スピノザの『エチカ(倫理学)』(4)倫理

哲学/思想

 

(3)のつづき

 

他者とつながるその倫理

一般的な倫理では、受動感情や欲望を理性によって無きものにし解決しようとするわけですが、そもそもそんなことは元から無理なのです。
人間は常に環境の中で生きその影響を受ける受動的立場にあり、かつ、生きようとする力(コナトゥス)は生来の本質的なものだからです。
人間が自然に持つそれらの感情を無理に押さえ込むのではなく、理性の認識と導きによって、人間の生存維持と成長にとってより有益で能動的な状態へとベクトルを向け変えることが重要なのです。

「各人が自分を愛し、真に有用なものを求め、自分の生存維持に努め、自分の成長を求める」ことが人間の最善の生だなどと言えば、その一見エゴイズムに見える道徳観を既存の倫理は批判するでしょう。
しかし、それは「想像知」の観点でものを見ているから起こる問題です。
前項で述べたように、理性的認識とは関係性の網(必然)をベースとして世界を観ることです。
逆に「想像知」とは、関係性の網を無視して、自分勝手に世界を解釈し独占的な世界を所有することです。
エゴイズムの本質とは、この「想像知」の排他性であって、けっして自己を維持し生きようとする欲望にあるのではありません。

自己の維持や成長のために邪魔な他者を抹殺しようとするのは、想像知の非常に効率の悪い有益性です。
理性的な認識によって関係性を把握すれば、邪魔に見える他者は有益であるだけでなく、実は自己の生存条件ですらあるということが見えてきます。
想像知の求めている有益性は「偽」の有用性でしかなく、重要なことは理性による関係性の把握によって「真」の有用性を求めることなのです。
想像知の迷妄がホッブス的な万人闘争の生存競争の世界を生み出すのであって、理性的に世界を見れば「人間にとって人間ほど有益なものはない」のです。

例えば、木の枝にリンゴがひとつ生っているが人間は二人いる場合、私は他者を殺して独り占めすれば最も益を得られると考えます。
関係性を見ることのできない「想像知」は、この程度の有益性しか生み出せないのです。
しかし、私と他者とリンゴの樹の関係性を理性的にきっちり把握すれば、二人で肩車してもっと高いところに生っている実を沢山とってお互い腹いっぱい食べることも出来ます。
エゴイズムの問題は、真の有益性を把握できていないその認識の問題であるのです。

想像知と受動感情に駆られた人間は、お互いの共通の基盤を理性的に認識しないがゆえに、反発しあい、争いあいます。
本当の自己とは、理性によって共通の地盤(互いをつなぐ必然性の網)を認識し、自他を包摂する世界における自分の立ち位置を把握することによって生ずるものです。
共通の地盤なき自己とは、地盤を持たない空中楼閣のような想像知の夢想(エゴイズム)にすぎません。

 

真の自由

世界の必然性を知れば知るほど、人間の自由の余地がなくなっていくと、一般的には思われています。
しかし、ここで言われる「自由」とはたんなる想像知の産物であり、その真意は「必然性を知らない無知」と同義でしかありません。
RPGゲームのプログラムによって既定されている選択を、自分の自由意志だと勘違いしている子供のようなものです。
それは受動感情に支配された駆り立てられるような生き方であり、自分がどれだけ自由な自己の幻想を立てようとも、外的事物の奴隷でしかありません。
精神分析において患者自身が過去の因果関係(必然)を認識することによって、現在の強迫的な行為に駆られる受動的な生き方を止められるように、必然性の認識は人間に自由を与えます。
受動感情からの自由を得るにしたがって精神は能動的になり、私は関係性の網目の中に私を主体的につなぎ留め、世界の中における私の居場所(個性と自己同一性)を確立します。
いわば、それは必然を引き受けることです。
人間は必然を引き受けることによってのみ、自由であれるのです。

