キルケゴールの『死にいたる病』(1)

本書のねらい

日常を無反省に生きる人々にその絶望の状態を気付かせ、キリスト者への目覚め(希望)をうながすために書かれたものです。
本書の下巻として構想された『キリスト教の修練』につなげるための準備として、徹底的な現状把握をおこないます。
死にいたる病とは、当然、肉体の死ではなく精神の死、神から隔てられた絶望のことです。
しかし、これが非常にすぐれた人間の分析であるため、この哲学的部分を主題にした実存哲学という潮流を生み出すことになります。

人間の分析

キルケゴールにとって人間(生物学的意味ではなく精神的な)とは、二つの対立するものの間の関係性(弁証法的な総合)であるといいます。
古くは、人間は霊(心)と肉(身体)の二項間の総合関係であるとされたように。
少し分かりにくいですが、私たちは普段の生活においてもこれと同様な視点で人間を見ています。
理想と現実、思考と感情、能動と受動、調和と混沌、など、人間は対立する二つの要素を同時に持ちながらそれらを統合し、バランスをとりながら生きています。
これらの統合のあり方で、その人の人格の本質(何であるか)が決定しています。

例えば、ドラえもんのキャラクターに上述の対立要素を順にあてはめれば、出来杉君は「現実、思考、中間、調和」、ジャイアンは「理想、感情、能動、混沌」、のび太君は「中間、感情、受動、中間」のバランスで自己を統合しています。
キルケゴールにおける人間の規定においては、「無限性-有限性」「可能性-必然性」「永遠的なもの-時間的もの」の三つが主題として扱われます。

自己の分析

しかし、これではふつうの生物一般とあまり変わらず、人間の規定としては不十分です。
例えば構造主義的に見れば、猫や犬でも概念でも、どんなものでも対立する二つのものの弁証法的な総合関係として規定できるからです。
そうではなく、人間の本質として最も重要なことは、これらの二項間の関係性そのものを、反省的に意識できる(関われる、関係できる)ということです。
哲学の面倒な言い回しだと、「自己とは自己自身に関係するところの関係(岩波訳)」となります。

事物や動物と違い、二項間の関係性を反省的に意識し関われるという事は、その総合のあり方を、自らの態度決定によって変えていけるということです。
これが人間の本来的な生き方であり、「自己」をもった人間の在り方です。
自己自身のあり様に対して無関心(無反省)に生きる時、人間は非本来的で、「自己」を失った、世間一般に埋もれた何者でもない物に堕するという考えは、そのままハイデガーに受け継がれます。

絶望の定式

しかし、またここでも面倒な問題が起こります。
例えば、動物のように、二項間の関係性を反省的に変えることのできない存在であれば、それはもともと調和も不協和もない、自己充足的なたんなる必然物(いわゆる即自存在)です。
しかし、人間が自己自身に対し反省的に関わり、二項関係の総合のあり方を変えていけるということは、物や動物のようにその総合の調和の根拠を自分の内に自然に持っていないということになります。
いわば本能や本質によって生き方(行為選択の基準)を与えられた動物や物と違って、人間は生き方や在り方というものを先天的に与えられてはいません。
だから、その不安定な自己は、それを外部(他者)に求めなければならなくなります。

それは、自己の根拠をつねに探し求める不安(いわゆる実存的不安)にさらされるという事でもあります。
この調和を失った不安定な二項関係の状態が「絶望」の定式です。
これが人間の本質的な構造であるなら、人間は常に絶望しているということであり、それは絶対的な他者(神)を信仰しない限り免れることのできないものです。

では、二項間の調和が崩れた不均衡が生み出す絶望とは、具体的にどういうものなのでしょうか。

絶望の諸形態(関係項のみを主題とした場合の)

・無限性の絶望(有限性を失った関係)~自己の有限性を忘却し、空想的な飛躍によって人間を無限なものへと連れ出し、遠ざかるにつれ自己は希薄となり、自己自身へ帰ることを不可能にします。自己の有限性という現実を把握せず、夢を求め無限に飛翔しようとする蝋の翼のイカロスのように。

・有限性の絶望(無限性を失った関係)~これは無限性を失い、有限性という限定の牢獄に閉じ込められた自己の絶望状態です。先述の大地(有限性)を失った夢の中での飛翔に対し、これは逆に有限性そのものにへばりつき、その限定そのものに呑み込まれ自己を失う状態です。例えば、子どもの頃にもった夢を、世間のために諦め自己を去勢し、世間に埋没するように自己を限定し、出る杭にならぬことによって世間と一体化し、むしろそれを存在価値とするような在り方です。

・可能性の絶望(必然性の欠如)~ほぼ無限性の絶望と構図は同じです。必然性を失った自己の可能性が無限に膨張し何者でもないほどに希釈され、抽象化された可能性の領野にさまよい、自己自身へ帰ることができなくなった状態です。

・必然性の絶望(可能性の欠如)~いっさいが必然となった決定論的な状態です。先述において自己が蒸発によって失われたのとは逆に、今度は凝結によって自己を失います。可能性を失った必然の因果の車輪の中で、自己は物と一緒に回転し続け、そのどうにもならない現実の業の中でくじけ、絶望します。

(2)へつづく