を叩いて喜ぶ者は、別の真理の詐術に引っかかっているだけの愚者にすぎないのです。
ニーチェが描くキリスト教倫理の発生の現場を「正しい起源」ととらえるなら、系譜学は正当なる真理と歴史の欺瞞に堕ちることになります。
系譜学はあくまで、真理(や正統な歴史)という武器によって他者を支配しようとする者に対抗するための、新たな武器でしかありません。