西田幾多郎の『善の研究』

哲学/思想 宗教/倫理

 

主客未分の純粋経験

デカルトが既存の一切のものを徹底的に疑って疑いようのない直接的な知識「コギト」を根本原理・前提として哲学を構築したように、西田はそこに「純粋経験」を置きます。
「純粋経験」とは、あるがままの直接経験の事実、すべての始発点になる根源的知識です。

例えば私が静かな湖畔で本を読んでいたとします。
ふいに「バシャッ」と何かが水に落ちる音がします。
その瞬間、わたしは「ん!?」とそちらを見やります。
(この「ん!?」という状況が純粋経験の段階です)
ここから、「ああ、舞い降りた鳥が下手な着水をしたのか」となります。
(この具体的な事物の分別ができている状況が通常の意識です)

ここでは、まず最初に「ん!?」という全的な状況を把握している統一的な直観的知識があって、そこから「鳥」「着水音」「波紋」という客体的事物と、それを見る「私」という主観が事後的に発生します。
主-客未分の純粋な経験や直接知から、主-客の分かれた意識的な経験や、抽象化や言語を介した間接的な知識が分化発展してくるわけです。

例えば私が命綱なしで断崖絶壁を上っていたとします。
落ちたら死ぬという極限的な集中状態で、私は我を忘れ必死で登ります。
上りおえた時、私は反省的にその行為を思い出し、震え上がります。

考える余裕すらない極限的なこの集中状態が純粋経験の瞬間です。
しかし、意識的には考えていないにもかかわらず、私の今までの過去において培った物理的経験の知識を総動員して、最善の岩を瞬間的に選びながら上っているわけです。
自我意識のまだない赤子が母の乳房と合一しているような、主観-客観が一体化した根源的な知識のあり方です。
上り終えて、意識によって「私」「崖」「奈落の底」という、主観と客観が分化した事物が生じたとき、その事物の関係性に怯え震えるのです。

スポーツや芸術に習熟した人が、無意識的であるにもかかわらず、圧倒的な知識を必要とするアクションを流麗に行うときなども純粋経験です。
心理学でいうフローや至高体験をより先鋭化したような状態です。

 

主客分化の意識経験

純粋経験において知識は全体的で統一的であって、その一般性(普遍性)から特殊が分化し、個々の事物が発生します。
意識は、この「主観である見るもの」と「客観である見られるもの」の分化によって生じます。
純粋経験の自己発展として、意識経験があるわけです。
ソシュールの項を読んでいただければ、事物というものが全体から分節(分化)発展することにより生まれることがよく分かると思います。

しかし、純粋経験は、言語を媒介とした分節的な知識ではとらえられないため、意識に上ることがありません。
これにより、知識はその出自(「純粋経験」)を忘却することになります。
純粋経験においては、差別や対立を内に含みつつ、統一されている状態です。
その統一性が忘却されるということは、分化、分節、分別された個々の事物や知識がバラバラになり、差別と対立のみが残る世界となってしまいます。

キーを打つ私の五本の指(父・母・兄・姉・赤ちゃん)は、それぞれ別々の個性と用途を持ちながらも、統一的に働いて、流麗に難しい動きをやってのけます。
この統一的な五本の指がその統一性を失って、差別的に対立し個々バラバラに動き出したら、仕事になりません。
人間に生ずるすべての問題は、この純粋経験の統一的な真の実在を忘却することによって生じるものなのです。

 

西田にとって「善」とは、その各々個人の自己実現です。
自己実現といっても、アメリカの心理学派のような個人の利益追求をさしているのではなく、あくまで純粋経験の実在の統一力に合致した「真の自己」を実現するということです。
前の例の五本の指がバラバラに利益を追求し対立しあうのでなく、各指がその根源である手という統一的実在を土台にしつつ自己発展し、自らの面目躍如とした個性をみがくことによって、世界と合一する状態です。
自己を実現すればするほど、他者との対立は少なくなり統一へと導かれる、「対立すなわち統一」の世界です。
この純粋経験における実在の無限の統一力を忘却し、ただ闇雲に自己を追及すれば、それは利己的対立の万人闘争の世界となり、逆に統一力のみを追及すれば、個性を失った全体主義的な死の世界になります。

この自己と純粋経験における真の実在(世界・宇宙)が合一し、人格的統一「真の自己」が実現されたとき、「善」が生ずるのです。

(簡単な具体例はこちら、および鈴木大拙の項を参考にしてください)

 

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