創作におけるオリジナルとは何か(2)

(1)のつづき

作品の内の構造

もし、素材というものがすべてコピーだとするなら、先ず浮かぶのがその素材の選択と、どうそれを組み合わせるかという構成などの内にある隠れた構造の問題です。
例えば、映画学校の課題などで、皆に同じ映像を素材として与え、それを編集する(好きな場所を切り取り好きなように組み替える)ことによって自分独自の映像作品にする、というものがあります。
与えられる素材は同じでも、その素材の選択と組み合わせ方次第で、千差万別の個性的な作品世界と、そこに意味の多様性が生まれるわけです。
素材が他の作家からのコピーであっても、その作家独自の素材の選択パターンや、構成の方法が、その作家にオリジナリティーを与えるということです。

構造すらコピー

しかし、この構造というものも、実はコピーで成り立っています。
たとえば、時代劇の『水戸黄門』と『遠山の金さん』はほぼ同じ構成をしています。
構成を同じままに素材さえ代替物で交換すれば(例えば「印籠」⇔「桜の刺青」)、別の物語に見えるわけです。
昔話の『鶴の恩返し』の構成をそのままに、素材を交換すれば、『浦島太郎』になります(レヴィ=ストロースの項参照)。
有名なエヴァンゲリオンというアニメの構造は、ウルトラマンの構造のコピーです。
「馬」+「鳥」=「ペガサス」の時と同様に、他者の作品の構造を切ったり貼ったりすることで、自己の作品の構造は作られています。

この構造の組み合わせのパターンが独創的な作家は、そのジャンルにひとつの革命をもたらし、その後その作品の亜種を次々と生み出すことになります。
例えば、黒澤映画の内にある独自の構造が時代劇に革命をもたらし、その構造はそのままにして素材のみを入れ替えた劣化したコピーが氾濫します。
エドガー・アラン・ポーは、推理ものやミステリーなどの数々の新しい構造を生み出した革命家で、いまだ多くの作家はその構造をコピーし、素材を入れ替えただけのものを量産しています。

もちろんこれも前項と同じように、黒澤が独自で、黒澤映画の亜種がコピーということではなく、たんに鑑賞者が黒澤映画の構造の元ネタを知らないだけです。
黒澤映画の構造も、多くの場合、古典文学からのコピーです。

勿論、すぐれた作家と凡庸な作家のコピーでは、大きな差が出ます。
すぐれた作家というものは、あくまでもコピーの元ネタを自分の内部にまで取り込み、なかば無意識的にその素材や構造の切り貼り作業を行います。
なのでそこには非常に統一感のある作家独自の同一性のようなものがあらわれており、仮にコピーであったとしても違和感なく鑑賞者に受け入れられます。
しかし、凡庸な作家は自己の内にまで素材(元ネタ)を取り込み消化するという作業をへないままに、表面的かつ意識的にコピーするため統一感がなく、まるで取って付けたようなチグハグさと、いかがわしさが目に付きます。
土産物屋にあるキャラクター商品のような、あのチープな安っぽい感じです。
そういうギクシャクとした不統一のキッチュな感じを「今風」だとして、意図的に表面的なコピーをすることによって利用する作家もいますが。

どちらにせよ、外見もコピーした素材の切り貼りのコラージュ、そのコラージュを支える内側の構造すらまたコピーの切り貼りだとするなら、創作作品のオリジナリティーというものは作品そのものの中にあるのではないことになります。

作品の本質はその額縁にある

作品のオリジナリティーの本質は、実はその外部をとりまく背景の中にあるのです。
例えば、老舗の菓子屋とらやの作品である羊羹の本質は、そのこだわりの素材や製法や配合にあるのではなく、「とらや」と書かれたその箱書きにあるのです。
室町時代から培ってきた日本社会という文脈(コンテクスト)の中での自己の位置付けの努力が、その羊羹のオリジナルを保証するのであって、作品である羊羹そのものは目的ではなくむしろ手段に過ぎません。
とらやの羊羹と同じような内容のものは、きっといつかのどこかの和菓子屋が作っていたことでしょう。
しかし、それがとらやオリジナルの羊羹だと認識されるのは、作品の背景である社会の中でその地位を確立するための努力をしているからです。

