人生問題考察「自分が嫌い」

※巷にあふれる日常的な疑問を、哲学的に考えてみる。

問題

自分が嫌い。

考察

単純に、自分が嫌いなのであれば好きになればいいんです。
生まれたときは、自分は自分を好きでも嫌いでもなかった。
生きていく過程で自分が自分を嫌いになるような行為をして今の自分を作り上げてきたのなら、今度は自分が好きになれるような自分を行為によって作っていけば良いだけです。

朝、目覚まし時計が鳴って止める。
このまま二度寝する自分と、きちんと起きて余裕を持った朝支度をする自分、どちらを自分は好きになるか。

満員の通学電車で席に座っていると、前に腰の曲がったおばあさんが立つ。
席をゆずる自分と、席をゆずらない自分、どちらの自分を好きになるか。

授業で先生に当てられて答えられなかった問。
分からないままにしておく自分と、家に帰って調べる自分、どちらが好きか。

そうやって日々の行為の中で、少しずつでも自分が自分を好きになれる選択肢を選んでおけば、いつか自分を好きになれます。
自分の中に理想の人間像があって、現実の自分がそれと比較して劣っているからこそ自分が嫌いなわけです。
行為によって努力して、その理想に近付かない限り、自分は一生自分を嫌いなままです。

それができないならいっそ、そんな理想そのものを捨ててしまい、ただ今現実にいる、あるがままの自分に満足するしかありません。
寝坊して学校を休もうが、お年寄りを押しのけて座席を奪おうが、「私は私であるがゆえに今の自分が大好きだ」といえる人間になればいいのです。
どんな時でも自分を全部肯定できる根拠のない自信(自分を信じる)をもてば良いのです。
根拠があればそれは信じるとは言わず、たんなる当然です。

自分を好きになるためには、このどちらかしかありません。
このどちらの方法も取らない人は「嫌いな自分」を「好きな自分」のための道具(手段)として使っているだけなので、別に好きになる努力は必要はありません。

例えば、「自分のことが嫌いだ」と言う謙虚で慎み深い、そんな自分が大好きな自己完結した人。

例えば、駄目な生き方(行動)をしておいて、「自分が嫌いだ」という反省の言葉でその罪悪感を帳消しにし、何度も同じ行動をする人。
そういう人にとって「嫌いな自分」は、好き放題やった後にその責任をなすり付けるための便利なスケープゴートなので、そもそも無くなると困ります。
勉強せずに寝る(罪悪感)→「私はなんて駄目な奴だ!(リセット)」→また勉強せずに寝る(罪悪感)→・・・繰り返し。

挙げればキリがありませんが、それは疾病利得に似て、「嫌いな自分」というネガティブなものが構造的に自分の利益として組み込まれている人なので、好きとか嫌いとかいう前にそれを自覚しなければどうしようもありません。
自覚した上で、それでも「嫌いな自分」を無くすのか、と。

結論を言うと、自分が嫌いなら好きになればいいんです。
もし、好きになろうという努力をしないなら、そもそも好きになりたくない、「嫌いな自分」が何らかの形で自己利益になっているため捨てたくないだけの話です。