キルケゴールの『死にいたる病』(2)

(1)のつづき

意識的な絶望の諸形態(諸段階)

先述では二項間関係の統合についての絶望の記述でしたが、これはその関係項に関係するところの自己意識の統合を主題とした絶望の記述です。
その意識の強さによって絶望の形態も段階的に変わります。

第一段階、絶望であることを知らない(意識していない)絶望

人間は自己および永遠なるものを持っているということについての絶望的な無知をさします。
前項の「自己の分析」で挙げたハイデガーの堕落した世間人とほぼ同じです。
一般に最もよくあるタイプなのですが、その能天気な生き方とは裏腹に、絶望の度合いは最も強くあります。
自分が無知であると知った時に人は勉強をはじめるわけですが、自分が無知であるということにすら気付けない場合、改善の余地はありません。
それと同じ意味で、絶望しているということにすら気付いていない、絶望的な絶望という二重の絶望なのです。

第二段階、絶望であることを知って(意識して)いる絶望

本来的自己や永遠なるものの存在を意識してはいるが、それを実現できないでいることに対して起こる絶望です。
これにはさらに二つの段階(弱気、強気)があります。

その1「弱気の絶望」~絶望して自己自身であろうと欲しない鬱的な絶望

a.地上的なもの(時間的なもの)についての絶望。
絶望知らずの無邪気な人間が、運命のいたずらによって何らかの世俗的な不幸をこうむった時、その境遇を絶望的なものと考えることになります。
自己の境遇を呪い、絶望と向き合うことなく、彼は常に被害者であり、救済は他人と成り行き任せです。
しかし、絶望的なのはその境遇なのではなく、自己の永遠的なものを無視し、時間的で地上的な世俗のものに囚われているという在り方そのものが、絶望なのです。
それに気付かず、地上的な境遇の自己から逃れようと、地上的なものの中であがく絶望です。

b.永遠的なものについての絶望。
絶望に対する意識が強くなり、永遠的なものの存在に気付きはじめる段階です。
地上的なものを超えた永遠的なものの観点を知った時、世俗的な環境のせいにしていた先の絶望的な自己は、むしろそれが自分の弱さによるものであったことを認識します。
世俗の環境に向けられていた矛先は反転し、今度は自己の弱さについて絶望することになります。
宇宙の無限に比して、吹けば飛ぶよな一片の雑草であるという実存的不安の認識です。
絶望の原因は地上的なものとの関係性ではなく、自己自身と永遠的なるものとの関係性にあると知り、境遇の不運ではなく、弱き自己を憎むことになります。
そしてその弱い自分に諦め、その無気力に閉じこもり、絶望を住処とします。
しかし、内面に閉じこもる一見謙虚に見えるこの自己は、実は次の段階「強気」へいたるためにエネルギーを鬱血させ溜め込んでいる、隠れた傲慢のサナギの状態なのです。

その2「強気の絶望」~絶望して自己自身であろうと欲する躁的な絶望

これは絶望の意識の最も強い形態であり、構造としては、先ほどの弱き自己がすべてひっくり返ったような形になります。
永遠なるものや本来的な自己に恋焦がれながらも、断絶された絶望は、ストーカー心理のような愛憎の反転によって、先ほどの態度とは180度変わります。
永遠なるものに対し徹底的に反抗し、弱き自己を憎悪しつつも悲惨なまま強引に自己自身であろうと欲します。
悲惨な自分を証拠とし、永遠なるものや存在全体に抗議するため、苦悩の内においてあらねばならないのです。
永遠なるものを肯定し癒されることは、反抗と抗議を存在理由とする絶望的な自己においては堕落であると頑なに信じ拒絶しているため、永遠なるものへの道は閉ざされてしまいます。
「嫌だ、俺(苦悩と絶望)は抹消されることを欲しない。~俺はお前(存在全体)を反証するための証人として、ここにたち続けるのだ!」(引用)、と。

罪としての絶望

これら「絶望」というものが神の前という規定において意識される時、それは「罪」に転化します。
キリスト教の教えでは、アダムとイブの堕罪のために、後の人間はすべて生まれながらに罪を背負って生きており、その罪は神の信仰によってのみ許されます。
これは今まで述べてきた人間の絶望の定式と似た関係にあります。
人間は本質的に絶望している存在であり、二項関係の総合というシーソーのような不安定な人間存在のために、その基準(拠り所)を与えてくれる外部の永遠なる他者を知ることによって、その絶望は治療されるのでした。
これを言い換えれば、自己が自己自身に関係し、自己自身になろうとする時、神の意志に従い体現しようとすることです。
不安定な世界の中で、自己の隠れた存在条件である他者の存在を無視し、自分勝手に自己のあり方を決定しようとするサルトル(無神論的実存主義)的な人間観は、この永遠なる他者(神)を失った絶望的な人間の姿なのです。

しかし、だからといってこの絶望が悪いものだというわけではありません。
絶望は、人間の本質である自己決定する意志(自由)を別の面から見たものであり、自己の存在条件であるからです。
また、人間が孤独と不安、絶望の中にあるからこそ、他者を求める力と機会が生ずるのであり、絶望は希望へといたるための唯一の道なのです。

私はもともと神との正しい関係にあって、永遠のいのちを享受していた。罪によって神から離反してしまって、今ではこうして自己として時間的な生を生きている。神はなおこの私を愛してくださっていて、その救いが私に向けられているという。私は、その救いにふさわしく生きれば、永遠のいのちと尽きない喜びを得ることができるだろう。でも、もしその救いをないがしろにしてしまうなら、果てしない苦しみを味わう羽目になる。だから、私は、どうしてもこの自分に向けられているはずの神の意志を探し求め、それに忠実に、自己として生きなくてはならない。(鈴木祐丞訳)