広い世界、無限に続く時間の中で、私の創作作品と同じようなものを、きっといつかのどこかで誰かが作っていたはずです。
作品内容が似たようなものであれば、その誰かが作った作品と私の作品を分けるものは、その作品が置かれる背景のみです。
だから作家の作家たる所以は、いつ、どこで、どのようにして、その作品を位置づけるかという、コンテクスト(文脈・背景)に対しての応答力にあるのです。

作家とはイノベーターである

あらゆる分野で革命を起こした天才に対してよく出る批判に、「彼より以前に別の作家がそれを発明していた。彼はそれを取り上げ普及させた宣教師にすぎない」というものがあります。
ニュートンも、エジソンも、フロイトも、アインシュタインも、ピカソも、単なる宣伝屋であって先行する無名の発明家のコピーだというわけです。
しかし、それは本質を見誤っています。
その分野で革命を起こす天才とは、すでにあった考えや発想を、適切な時期と適切な場所と適切な方法で、いわば適切なコンテクストにおいて位置付け、ある種のイノベーションを起こし、歴史を動かす先鋭的な感性を持った者です。
その革命があったからこそ、先行する無名の発明家などという者にも脚光があたるのであって、もしその革命がなければ、その先行者は永久に無名のままです。

そもそもオリジナルがコピーを生むのではなく、コピーが遡及的にその対概念であるオリジナルを生むのです。
コピーという存在がなければ、オリジナルはたんなるアノニマスな何かでしかありません。
例えば、ダリやブルトンのシュールレアリズムの革命があったからこそ、その祖としてロートレアモンが逆照射されるのであって、先行するロートレアモンがシュールレアリズムの曙光であるわけではありません。
現代美術やコンセプチュアルアートなど、とうの昔からあった発想です。
しかしその昔からあった発想を、現代というコンテクストにおいてコピーし、まるで起業家のようにイノベーションを起こし、今までいなかった需要者(鑑賞者)を爆発的に増加させることに成功した革命家が、マルセル・デュシャンなのです。

本当の天才は同時代にいる

「天才は時代に先行するから死んでから脚光を浴びる」などとよく言いますが、それは彼が時代に先行するからではなく、たんに彼の発想が時代にあっていなかっただけの話です。
後世の人間が、アクチュアルなその時代というコンテクストにおいて最も有効な発想を過去のデータにおいて探した時、その「死んだ天才」なる者が発見されるのです。
だから、もしそうやって後世の人間に頼ることのない自立した本当の天才であれば、デュシャンやピカソのように、同時代に生きたまま天才の脚光を浴びるはずです。

私という人間のアイデンティティーやオリジナリティーが、あくまでも他者との関係の中で生ずる社会的な関係概念であるように、作品のアイデンティティーやオリジナリティーもそのコンテクスト抜きに考えることなど決して出来ません。
「自分は孤高の天才だから、同時代人には認められない」と言って、人里はなれた山奥で作品を黙々と作り続けても、結局それは自己の作品の可能性を後世の他者に丸投げする、孤高どころかまるで依存的な生き方です。
孤高の天才の私が生んだアイデアや作品など、広い世界、永い歴史において、誰かが既に同じようなものを作っているのであり、結局、残るものは自己満足だけです。
私が私の作品に対してアイデンティティーとオリジナリティーを付与したいのであれば、時代の感性の中でリアルに生き、そのコンテクストが何を希求しているかを察知し、それに対し作家としての応答という責務をまっとうすることによって、それを獲得するしかないのです。
現代美術家の村上隆は、これを極端にまで突き詰めて(ほとんど戯画的に)やってしまったため、ステレオタイプの孤高の芸術家というものに幻想を抱く人々に非常に嫌われるわけです。

簡単にまとめてしまえば、私の作った作品など、所詮過去の作品の切り貼りのコピペでしかありません。
重要なことは、それをどういうコンテクストに置くかということによって、それに新しい意味づけを与えることです。
そのコンテクストの中の位置と地位が、私の作品のオリジナリティーを生み出し、それを保証するのです。
さらにいえば、それを起爆剤としてその分野にイノベーションを起こす人が天才作家なのです。