「科学的に労働する」(1)仕事

科学的であるとはどういうことか

他人の思考や行動を批判する時によく「科学的でない」という言葉が使われます。
これは概ね二通りの意味で使われます。
第一に、思考が抽象的に飛躍しすぎており、現実的でないと言う意味。
第二に、まともに思考せずに場当たり的に動いており、論理的でないと言う意味。
では、これらの欠点を共に克服している科学的なものとは、一体どういうものを指しているのでしょうか。

それは近代科学のはじまりともいわれる、フランシス・ベーコンの思想の中にあります。
彼は古代ギリシャの論理学の方法であった帰納と演繹を、現実把握に適用し、科学の基礎を打ち立てました。
分かりやすくいえば、仮説と実験の積み重ねによって、着実に自然に対する知識を進歩させる方法です。
仮説とは抽象的に「考える」ことであって、実験とはその仮説に基づいて現実的に「動く」ことです。
仮説が抽象的といってもあくまでそれは現実に基づいた実験(行動の)結果を土台に組み立てられています。
実験によってその仮説が反証されれば、それは打ち捨てられ、実証されれば、その仮説の上にさらに仮説を積み上げ、科学は着実に進歩していきます。
このように、科学にとって本質的なことは、思考と行動が両の足のようになって、お互いを必要不可欠のものとしながら、歩いていることです。
もし、思考と行動、抽象と現実のどちらか一方がおざなりになれば、それはもう科学的でないわけです。
それらは抽象的な思弁のファンタジーか、考えなき行動の気まぐれの遊戯になってしまいます。

この科学の方法論というのは、物事をより合理的に扱うために行う行為全般に応用が利くため、これを私たちの日常の雑務や仕事に利用することによって、飛躍的にその作業効率を上げることができます。
ここでいうのは、テイラーシステムのように管理者と労働者を分離した科学的な作業管理法ではなく、あくまで主体である私自身の意思と決定によって働くプロセスです。

シジフォスの徒労

ビジネスであろうがスポーツであろうが人間関係であろうが受験勉強であろうが、科学的方法論は何にでも適用できるわけですが、分かりやすくするための例として、私が飲食店の洗い場の仕事をしていると想定します。

洗い場の職務内容といえば、かえってきた食器を洗浄機にかけて、食器棚に戻すというシンプルな作業です。
朝から晩まで同じ作業をして、それを一年250日以上繰り返し続けるわけです。
一見それは、三途の河原で石を積み上げては鬼に崩される子どもの、無限の徒労のようにも思えます。
貧しさのために子どもの頃からそういう苦労をしながら学者を目指した作家のアルベール・カミュは、それをシジフォスの神話にたとえ、無限の徒労に黙って耐え抜く実存的人間のヒロイズムを謳います。

しかし、これはこれでヒロイックで格好は良いのですが、まったく生産的でもなく、楽しくもありません。
私がここでもっとよい案として提出するのが、科学的方法論の仕事への適用です。

科学的プロセス

先ず、科学と同様に、目的となる理念を立てます。
洗い場の仕事でいえば、「より早く、より衛生的に、より安全に(食器の破損及び怪我の防止)」などでしょうか。
その目的に向けて、まずどうすればよいかの方法を考え(仮説)、その方法を実行しながら働き(実験)、その日が終われば成功と失敗(実証と反証)を反省し、成功すれば次のステップへ移行し次の課題の仮説を立て、失敗すればあらたに仮説を練り直します。
一日一生懸命働いて(実験)、その実験結果を反省し新しい方法を考え(仮説)、次の日にその仮説を実験しながらまた働く、の繰り返しです。

この繰り返しは、シジフォスの徒労の繰り返しと何が違うのでしょうか。
第一に、この科学的な反省と修正のプロセスを踏めば、驚くほどのスピードでその仕事が上達するということです。
第二に、常に問題意識を持って毎日の仕事をするため、まるでゲームを攻略するかのような楽しさと達成感があるということです。

物理的な場と心理的な場の違い

問題意識をもたずにただ重い石を運ぶだけのシジフォスは、見た目の通り毎日同じことの繰り返しです。
しかし、問題意識を持つ者にとっては、毎日外観は同じことの繰り返しでも、心理的には日々まったく違う状況の中で生きているのです。
テレビゲームのレースゲームで同じステージを、何の問題意識もなく繰り返しやらされれば、それは地獄でしかありません。
けれど、それが同じステージのタイムアタックという問題意識になれば、コースのひとつひとつの細部をより効果的に攻略する試行と実験が生じ、見た目は同じコースでも、毎回アタックする度に、違うコースとして認識されるのです。
万一、同じコースと感じられたなら、それは自分が成長していない証拠であり、同じステップを踏んでいる停滞状態だからです。

どういう順番で食器を洗えば一番時間的ロスが減るか、食器洗浄機のカートにどう並べれば一番綺麗に沢山洗えるか、食器をどういう風に扱えば割れるリスクが減るか、等、毎日そういう問題を立て、仮説的にその解決方法を考え、それを実行していくことによって、確実に進歩していくのです。

仕事自体の楽しさと、仕事の上達は比例します。
仕事が楽しくないなら、問題意識を持たずに、あるいは持てない仕事をしている証拠です。
仕事が楽しいのに上達しないなら、それは人間関係などの仕事に付帯する二次的なものを楽しんでいるだけであって、仕事自体はおざなりにしている証拠です。

作業に対して問題意識を持つかどうか

これらの方法はスポーツ選手のプロセスと同じです。

たとえば、女学生のAさんは、毎朝エクササイズとして90分走っています。
同級生で国体の長距離走者を目指すBさんは、毎日授業の後、練習として90分走っています。
一年後、最初は同じく9kmを90分で走っていた両者に倍以上の開きが出ます。
Aさんは90分で10kmを、Bさんは90分で25kmを走れるようになりました。

365日×90分で同じ550時間ほど走ったにもかかわらずこれだけの差が出るのは、結局、仮説と実験という科学的なプロセスの問題意識を持てているかどうかの違いの一点です。

問題意識を持っても停滞するなら、次のステージへ

物事の上達は、上へ上がれば上がるほど、それに必要な努力量が指数関数的に増大します。
90km/hの球速のピッチャーが120km/hの球速になること(30km/hアップ)はたやすいですが、160km/hの球速のピッチャーが10km/hアップの170km/hになるには、その何十倍もの努力が必要です。
トッププロのレベルになれば、紙一重の差を抜け出るために、死ぬほどの努力が必要になるわけです。

どんな仕事でも一般的なレベルのものなら、科学的な反省と修正のプロセスによって確実に上達し、飽和状態に近くなります。
そうなれば、いくら問題意識を高く持っても、ある種の停滞感から抜け出せなくなります。
その時はもう、次のステージへ移る時です。
自分の今の経験を生かしたより高レベルの同職種の場所へ移るべきか、それともまったく新しい場所へ行くべきかは分かりません。
いずれにせよ、このプロセスを知るかぎり、どんな職種に就いても、ある程度の高いレベルまでは、確実に昇ることができます。
その先にある頂きに立つためには、才能や、運や、環境などの要素が必要になってきますが。

大したレベルでもないのに、才能や、運や、環境のせいにする人がよくいます。
しかし、そういう要素が必要になるのは、もっともっと高いレベルにいる人達の世界です。
一般的なレベルでそういう言い訳の言葉を持ち出すのは、非常におこがましいことです。
大抵の問題は、反省と修正の努力によって解決します。

(2)へつづく