相対主義とは何か(3)

(2)のつづき

真実は勝ち取るしかない

では、世間で言う「真実」とは何かと訊かれれば、相対主義者ニーチェのお約束の言葉を借りるしかありません。
「真理とはその種族にとって最も利益になる解釈でしかない」ということです。
基本的には、その状況において最も強い者にとって最も都合の良い解釈が、真理として採用される訳です。
声の大きい者、数の多い者、金のある者、社会的地位の高い者、プレゼンやレトリックの巧みな者、等々。

例えば、力のあるジャイアンがのび太を「バカ」だと言えば、その解釈が真理として採用されてしまいます。
傍から見れば、ジャイアンやスネオの方が、はるかにバカだとしても。
しかし、いかにのび太が心の中で「それはジャイアンの解釈だ、真実の僕はバカじゃない」と考えたとしても、それものび太自身のたんなる解釈でしかありません。
もし、その自己の解釈を真実にしたいのであれば、のび太は現実においてジャイアンより力を持ち、自分の解釈を真実として採用させるしかありません。
例えば、頑張って都内一の進学校に行って社会的地位で上回るとか、ケンカ最強になって力関係で上回る、などです。

誰もが皆、相対主義的にものを見られれば、自己の解釈も他者の解釈も平等に尊重する平和な世界になりそうなものですが、社会には自己の解釈を絶対的な真実にしたがる人間があまりにも多すぎるため、それは実現不可能なユートピアでしかありません。
だから、大変面倒なのですが、そういう社会の中では相手と闘ってその勝手な解釈の押し付けを修正していくしか方法がないのです。
「お前はバカだ」程度の解釈なら流せますが、「ユダヤ人は好色で金に汚い野心家だから殲滅せよ!」という解釈に対して黙っていれば、生命に危険が及びます。

相対主義は危険だという誤解

そういう面で、相対主義は戦国時代のような生存闘争のパワーゲームになって危険だとよく言われますが、それは勘違いです。
そもそも自分の利益に都合の良い解釈が「真理」なのであり、それを相対的にしようというのが相対主義な訳ですから、本当の相対主義においては、自分のエゴ(自己利益)も他人のエゴ(他者利益)も、平等にフラットな価値付けになるはずです。

だから、「相対主義においては、勝った者が正義になり、力あるものが真理になるのだから、争いの絶えない世界になる」というのは矛盾しています。
こういう争いを起こす輩は、たんに他人の意見は都合よくすべて相対化するが、自分の意見はこっそり相対化せずに隠し持つセコイ奴なのです。
もしこの輩が自分の意見も相対化していれば、そもそも争いを起こして自分の解釈を真理にしようなどとしないはずです。

それはニーチェにおいても同様です。
彼は実は相対主義者などではありません。
自分の周囲はすべて徹底的に相対化するわけですが、自分の足場だけはちゃっかり残しておくしたたかな戦略家だからです。
自己の愛するディオニソス的世界に都合の悪いものを一切合切まとめて葬り去るために、相対主義者のフリをしているだけなのです。

そういう意味で、自分の足場まで崩して徹底的に相対化する本当の相対主義者は、争いとは無縁の仏教的な悟りに近い静かな平安の中にいます。
余分な自己利益だとか縄張り争い(自我の拡張)だとか、そんなことには無関心なのです。
あくまでも「君は君、僕は僕」です。
しかし、「君が僕を殺してまで君を拡張しようとするなら、僕は剣をとって君と闘う。なぜなら、僕と君の利益の価値は相対的に等価だから、限度を超えてそれを許すことは出来ない」のです。
ここが相対主義が宗教的な諦念と違い、あくまでもひとつの積極的な主義(イズム)である所以です。
もし宗教者なら、君が僕を殺しに来たとき、僕は微笑してそれを受け容れる可能性があるからです。

エセ相対主義にご注意

一般に相対主義と言われるものは、相対主義の皮をかぶった絶対主義であったり、外観は相対主義に似た虚無主義であることが多いので、注意が必要です。
相対主義というのは、「価値は相対的だから、お互い限度を超えない程度に自由にやりましょうよ」という世界観、ひとつの主義(イズム)です。
もし、「価値は相対的だから、俺は何をやってもいい」というニーチェ的発想をもつなら、それは相対主義の皮をかぶった絶対主義です。
もし、「価値は相対的だから、何をやっても意味が無い」というなら、それは絶対主義の理念に希望を持ちながらも現実の相対性に打ちのめされて絶望している虚無主義です。
虚無主義とは落武者化した絶対主義の敗残兵です。