「夢をもつことの意味」

夢の裏側を見る

私たちは一般に夢をもつことがよい人生を送るための方法だと考えています。
しかし、どんなことでも一長一短があるはずなのですが、あまり夢をもつということの短所や、反対の夢をもたないということの長所を挙げる人はいません。
この項ではそんな夢をもたないという生き方にスポットをあてて、考えてみたいと思います。

夢をもつことの短所 その1、硬直性

まず、一般的な夢を持つ生き方のよいイメージを描き出してみます。
それは未来のビジョンをしっかり持って完成形のイメージを作った上で、その目的を達成するにはどんな手段が必要かを逆算し、ロードマップのようなものを描いて、目的にいたるその道(ロード)を着実に現実化し進んでいく。
まさに王道ともいえる生き方で、芯が通っていて格好よく感じます。
若者に対し「夢を持て」という人の多くがもつイメージです。
ビジネス書などでも、最も合理的だと推奨される生き方です(エッセンシャル思考の項を参照)。

しかし、それは格好は良いかもしれませんが、全面的に合理的だというわけではありません。
会社内の生産作業のような安定した工程においてそれは合理的であっても、人生のように不安定な要素が大きくからんでくるものに対し、このプロセスが万能薬として通用することはありません。

夢の達成を料理の完成に喩えて説明してみます。
まず、料理の完成形をしっかりイメージして、そこへいたるためのレシピ(ロードマップ)を描きだし、それに沿って作業をこなすことで、確実に目的の料理を完成させることが出来ます。
しかし、これが可能なのは食材が豊富に供給され、調理器具が整っており、キッチンが安定して存在しているからこそ可能なプロセスなのです。
仮にこれがパン作りのレシピだとして、ふくらし粉がなかったり、急にオーブンが使えなくなったり、キッチンのエアコンが壊れ醗酵温度を確保できなければ、はじめにイメージした理想の完成形の料理は作れなくなります。
ほんの些細なアクシデントで、夢は壊れてしまいます。
夢をもつには、先のヴィジョンが立てられる程度に安定した環境が必要であり、あまり不安定な環境下にある人には向いていない方法です。

夢をもつことの短所 その2、非創造性

夢をもつことの第二の問題点としては、その非創造性が挙げられます。
工場のプロセスのように目的に向かうその生き方は、まるで機械です。
それは、あらかじめ立てた完成形(夢)のイメージから出ることのできない、非常に閉塞した事務的な世界です。

例えば私が10歳のころに読んだ偉人伝のシュヴァイツァーに憧れて、「貧しい外国で医師として働く」という夢を持ったとします。
それに必要な手段、医師の資格取得、資金集め、外国語の習得など、シュヴァイツァーと同様に期間を定めてそれらを手にし、彼より少し遅い40半ばでその夢をかなえたとします。
しかし、私は45歳になっても、10歳の頃に描いた夢(完成のイメージ)までしか進んでいません。
いわば10歳の頃に立てた「夢」という限界設定のせまい世界の中でしか生きてこなかったわけです。
本当はもっと違う選択肢があるということを、うすうす感じていたのではないでしょうか。
35年もあれば、ふつう人は変わります。
35年間、同じ目的を持ち続けるということは、現実的にはかなり異様です(神経症的症例に近い)。
しかし、シュヴァイツァーという理想が、成長した自分にとってもう理想ではないと無意識的に分かっていても、夢という名の足枷がそこからの逸脱を許さず、無理に自分の可能性を奪い続けている危険性があります。

私の現実は、私が最初に立てた頭の中のイメージ(観念)を、一生追い越すことができません。
私の人生は、その夢という観念のためのたんなる作業工程であって、そこにクリエイティブな創造性が発揮される余地はありません。

夢をもたないことの長所(その1、柔軟性)

では、夢(目的)を持たない生き方とは、どういうプロセスでしょうか。
端的に言えば、それは先ずアクションを起こしてから目的を考えるということです。
ある目的へ向けて旅をするのではなく、目的は列車に飛び乗ってから考えるという(一見)場当たり的な生き方です。
レシピに載った食材を揃えにスーパーに行くのではなく、まずスーパーに行ってから、安い食材や旬のもの、見たことのない物への好奇心など、今の自分の必要や興味に合わせて買った食材から、最善の献立(目的)を決めるという在り方です。