しかし、どう考えても私は自分の意志によって、今パソコンで記事を書き、コーヒーを飲んでいます。
この強固な実感が自由意志の源泉になっているわけですが、その実感は簡単な方法で崩せます。
単純にその行為を自由意志によって止めてみればいいのです。
私は自分の自由意志でパソコンをやっていると思っていましたが、いざ、今日からパソコンを止めようとしても、そう簡単に止められません。
コーヒーも、オヤツも、ハミガキも、ベッドに落ちている毛を拾い捨てることも、日常の行為の大半が、自由意志によって止めようとしても止めきれず、やりたくなってうずうずしてしまいます。
私は必然に駆り立てられてやっていた行為を、自分の意志でやっていると思い込んでいただけなのです。
必然性の認識は、私にこの偽の自由という偶像への崇拝を止めさせ、真の自由へと道を開いてくれます。
それは受動感情から解き放たれた、ある種の平安の中で世界を観る立場です。

例えば、私の自転車のタイヤを誰かが自由意志によってパンクさせれば、私は怒りという受動感情に支配され、心が落ち着きません。
しかし、それがゴムの経年劣化による必然的な自然パンクであれば、私は淡々と修理に出すだけです。
仮にこれが悪意による意図的なパンクだったとしても、犯人をその行為に駆り立てた行動心理学的な必然を私が完璧に知っていれば、学者のように淡々としているでしょう。
テレビで外国人タレントが縁者に「オマエ、バカ」と言っても笑って流せるのは、その語彙選択の失敗の必然性(彼は日本語をまだよく分かっていない)を理性的に理解しているからです。
理性による酌量をせずに想像知にまかせて、これを自由意志による悪意ある罵倒ととらえれば、縁者は怒りという受動感情に支配されるでしょう。

これは人間の本質である自由意志を否定し、人間を物と同じように扱う観点だと既存のヒューマニズムは批判するでしょうが、スピノザにとっては、人間も物も同じ神のあらわれであって、汎神論的に等価物です。
彼にとって人間と物の違いは、自由意志の有無にあるのではなく、私を動かす必然を理性的に認識できる精神の特異な構造にあるのです。

スピノザにとって自由とは、主体が自由に意志選択決定できるということではなく(それは単なる無知)、感情を明瞭にしそれを十全に認識することによって、操り人形のような精神の受動性を、能動的なものに変えることです。
自分の意志によって、授業をサボって屋上でタバコを吸うという事が自由なのではありません。
なぜ私は授業をサボり禁止されたタバコを吸うという行為決定をするのかの必然性(例えば、裏返った承認欲求、不良映画の主人公との自己同一、など)を認識することによって、受動感情の操り人形としてではなく、理性と能動感情の中で活動力(コナトゥス)を発揮していくことです。

何度も言うように、必然が自由と対立するというのは想像知の幻想です。
必然に対する無知=必然を知らない=必然でない、だから私は自由だ、という勘違いです。
どんな概念も反対のものを通過していなければ、本当のものではありません。
例えば、怖じ気を知らない勇気は、たんなる無知(怖いもの知らず)です。
それは殺人鬼に笑顔で向かっていく幼児のようなものです。
怖いということを十分知っていて、なおかつそれでも前へ出るのが真の勇気です。
それと同様、必然を知らない自由はたんなる無知であり、真の自由は必然を認識した後に生ずるものなのです。

 

栄光(グロリア)と至福

理性によって多くの必然の認識を得れば得るほど、その活動の中で人は自由の感覚をいだき、逆に必然の認識なき活動においては隷属を感じます。
自分の強い意志によって何かを目指し生きる自由な人は、常にその行為の必然性を認識しています。
必然性を知っているということは、理由を知っているということです。
それと同時に、社会(世界)の関係性の網目の中における自分の位置(存在価値・存在理由)を知る者です。
なぜ私はこの行いを為すのかという理由を知る者は、主体性と自由と能動と活動力(喜び)の感覚の中で生きる強い人(fortitudo)です。
「私が医者を目指すのは、幼い頃生死をさまよった難病の経験がそうさせる」という時、彼はその因果的必然性を認識しつつ、同時に自由・主体・能動の感覚を伴って活動しています。
逆に私にとって何の理由(必然性)もないまま、受動的に勉強させられる人間には、けっして自由の感覚は与えられません。

必然を知れば知るほど、人は永遠の相における自身の在り様を認識し、安心と自由、自己の存在証明を与えられ、魂の平安としての「(聖書のいう)栄光-グロリア」の中で至福の時を迎えます。