「生きることの意味」(2)行為の真意

(1)のつづき

人間存在としての無意味

前項のように、手段-目的の関係性を自覚的に意識し再構築して、人生を自分自身のプロジェクトによって設計することで、社会の中での生の無意味感を脱することができます。
しかし、いずれやってくるさらに強固な無意味感というものが存在します。
いわゆる実存的不安と呼ばれる虚無感や、生老病死と向き合った時に生ずる無力感などです。

この手段と目的の関係というものは、延々とさかのぼっていけば、最終的に虚無にたどり着きます。
例えば、今わたしが勉強するのは医大に合格するためであり、医大に行くのは医者になるためであり、医者になるのは地位や経済的な裕福さを得るためであり、その裕福さは快い生を得るためのものです。
しかし、この最終的な快い生、人生の「快(ベンサム)」や「幸福(プラトン)」は、一体何のためのものなのでしょうか。
ここまでくると、手段と目的関係の終点にたどり着き、その先の目的そのものが無くなってしまいます。
富と名声、人生におけるすべての世俗の幸福を手にしたトルストイは、その著作『懺悔』において、その先にある無意味感を吐露します。

前項で述べたように、「意味」というものは、個々の事象間の関係性の網の中でしか生じないものです。
だから、その個々の事象の容れ物である私の人生という全体には「意味」を適用することは出来ないのです。
私の人生そのものに意味がないのは当然のことなのです。

自分の人生を出るという生き方

だから、もし、人生という全体に意味をもたせたいのなら、その私の人生の外部にさらに何か(神や来世や歴史など)を仮設して、人生という全体をその虚構の目的に対しての手段にするしか方法がありません。
老いや病や死に向き合った時、人が神をもとめる理由がここにあります。
人生の全体を知ってしまった時、人生そのものを懸ける究極目的として「神」や「真理」などという目的を立てなければ、私の生のあらゆる行為に「意味」が無くなるからです。

いわば、私の無意味な人生そのものを、神や、来世や、歴史や、仲間や、家族や、美や、真理などの外部の目的ための手段として捉えることで、私の人生そのものに「意味」を持たせることができるのです。
神のために生きる宗教者、国家のために生きる右翼、共同体のために生きる左翼、歴史のために生きる野心家、美のために生きる芸術家、真理のために生きる科学者、から、家族のために生きる、愛護動物のために生きる、仕事のために生きる、趣味のために生きる、一般人まで。

しかし、真理の追究のために人生を懸ける科学者と富や名声のために研究する科学者、神のために生きる宗教家と富や名声を得るための手段として宗教を採る者、等、自分の人生内のための行為か、自分の人生外のための行為かの違いは外観だけからは分かりません。
それらはあくまで程度の問題だからです。
自分の人生内の枠の中で絵を描く(人生設計する)か、他者や世界を含めたもっと大きな枠内で描くかの違いです。

意味という感覚

結局、重要なものはその枠の大きさではなく、自分の行為を他のものと関係付け、目的に向けて走るという行為そのものです。
例えば、こどもがボールを投げる、それを嬉しそうに取りに行く、手にしたボールをまた投げて、またそれを取りに駆け出します。
飽きることなくこの動作をくりかえすこどもは、一体何の目的でそれをするのでしょうか。
ボールに意味があるからではありません。
単純にその運動が楽しいからです。

大人になっても、それは変わりません。
ボールという目的を未来へ投げかけ、その目的へ向かって走り、それを達成し、また新たにボール(目的)を投げて、それに向かって走る。
人生の意味とは、その「過程そのもの」が生じさせる<感じ>です。
行為の意味の本質とは、論理的なものではなく、行為そのものに伴う充実感や躍動感のような原初的な感覚です。

時々、投げたボールをひろいあげて、ふと考えます。
「何のために私はボールを投げ、それを取りにいくのだろう」と。
それは「走る(生きる)」ためです。
ただ、走るためにボールを投げるのです。
生は活動に似、死は静止に似ています。
生きているという<感じ>は、活動することによってしか得られません。
もちろん活動といっても、物理的なものに限らず、見る聴く考え感じるのような精神活動も含みます。
だから、「人生に意味がない」と頭の中だけで考え続けている限り、「意味」は発生しません。
なぜなら行為の「意味」は、目的を持った活動の中でしか生じ得ない概念だからです。

意味は目的の中ではなく、行動の中にある

目的とする対象は、それぞれ各々の人が興味を持って行動を起こす動機付け(モチベーション)を生じさせるものであれば、何だっていいのです。
仮に私が、何秒息を止められるかの記録に人生を懸けたとして、世間の人達はそれを無意味な行為だと言って馬鹿にします。
しかし、それは彼らにとっての目的と私にとっての目的が違うことから生ずる無意味でしかありません。
彼らにとって息を止めることは行動のモチベーションにならないため、無意味だと言っているだけです。
逆に私には世間一般の幸せ、金や権力や出世や家庭の幸福などは行動を起こすモチベーションにならないため、無意味なのです。

神の求道もアイドルの追っかけも、ノーベル賞受賞も会社のゴルフコンペ優勝も、名画収集も川原の石ころ収集も、同じことです。
行為の意味の本質は、目的の社会的な意味と価値概念ではなく、その人自身が行動を起こし、ボールに向かって走り出させる何かです。
勿体ぶった言い方になりますが、目的に意味があるから追いかけるのではなく、追いかけるから意味がある、わけです。
行為自体の意味とはそのプロセスであり、同時にその際に生ずる感覚です。

(3)へつづく