創造よりも技術を重視する真面目な日本人にとっては、この場当たり的で芯のない素人くさいプロセスに対する評価は低いかもしれません。
しかし、本来はこの場当たり的なあり方こそが、ものづくりの本質であったはずです。
茶人が旅先で手に入る場当たり的な食材で即興でつくりふるまう茶懐石の一回性こそがクリエイティブの本質であって、現在高級和食店で月替わりで出されるレシピのがっちり決まった懐石料理は、大半が機械的作業(技術)の魅力です。

この夢を持たない生き方の第一の長所は、どんな環境や境遇もすべて味方にできるということです。
反対に前項の夢を持つ生き方では、自分の夢にそぐわない環境はすべて敵対してきます。
例えば、私がオペラ歌手に成るという固定した夢を持っていたとして、ある日突然難治の吃音になってしまえば、それで私の夢は終わってしまいます。
しかし、私が夢や目的を固定せずに生きていれば、「吃音になったならそれを生かした歌手になればいい、ことばの意味を必要としないスキャットをベースにした歌を歌おう(※注1)」と、その不遇だった環境が仲間に加わります。
「卵の黄身のてんぷらが作りたい、でも黄身が割れてしまったから僕の夢は潰えた」ではなく、「卵の黄身のてんぷらが作りたい、でも黄身が割れてしまった。それならそれを天粉に混ぜ込んで菓子を作ろう」という環境と宥和した生き方です。

※注1、スキャットマン・ジョンの実話
自身の障害である吃音症を逆手に取った模倣が困難なスキャットと、1回に4つ近く音の調子を変えるという珍しい歌唱法(このテクニックは古いヒンドゥー教の喉で歌う歌唱法から取り入れた)を用い、独特のジャンル『テクノスキャット』を開拓した。(ウィキペディア「スキャットマン・ジョン」より)

夢をもたないことの長所(その2、創造性)

第二の長所は、その創造性にあります。
夢を持つ生き方では自分の現実が自分の夢のイメージ(観念)を超え出ることができないわけですが、夢を持たない生き方では、現実が私のイメージをどんどん追い越していくことになります。
わたしが目の前に与えられたものに集中し、ただ興味にしたがって一手一手、自分を賭していくうちに、いつのまにか自分のイメージをはるかに追い越すような場所へきていることがよくあります。

例えば映画監督の北野武は、まさか漫才師を始めたときに自分が将来黒澤明に並ぶような名監督や国立大学の教授になるとは想像すらしていなかったはずです。
芸術映画の助演男優として抜擢された偶然や、監督が倒れて代役としてメガホンを取るという偶然の中で、自分の興味にしたがって目の前の面白いと思うことに自分を賭しているうちに、勝手に名監督に「なっちゃった(本人談)」わけです。

それは絵を描くことに似ています。
もちろんそれは受験絵のように完成形(エスキース)をがっちり決めてそれを模写するような類の機械的な絵ではなく、自由に描く絵です。
画家はただ最善だと思う場所に一筆、一筆絵の具を置いていき、絵を完成していきます。
出来上がってみるまでは、それがどんな絵になるか画家自身もわかりません。
ただ、作品が完成したときに、自分がどういう絵を求めていたのかが明確になるのです。
目的のために動くのではなく、動き動いたその先に目的が生成するのです。
はじめに夢があってそれに向かうのではなく、それは動いていくことによって自分の夢を作っていくという、生きた夢です。
夢が主人で私の現実がその奴隷なのではなく、私の現実が主体で夢はその航跡(みお)のようなものでしかありません。

夢はかなえるものではなく作るもの

夢を持つ持たない、どちらが優も劣もありません。
状況や個人の性向やタイミングの中で、有効なものを使い分ければよいのです。
問題は、夢を持たねばならないという固定観念の中で、あるいは夢の持てない環境の中で、どうすればよいか分からなくなっている人です。

そういう人は、とにかく現状を把握し、自分の手元に何があるか整理確認し、その中でもっとも自分の好奇心をくすぐるであろう一手に、自分自身を賭していけばいいのです。
一歩前へ踏み出せば、景色も環境も変わります。
そしてそのあらたな環境の中で、また自分にとって最善であると思う一手に自分を賭していき・・・、その繰り返しです。
そうしているうちに、自分が自分に成っていくというある種の充足感のようなものが得られるようになるはずです。
私の一筆一筆のアクションの後に絵が完成していくように、私の行動の後に未来の夢の形が形成されていきます。
もったいぶった夢など目指さなくとも、どんどん先へ進んでいきます。
それは夢に引っ張られる単なる車輪などではなく、推進力が私自身にあるエンジン付きの車です。
この自立した人にとっては、一般に言われる「夢」など現実の影であって、それは道路標識程度の記号でしかないことに気付くはずです。