「生きることの意味」(3)批判とまとめ

(2)のつづき

目的論への批判

前項、前々項における基本的な思考の枠組みとなっていたのが、古代ギリシャにはじまる「目的論」です。
特に東洋思想的な考えをもつ人の中には、それを批判する姿勢が目立ちます。
むしろ人生に意味や目的を求めることそのものが、文化が生み出す病だという観点です。
人間あるがままに生きればいいだけじゃないか、鳥が飛び、馬が駆け、魚が跳ねるように、人間も自然な姿で面目躍如とした生を営めば、「人生の意味」などという文化の病は自然と消失すると、彼らは言います。
「日日是好日」「今を生きる」「ありのまま」という言葉が流行ったり、東洋的な無為(無目的)の思想やインディアンの哲学などが定期的なサイクルで持ち上げられるわけです。

何の意味もない砂漠のような虚無の世界がニヒリズムなのではなく、本来何もないところにありもしない意味(幻想)を立てることそのことがニヒリズムなのだと。
それは何にもない砂漠に勝手に「人生の意味」というオアシスの蜃気楼を見て、行ってみたら何にもなかったと言って落ち込んでいるようなものです。

しかし、これも前項同様、程度の問題なのです。
人生設計の額縁(枠組み)を日々の営みにまで小さくしただけのことです。
類比的にいえば、鳥や馬や魚や動物は、思考の能力に限界があるため、必然的にその日その日暮らしの目的論の中で生きるしかありません。
しかし、人間は想像力の飛躍によって、人生全体の長い年月から、歴史、宇宙の終末まで、その枠組みを引き伸ばすことが出来るため、「人生の意味」という擬似問題が生ずると言っているのです。
人間が暗闇にその想像力によって化け物を見て怯えるように、見えない未来と過去に想像力によって描いた蜃気楼に悩んでいるわけです。
前項において、自分の人生そのものの無意味を、自己の外部に目的を延長することによって脱したのとは逆の方法で、解決しようとするのです。

ただ、この方法を現代社会の中で実行するのはかなり困難です。
目的論ベースで動く社会の中で個人が無目的で生きることには大きな齟齬が生じ、精神的にも経済的にも致命的な問題が起こりかねません。
社会的に余裕のあるブルジョワヒッピーや作家や宗教家のような一部の有閑階級には、無目的の思想というものが有効であったとしても、リアルな社会の中で生きる人間にはおとぎ話でしかありません。
社会の中で無目的の思想は、見世物的真似事やファッション、一時しのぎのスタイルとして消費され、その本意をまっとうされることはありません。

まとめ

行為の意味とは、行為という手段を目的へ関係付ける事によって生ずる。
手段-目的の関係付けを自覚的に設計することで、行為に意味が与えられる。
しかし、社会構造がそれを難しくするため、創意工夫によって自分独自の人生を設計することが必要になる。

それらの方法によって生きることの無意味感を脱したとしても、いずれさらに本質的な人生の虚無感というものがやってくる。
それを乗り越えるためには、自分の人生をその外部にまで拡張し、他者や世界を含んだ枠組みの中で人生を設計しなおす必要がある。
あるいは逆に、人生や生きることそのものという抽象的な枠組みで物事を観ることをやめ、日々の営みに焦点を絞る(今を生きる)ことによって、目的論という想像から生ずる擬似問題を解決する。

上述の概念的な「行為の意味」よりもっと本質的な「行為の真の意味(真意)」とは、行為そのもののプロセスの中で生ずる感覚的なものである。
そのため、「生きることに意味が無い」と言って行動を起こさなければ、永遠に生きる意味は生まれない。
行為の目的の概念的な意味や価値は社会的に相対的なものであるため、とにかく目的となる対象は何でもいいから、自分自身が興味を持ったことに対し、歩幅は小さくても自分自身を賭けていくことによって、意味のサイクルを起動することが重要になる。

ボールを追いかける子どものように私たちは生き、そして死にます。
それを無意味だというのは、書斎の窓から公園の子どもを見やる、机上の虚構に縛られ動くことの出来ない大人だけです。
自家発電の自転車のライトのように、車輪を回転させなければ未来の道は照らし出されません。
真っ暗闇で道が無いからと言ってペダルをこがなければ、永久に世界は暗闇のままです。