スピノザの真理観

真理の対応説とその批判

スピノザ以前の理念と現実を分離する二元的な世界観の枠組みの中での真理は、必然的に「真理の対応説」という、各々が自立できない、自己の外部に真理の基準を設けるような思考にならざるをえません。
「2018年5月26日東京の天気は晴れだった」という言明(理念・観念)の真理性は、現実世界のその日の天気に照らし合わせて、対応していれば「真」、そうでなければ「偽」になります。
理念は現実という外部にその真理性をゆだねると同時に、それら真偽を判定する超越的な第三者(理念と現実を跨って見ることのできる観察者)にも依存します。

しかしこの真理の対応説という立場をとると、おかしなことが生じてきます。
例えば私が真面目で優しい同僚の教師Aさんに嫉妬して、「Aさんは表では良い顔をしているが、実は麻薬の密売人だ」という偽の観念を流布させたとします。
その時、偶然にもAさんがテレビのニュースに出ていて、麻薬の密売で逮捕されます。
それは観念としては偽であったにもかかわらず、対応説的には真であるという矛盾が生じます。
逆に真としか思えないどれだけ確からしい観念(例えば科学仮説)を持っていても、それに対応する現実がなければ、偽となってしまいます。

この矛盾および不可解さを生じさせる原因は、理念と現実を分離しそれらの世界を比較し真偽を判定するという得体の知れない審判員の存在です。
この審判員の真偽判定の正当性は一体何によって保証されるのでしょうか。

例えば、「ケンタウロス」という観念には現実に対応するものが存在せず「偽」であるとなぜ決定できるのでしょうか。
未開の密林の奥の閉鎖した共同体内に突然変異の交配を繰り返した人と馬のキメラがいないとも限りません。
例えば、「地球は丸い」という観念が現実と対応しており「真」であるとした時、地球が丸いという現実を一体何が保証するのでしょうか。
私は宇宙に行ったことがなく、円い地球を現実に見ていません。
あくまでそれはメディアを通して得た知識であり、そこに100パーセントの確実性があるわけではありません。
宇宙へ実際に行って地球は丸いということ見た宇宙飛行士の証言の真実性を、一体何が保証するというのでしょうか。

この真理の対応説の真正性を保証するためは、無限の空間、時間のすべてを見渡すことのできる何もかもお見通しの超越的な判定者(神)が必要になるわけです。
さらに私が持つ観念の真偽を確認する度に、私はどこにいるかも分からない判定者である神を呼び出さねばなりませんが、あらわれた神が真正な神かどうかを判定するために、さらに上位の神を呼び出さねばならないという無限後退に陥ります。

そこでスピノザは、真理の基準というものが外部にではなく、内部にあるもっと直接的でリアルなものだとします。
ある概念のかたちが曖昧な場合は、それの反対の概念を検討することによって明確になります。
「真なる観念」とは反対にある、「虚構」(および「偽なる観念」)を考察することによって、その規範をあぶりだします。

真理の規範は内在的にある

そもそも虚構というものは、完全に思考不可能な観念については成り立ちません。
ためしに「四角い三角」だとか「黒い白」などを想像してみて下さい。
かといって逆に、必然的なもの(例、「丸い円」「白い白」)であれば、虚構でも何でもありません。
そこから分かるように、「虚構」とは不可能性と必然性の間にある概念です。
或る観念が不可能とも必然とも言えない間にのみ生ずるものです。

もし私が全知全能で世界の事物のすべてを知り尽くす神なら、すべての必然性と不可能性を知っており、何ものをも虚構することができないでしょう。
私が「ケンタウロス」を虚構できるのは、いつかのどこかで人間と馬の交配生物が存在しうるかもしれないという、必然と不可能の間の可能性の中で想像する「可能的なもの」だからです。
虚構とは「可能性」であり、それに対する真理(真なる観念)とは、別な可能性を考えられない「必然」のことです。
真理の規範とは、事柄の必然性です。

地球が平らだと信じられ、それが真理であった時代、地球が丸いということはたんなる虚構(可能性)として思い描かれていただけでした。
しかし、地球が丸いということを実証する事例が無数に枚挙され、とどめに人間が宇宙の外から地球を見た時、「地球は丸い」ということ以外のあらゆる可能性を思考することができなくなり、その虚構(可能性)は必然(真理)へと変わります。

もしデカルトなら、さらに懐疑をかけて、宇宙飛行士である私が「地球が丸い」という事実を眼前にありありと経験する時、それは宇宙物質が脳に麻薬のように作用し幻覚が見せる地球の偽りの姿である可能性がある、とするでしょう。
けれどこの議論は、地球の形の真偽のみを議論している場合、何の関係もないものです。
あくまでデカルトのそれは経験の自明性や認識論の議論であって、論点のすり替えです。
例えば、私が計算式の真偽を判定して真である解答を出したと思った時、誰かにそもそも論として「数学自体が相対的な社会的取り決めのゲームなので真理ではない」といわれても、数式の真偽判定とは何のかかわりもない議論です。
それと同様に、地球が丸いということを宇宙から見た時、その丸さ以外の可能性を考えることは不可能です。

偽なる観念

では、「真なる観念」が必然的なものであり、「虚構」が可能的なものであるなら、「偽なる観念」とは何でしょうか。
それは不可能なもの(事物の不可能性)が、それに気付かれずに真だと思い込まれている時に生ずる観念です。
たとえば、宇宙ステーションから地球をぐるぐる回りながら見るとき、普通必然的に地球は丸いことが真として認識されます。
しかし、ある人が「地球は平板だ、ただ宇宙ステーションの公転周期と地球の自転周期が一致しており、月の様に同じ面を見せ続けるから常に形が丸く見えるだけだ」と言ったとします。
これが偽の観念です。
月と違い回転と同時に地球の柄も変わっているため、丸い地球は必然であるにも関わらず、そこを見落として不可能な形(平盤)を真だと思い込んでいるのです。
(バカみたいな話に思えますが、意図的にこれを見落とし議論を組み立てる懐疑論者の詭弁に、私たちは容易に騙されます)

自己充足的な世界

現時点で与えられた情報の中で、必然、可能、不可能を分ける規範は、あくまでもそのものに内在してあります。
地球が丸いという観念が真であるかどうかをはかる時、外部の現実に照らすことはたんなる情報収集であって、真理の判定基準そのものは常に既に与えられているわけです。
内的に真理の判定基準を持っているからこそ、そもそも外的現実の何をどう観察すればそれを実証的な情報として、観念と経験の真理性を確保できるかが分かるのです。
水平線の湾曲と星の動きから、地球は丸いことが真理(必然)だと判定できるのは、この規範があるからであって、もしこれがなければ、水平線の湾曲も、星の動きも、地球は丸いことも、すべては可能性の混沌の海のなかにたゆたい存在するだけの靄のようなものになります。
ただの虚構と科学的な仮説との違いは、この真理規範を明確に意識して観念や経験を組み立てているかどうかの違いです。